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竹内 理三︵たけうち りぞう、1907年︵明治40年︶12月20日[1] - 1997年︵平成9年︶3月2日[1]︶は、日本の歴史学者。専門は日本古代史・中世史。号は竹犂︵ちくり︶。文学博士。東京大学名誉教授。東京大学史料編纂所所長を歴任。愛知県出身。
1907年︵明治40年︶12月20日、愛知県知多郡岡田町︵現・知多市︶[1]にて、機織工場の共同経営者である父・竹内仁重と母・志んの三男として生まれる。
岡田尋常小学校を経て、1920年︵大正9年︶、愛知県立半田中学校︵現・愛知県立半田高等学校︶に入学。背が低く猛勉強をする竹内は、彼を気に入らない連中からいじめを受けたという。1924年︵大正13年︶、第八高等学校に入学。在学中に同級生と史学研究会を結成し、その会報誌﹃瑞陵史叢﹄の創刊号に竹内の処女論文﹁有史以前の日本﹂を寄せている。また、指導教官である国文学の教授石井直三郎より、﹃万葉集﹄の講読を受けた[1]。これが竹内の奈良時代史研究の下地となった。
1927年︵昭和2年︶、第八高等学校を卒業[2]し、東京帝国大学文学部国史学科に入学。同期生に川崎庸之・宝月圭吾がいた[3]。在学中、東洋史の講義の聴講に熱心であったという。1930年︵昭和5年︶に東京帝国大学文学部国史学科を卒業[4]。卒業論文は﹁奈良朝時代に於ける寺院経済の研究﹂。寺院経済をテーマとしたのは、竹内の父が郷里の檀家総代として寺院経済に関与していたこと[1]、辻善之助が政教中心の仏教史を研究していたので、経済史側面からの仏教史を明らかにしたかったのが主な理由だという。卒業論文の題目を決定する際、平泉澄から﹁そんなもんで歴史が書けますかね﹂と言われたという[5]。これは、当時皇国史観と唯物史観が歴史学界の中で激しく対立していたことが背景にある。この卒業論文は翌1931年︵昭和6年︶に大岡山書店から出版︵﹃奈良朝時代に於ける寺院経済の研究﹄︶されたが、これは竹内の恩師である辻善之助のすすめによるという。
東京帝大卒業後、竹内は東京帝国大学史料編纂所に入所。大日本史料第一編部に配属された。史料編纂所に在籍中も精力的に著述を重ね、竹内の荘園史研究の萌芽というべき﹃日本上代寺院経済史の研究﹄︵1934年︶や、さらに発展させた﹃寺領荘園の研究﹄︵1942年︶を著している。
1943年︵昭和18年︶から翌年にかけて奈良時代の史料集﹃寧楽遺文﹄を刊行した。これは、竹内が卒業論文作成時に蒐集した史料を整理したもので、﹃大日本古文書﹄が入手困難であった当時において若手研究者を中心に重宝された。
竹内の経歴を語る上で外すことができないのは、大著﹃平安遺文﹄の刊行である。1947年︵昭和22年︶から刊行されたが、太平洋戦争敗戦に伴う経済界の混乱によって出版の継続は難しい状況にあった。1952年︵昭和27年︶に、文部省の研究出版助成金を受けたことによって劣悪な出版状況が改善され、﹃平安遺文﹄の刊行が円滑となり、1957年︵昭和32年︶第9巻の刊行を以て一応の完成を見た[6]。この﹃平安遺文﹄の刊行によって、平安時代史研究の環境が整備された。その後、鎌倉時代の史料を蒐集・整理した﹃鎌倉遺文﹄も刊行され、奈良・平安・鎌倉時代史研究の環境整備は竹内の功績に負うところが大きい。
また、1958年︵昭和33年︶に﹃寧楽遺文﹄﹃平安遺文﹄の完成により朝日新聞社より朝日文化賞を受賞した。