別府節弥
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別府 節彌︵べっぷ せつや、1904年3月4日 - 1992年5月17日[1]︶は日本の外交官。初代ダブリン総領事。初代ラオス駐箚特命全権大使。元バチカン駐箚特命全権大使。
別名、別府清。
経歴[編集]
●高知県出身[1] ●1921年 第一高等学校卒業 ●1924年10月 文官高等試験外交科合格[2] ●1926年 東京帝国大学法学部卒業[3] ●1926年3月 外務省入省︵イギリス書記生︶[4] ●1927年12月 在ロンドン 領事官舗[5] ●1929年4月 在ベルギー 外交官舗[6] ●1931年6月 兼 亜細亜局第一課[7] ●1932年8月25日 清から節彌に改名[8] ●1933年5月 亜細亜局第一課 外務事務官[9] ●1933年12月 在中華民国 上海公使館三等書記官[10] ●1935年5月在中華民国大使館三等書記官[11] ●1935年12月 兼 欧亜局第二課[12] ●1936年3月 文化事業部第一課 外務事務官[13] ●1939年1月 在リバプール領事[14] ●1940年1月 スイス公使館二等書記官︵ノルウェー・デンマーク兼勤︶[15] ●1940年6月 イギリス大使館二等書記官兼領事︵在リバプール︶[16] ●1940年12月 イギリス大使館一等書記官兼領事[17] ●1942年1月 スイス公使館一等書記官︵ダブリン出張駐在︶ ●1943年5月 ダブリン総領事[18] ●1948年 帰朝 ●1959年 駐ラオス日本大使 ●1962年 駐バチカン日本大使 ●1965年5月 日本国際問題研究所 理事長 ︵1968年4月まで︶[19] ●1992年5月17日 心筋梗塞のため死去[1]栄典[編集]
●1927年12月 従七位[20] ●1929年10月 正七位[21] ●1930年6月 ベルギー国 クーロンヌ勲章︵シュヴァリエ︶[22][23] ●従六位[11] ●勲六等[13] ●1938年2月 正六位[24] ●勲五等[15] ●1941年2月 従五位[25] ●正五位 ●1974年 勲二等旭日重光章[1]戦時中・敗戦後のダブリン総領事[編集]
1941年の開戦に先立つ1940年、英国のリバプール領事であった別府は、イースター蜂起をきっかけに英国から分離していたアイルランドに民家を借りて領事館を開設し、早くから日本とアイルランドの関係深化に努めた。第二次世界大戦中、中立国であったアイルランドでは諜報合戦が繰り広げられており[26]、日本側はわずかな人員︵領事と副領事のみ︶であったにもかかわらず、十分に機能したというのは別府の功績によるものが大きい。当時アイルランドは英国と敵対しており、1942年2月15日に英国軍が日本軍に降伏したシンガポール陥落の際には、反英活動のリーダーであったトム・マリンズが食料を提供し、駐ダブリン日本領事館にて祝賀会が行われたという。[27] 終戦時の調整においても別府は重要な役割を果たしており、1945年8月8日にジョセフ・グルー米国務長官代理の﹁日本人が意図すれば戦争は明日にも終わる﹂との発言をブレナン駐アイルランド米国大使から聞き出して外務省へ報告し、引き続いて10日にはアイルランド外務次官より、グルー国務長官代理が﹁皇室存続の日本の要求を米英は受け入れる﹂との見解を示しているという情報を入手し日本へ打電している。この﹁国体護持の確証﹂が14日の御前会議の聖断の根拠の一つとなった可能性があるとされている。これらのやり取りの電報は英国政府暗号学校により傍受解読されており、国立公文書館に保管されている。 [28] 敗戦後、別府は領事館内の資産や文書の引き渡しを求める連合国側に対して、アイルランド政府の陰からのサポートを受けながら、機密文書を処分する等の抵抗を三年間続け、1948年の帰国後にSCAPに拘束された。[29] 司馬遼太郎は﹃街道をゆく 愛蘭土︵アイルランド︶紀行II﹄で別府のことを﹁大戦下の籠城者﹂と表現した[30]。親族[編集]
著書・翻訳書[編集]
- 国際連合安保理事会における論議の若干点[34]
- ワールド・ライブラリー「アイルランド」, ジョー・マッカーシー著, (別府節弥 訳), 1965年
- 東南アジア開発選書, 別府節弥 著, 鹿島研究所出版会, 1967年
- ニクソン - 政治家としての横顔, スティーブン・ヘス 著, (別府節弥 訳), 1969年
- 悲劇の起源 - ベトナム戦争の歴史的背景, パトリック・ハネー 著, (別府節弥 訳), 1969年
- 「ずぼんをぬいだ」国民, タイム編集部(編集), (別府節弥 訳), 1969年
- 法秩序を造反, エーブ・フォータス 著, (別府節弥 訳), 1970年
参考文献[編集]
- ^ a b c d 『現代物故者事典1991~1993』(日外アソシエーツ、1994年)p.527
- ^ 『外務省報第六十九号』雑報, 1924年10月15日
- ^ [1]文官高等試験合格者一覧-文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)
- ^ 『外務省報第百四号』叙任及辞令, 1926年4月1日
- ^ 『外務省報第百四十五号』叙任及辞令, 1927年12月15日
- ^ 『外務省報第百七十八号』叙任及辞令, 1929年5月1日
- ^ 『外務省報第二百二十九号』雑報, 1931年6月15日
- ^ 『外務省報第二百六十号』叙任及辞令, 1932年10月1日
- ^ 『外務省報第二百七十六号』雑報, 1933年6月1日
- ^ 『外務省報第二百九十号』雑報, 1934年1月1日
- ^ a b 『外務省報第三百二十四号』叙任及辞令, 1935年6月1日
- ^ 『外務省報第三百三十六号』雑報, 1935年12月1日
- ^ a b 『外務省報第三百四十三号』叙任及辞令, 1936年3月15日
- ^ 『外務省報第四百十二号』叙任及辞令, 1939年2月1日
- ^ a b 『外務省報第四百三十六号』叙任及辞令, 1940年2月1日
- ^ 『外務省報第四百四十六号』叙任及辞令, 1940年7月1日
- ^ 『外務省報第四百五十八号』叙任及辞令, 1941年1月1日
- ^ 『外務省報第五百十六号』叙任及辞令, 1943年6月1日
- ^ [2], 『日本国際問題研究所 歴代理事長』
- ^ 『外務省報第百四十六号』叙任及辞令, 1928年1月1日
- ^ 『外務省報第百九十号』叙任及辞令, 1929年11月1日
- ^ 『外務省報第二百二十三号』叙任及辞令, 1931年3月15日
- ^ 『賞勲局上申第三十七号』, 1931年2月28日
- ^ 『外務省報第三百八十九号』叙任及辞令, 1938年2月15日
- ^ 『外務省報第四百六十二号』叙任及辞令, 1941年3月1日
- ^ The News-Herald, 1943年5月18日, P2
- ^ 『アイルランドの異色の外交官』産経新聞, 2017年2月6日, 8面
- ^ 『「皇室保持の要求、米英が受け入れる」終戦直前にダブリン領事ら日本に打電』産経新聞, 2014年8月12日
- ^ 『Winners in Pease: Macarthur, Yoshida, and Postwar Japan』Richard B. Finn 著, Univ. of California Press, 1995年12月
- ^ 日本びいきのアイリッシュ 大戦「シンガポール陥落」…首都では日本領事囲み祝賀会産経新聞、2017/2/5
- ^ [3],『日本人墓地への墓参』在イラン日本大使館, 9月23日
- ^ [4],『日本人墓地墓参』在イラン日本大使館, 2014年9月26日
- ^ 成瀬俊介氏記念追悼集, 菊池寛 編, 文芸春秋社, 1930年
- ^ [5], 別府節彌, 『国際連合安保理事会における論議の若干点』国会図書館刊行 1956年
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