副田吉成
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副田吉成 | |
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時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 元和元年(1615年)?[1] |
別名 | 甚兵衛尉[2]、甚左衛門[3]、与左衛門[4]、穏斎(号)[4] |
戒名 | 貞応浄慶大徳禅定門[1] |
主君 | 豊臣秀吉 |
妻 | 朝日姫 |
子 | 養子:秀綱[5] |
副田 吉成︵そえだ よしなり︶は、安土桃山時代の武将。通称は甚兵衛尉。豊臣秀吉の妹で、後に徳川家康の正室となった朝日姫︵南明院︶の前夫とされる人物[注釈 1]。
略歴[編集]
出自・活動[編集]
尾張国愛知郡烏森の人[4]。織田信長の武将だった秀吉に従い、秀吉の妹・朝日姫を妻にしていたとされる[4][7]。 天正5年︵1577年︶秀吉の弟・羽柴秀長による但馬国侵攻に従い、荒木重堅・磯部豊直・垣屋光成とともに若桜鬼ヶ城攻めに従軍[8]。戦後には秀長の与力として二方郡内の多伊城︵指杭城︶を与えられている[9][10]。天正8年︵1580年︶三木合戦終結後、秀吉は諸将に命じて播磨国内の諸城を破却させているが、吉成は神吉城の破却を担当している[注釈 2][12][11]。天正9年︵1581年︶因幡鳥取城攻撃に従軍[13]。 天正10年︵1582年︶本能寺の変に呼応した海賊一揆によって多伊城が奪われ、自身も城から落ち延びた[注釈 3][7][10]。同年10月に秀吉が大徳寺で行った信長の葬儀において、杉原家次・桑原貞也とともに奉行に任じられている[2][14]。天正11年︵1583年︶賤ヶ岳の戦いに従軍し、捕縛された佐久間盛政と柴田勝敏を山口宗永とともに預かり、京都へ護送している[15][3][16][17]。朝日姫との離縁[編集]
吉成の妻だった朝日姫は天正13年︵1585年︶に秀吉の命令で徳川家康に正室として嫁いでおり、それ以前に吉成と離縁していたことがわかる。延宝元年︵1673年︶に山鹿素行によって著された歴史書﹃武家事紀﹄は、天正10年︵1582年︶の多伊城失陥によって秀吉の不興を買ったことが離縁の原因としている[7]。一方で享保18年︵1733年︶に尾張藩士天野信景によって著された随筆﹃塩尻﹄によれば、天正13年に朝日姫が家康へ嫁ぐ際、秀吉から5万石の加増を条件に離縁を迫られたため、却って加増を断って出家し、尾張烏森に隠棲したのだという[注釈 4][4][18]。 副田氏の家督は伊勢国松坂藩士の渡辺甚左衛門の子・九右衛門秀綱が烏森に来て継承し、子孫は尾張藩士となった[5]。演じた人物[編集]
- おんな太閤記(1981年 NHK大河ドラマ 副田甚兵衛:せんだみつお)
- 秀吉(1996年 NHK大河ドラマ 仲蔵:岡本健一)
- 功名が辻(2006年 NHK大河ドラマ 副田甚兵衛:野口五郎)
- 徳川家康と三人の女(2008年 テレビ朝日 副田甚兵衛:浪花ゆうじ)
- 寧々〜おんな太閤記(2009年1月2日 テレビ東京 副田甚兵衛:蟹江一平)
- 江〜姫たちの戦国〜(2011年 NHK大河ドラマ 副田甚兵衛:住田隆)
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ なお朝日姫の前夫の名を佐治日向守とする説は﹃武徳編年集成﹄および軍記﹃三河後風土記﹄によるもので、それによれば佐治は天正13年︵1585年︶朝日姫と離縁させられた際に自害したとされる[6]。
(二)^
国中城わるへき覚
一 置塩之御城之事 小野木清次 山崎四郎右衛門尉
一 御着之城之事 蜂須賀彦右衛門尉
一 高砂之城之事 今藤九介 山内伊右衛門
一 神吉之城之事 副田甚兵衛
一 阿閉之城之事 付梶原古城之事 津田小八郎 斎藤宮内丞
一 明石之城之事 一柳喜介 伊藤七蔵
一 平野之城之事 服部伝八 大塩金右衛門尉
一 東条之城之事 一柳市介 速水少太
已上
右之城共、不入時分柄ニて候条、わらせるへき事、尤ニ存候
卯月廿六日 秀吉︵花押︶ — ﹃一柳家文書﹄羽柴秀吉播磨国中城割り覚[11]
(三)^ 城は後に宮部継潤によって奪還された[7][10]。
(四)^ 烏森にある隠斎塚などといった地名は、吉成の剃髪後の名前と隠棲地に由来しているという[18]。
出典[編集]
- ^ a b 横地 1981, p. 28.
- ^ a b 『太閤記』, p. 70.
- ^ a b 『続群書類従』上, p. 411.
- ^ a b c d e 太田 1963, p. 3223.
- ^ a b 横地 1983, p. 127.
- ^ 『三河後風土記』, p. 175.
- ^ a b c d 『武家事紀』上, p. 311.
- ^ 『因伯叢書』, pp. 107–108.
- ^ 今井 1999a, 指杭村.
- ^ a b c 『武家事紀』下, p. 128.
- ^ a b 『兵庫県史』, p. 419.
- ^ 今井 1999b, 神吉城跡.
- ^ 『因伯叢書』, pp. 137.
- ^ 『武家事紀』上, p. 274.
- ^ 『武家事紀』中, p. 64.
- ^ 『続群書類従』下, p. 114.
- ^ 『続群書類従』下, pp. 229–230.
- ^ a b 林 1981, 烏森村.