一柳直末
一柳 直末 | |
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時代 | 戦国時代-安土桃山時代 |
生誕 |
天文22年(1553年)[1][2][3] (別説に天文15年(1546年)[4]) |
死没 | 天正18年3月29日(1590年5月3日) |
改名 | 直末、末安 |
別名 | 熊(幼名)[5]、市助[4](または市介[5]) |
戒名 | 大通院殿天叟長運大禅定門[1][注釈 1] |
墓所 |
静岡県三島市山中新田の宗閑寺 静岡県駿東郡長泉町下長窪の「首塚」 |
官位 | 従五位下伊豆守[4] |
主君 | 豊臣秀吉 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 父:一柳直高 母:稲葉一鉄の姪 |
兄弟 | 直末、女(小川祐忠室)、直盛、直道 |
妻 | 心誉(黒田職隆の娘、黒田孝高の妹) |
子 | 松千代(松寿)、徳永昌重室、松野重元室[要出典] |
一柳 直末︵ひとつやなぎ なおすえ︶は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣秀吉に早い時期から仕えて黄母衣衆の一人となり、豊臣政権下で美濃国大垣城主・軽海城主などを務めたが、山中城の戦いで戦死した。末安︵すえやす︶の名でも知られる[7]。弟に一柳直盛がいる。
秀吉がまだ木下を称していた時期からの﹁子飼いの家来﹂[7]とも評される人物で、秀吉からの多くの書状が伝えられている。直末・直盛兄弟の武功記として、直末の甥︵直盛の子︶にあたる直良が記した﹃一柳家記﹄がある。
﹁伊豆国山中城攻図﹂︵﹃日本古城絵図﹄所収︶。﹁一柳伊豆﹂として 布陣位置と戦死位置が記載されている。
天正18年︵1590年︶、小田原征伐に参加。3月29日、伊豆国山中城攻めでは中村一氏とともに先鋒を務めたが[28][40][注釈 9]、間宮康俊の軍の銃弾に当たり戦死した[41]。﹃寛永譜﹄﹃寛政譜﹄では享年45[6][4]であるが、﹃一柳家史紀要﹄では38歳とある[42]。動揺した一柳勢は一柳直盛がとりまとめて奮戦しており、その日のうちに山中城を陥とすことに貢献した[43][18][40]。
直末の首は、敵の手に落ちないよう従僕が持ち去り、山中城攻めの拠点であった長久保城にほど近い下長久保村︵現在の静岡県駿東郡長泉町下長窪︶に埋めたと言い、現在も同地に﹁首塚﹂がある[44]︵#関連史跡参照︶。
陣中にあった秀吉は直末討死の報告を聞いて﹁直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった﹂と嘆き、3日間ほど口をきかなかったという︵﹃一豊公記﹄︶。﹃一柳家記﹄によれば、朝食中の秀吉に小寺官兵衛︵黒田孝高︶が﹁伊豆守︵直末︶手負候﹂と報告すると、秀吉は食事を吐き出して手負とは討死かと聞き返し、官兵衛がその通りと答えると、﹁城を攻め破っても無益である、関東にも代えがたいのが伊豆守であった﹂と語って膳の上に落涙したという。これは秀吉の小姓で朝食を配膳していた蒔田広定︵権之助︶が直盛に語ったこととされている[33][40]。
直末には子の松千代がいたため、秀吉の命で直盛は遺領から3万石を与えられた[45]、あるいは直盛が所領を預かったともいう[38]。のちに松千代は黒田家に引き取られるものの、慶長8年︵1603年︶に早世した。直盛は尾張国葉栗郡の黒田城主となり、関ヶ原の合戦を越えて近世大名としての地盤を築くことになる。
生涯[編集]
秀吉に仕える[編集]
美濃国厚見郡西野村︵あるいは今泉村[8]。現在の岐阜県岐阜市西野町︶の住人・一柳直高の子として誕生[9][4]。﹃一柳家記﹄によれば、母は稲葉一鉄の姪︵姉の娘︶[9][10]。38歳没とする説をとるならば天文22年︵1553年︶生まれ[1]、45歳没とする説[6][4]をとるならば天文15年︵1546年︶生まれとなる。 元亀元年︵1570年︶より、織田氏の家臣・木下秀吉︵のちの羽柴︵豊臣︶秀吉︶に仕えた[4]。天正元年︵1573年︶の浅井氏との小谷城の戦いでたびたび武功を挙げ、戦後長浜城主となった秀吉から黄母衣を預けられた7人︵黄母衣衆︶のうちの1人となった[11][5][注釈 2]。250貫の知行と感状を与えられたという[14]。 天正6年︵1578年︶、秀吉に従って播磨国に転戦し、三木合戦に従軍[12][15]。播磨国で2500石の知行を得て、美濃国にいた弟の直盛︵四郎右衛門、のち監物︶を呼び寄せ、被官とした[12][15]。天正7年︵1579年︶の秀吉による因幡国への侵攻[注釈 3]に従う[15]。天正8年︵1580年︶に父が没しており、遺領を相続した[4]。天正10年︵1582年︶には備中高松城攻め・山崎の戦いに従軍した[17][16]。同年末には山城国槇島城主となり知行1万石[18][19]。その後、近江国勢田城に移って知行1万5000石という[18][19]。 天正11年︵1583年︶の賤ヶ岳の戦いに参加した[17][20]。﹃一柳家記﹄によれば、直末は加藤光泰︵作内︶とともに軍奉行を務めた[17]。この時に先鋒となった﹁先懸衆﹂[注釈 4]のうち、一柳四郎右衛門︵直盛︶と稲葉清六[注釈 5]が市助︵直末︶の家臣であった[22][20]。豊臣政権下の活動[編集]
天正12年︵1584年︶、小牧・長久手の戦いの際には竹ヶ鼻城を伊藤牛之助とともに攻め︵竹ヶ鼻城の戦い︶[26][27]、これを与えられたという[18]。天正13年︵1585年︶の紀州征伐の際には千石堀城攻めに加わった[28][27]。その後、四国攻め︵四国平定︶、佐々成政攻めにも従った[28][27]。 天正13年︵1585年︶閏8月、秀吉の甥・豊臣秀次は近江国に20万石︵宿老分合わせて43万石︶で移され、以後八幡山城を築城する[29]。直末は、田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らとともに秀次に宿老︵﹁年寄﹂︶として付けられた[注釈 6]。この時直末は美濃国大垣城に2万5000石、ほかに八幡山城の秀次を﹁折々見廻申候様﹂申し付けられて八幡付近で1000石を領したという[33][19]。小和田哲男は﹁宿老﹂とはいうものの時折八幡山に出仕する相談役の役割を任されたものと推測する[34]。 大垣城主︵美濃の蔵入地代官を兼ねる︶への移転については、前任の加藤光泰が秀吉の勘気を蒙ったのに替わるもので、光泰の罪状を記した末安︵直末︶宛の書状は、部将たちに示した公開訓戒状であるとともに、﹁唐国﹂征服の意思を示したものとしても知られる[35]。同年11月29日の天正地震では大垣城が倒壊・炎上し、直末は辛うじて難を逃れたが、浅井攻めで得た感状を失ったという[12][15]。 天正13年︵1585年︶には従五位下伊豆守に叙せられた[4]。天正14年︵1586年︶には、一柳直末を開基、南化玄興︵一柳家出身で、直末の叔父にあたるという[36]︶を初代住持として、妙心寺に塔頭の大通院を開いた[37]。 天正17年︵1589年︶3月[38]、賀留美︵軽海西城[注釈 7]。現在の岐阜県本巣市軽海︶で5万石を知行[33]。なお﹃寛政重修諸家譜﹄によれば、天正13年︵1585年︶に美濃国で6万石を領し、﹁浮見城﹂に住したとある[4][注釈 8]。山中城攻めでの戦死[編集]
人物・逸話[編集]
●直末の母らくには、直末の死を悼んだ豊臣秀次から800石の知行地が与えられた。この際の所領宛がい状は、女性相手というためか漢字がほとんど使われておらず、主にひらがなで構成されている︵﹃一柳文書﹄︶。 ●岐阜県関市富之保一柳にある一柳城︵大洞城︶は、信長の命によって一柳直末が愛宕山に新たに築城したと伝えられる[46]。 ●兵庫県小野市の磐代神社は、小野陣屋の創設時に氏神として大山祇命を祀ったものであったが、宝暦年間︵1751年 - 1763年︶に藩主一柳末栄が、一柳家の基礎を築いたとして一柳直末︵磐代明神︶と、その子の松千代︵真栄霊神︶を合祀した。同神社は直末戦死の日に当たる3月29日を例祭日としている[47]。 ●天正7年︵1579年︶、秀吉が姫路城の改修を行っていた際に、秀吉と直末が縄張りをめぐって言い争いになったといい、直末の意見通り作られた曲輪は﹁市助曲輪﹂と呼ばれたという︵ただし現代に伝わっていない︶[48] ●鎌倉時代の粟田口吉光の作になる短刀﹁厚藤四郎﹂︵現在は国宝︶を所持していた。厚藤四郎は室町時代には足利将軍家に伝えられていたが、流出したものを本阿弥祐徳が購入し、祐徳から直末に譲られたという。直末ののち黒田孝高の手に渡り、豊臣秀次に献上された[49][50]。家族・親族[編集]
﹃寛政譜﹄の一柳家の譜に妻子についての記載はない[注釈 10]が、福岡市博多区の臨済宗聖福寺の古文書や、福岡藩黒田家の史料には、一柳直末の家族に関する記録が残る。 ﹃寛政譜﹄には弟妹として、女︵小川祐忠室︶、直盛、直道︵五郎兵衛︶が掲げられている。妻‥黒田氏[編集]
室は黒田職隆の娘︵黒田孝高︵如水︶の異母妹[注釈 11]︶で、法名﹁慶寿院殿心誉春勢大姉﹂[52]。直末との間に一男二女があったが、直末の没後黒田家に帰り、京都の伊藤是庵︵伊東是安とも[53][注釈 12]︶に再嫁した[52]。元和3年︵1617年︶8月8日没、享年52[52]︵没年から逆算すると永禄9年︵1566年︶生まれ︶。京都黒谷の金戒光明寺で荼毘に付した[52]。大徳寺高林院や江戸の祥雲寺など各地に墓があったらしいが、明治初年に行われた調査では失われている[54]。金戒光明寺塔頭の安中院︵のち超覚院に併合︶に小野藩主一柳末朝︵のち末礼︶が延宝8年に建てた供養碑がある[54][55]。子‥松千代︵松寿︶[編集]
直末の遺児である松千代は、黒田家に引き取られて孝高︵如水︶に養われた[45][56]。黒田家側の史料では﹁松寿﹂と呼ばれている[57][56]︵なお、黒田長政の幼名も﹁松寿﹂である︶。小野藩一柳家文書の﹃丙午録﹄によれば、家督相続をめぐって一柳家中に争いが生じたことが背景にあるという[58]。慶長8年︵1603年︶3月1日に14歳で夭折[45]︵父が戦死した天正18年︵1590年︶の生まれとなる︶。法名を﹁大通院殿雲沢宗龍大禅定門﹂といい、博多の聖福寺に墓が現存している[45][59]。 ﹃黒田家譜﹄によれば、如水は松寿をかわいがり、隠居後には遺品を松寿に譲るべく、諸道具に松寿の名を入れさせたという[56]。文禄2年︵1593年︶8月9日、秀吉の勘気を被った黒田家隠居の如水は、当主長政に宛てて万一の場合の遺言状をしたためているが、長政に実子ができなかった場合[注釈 13]、松寿が黒田家を継ぐよう指名されている[60]。長政は、妙心寺の九皐宗疇︵南化玄興の弟子である︶に帰依しており、聖福寺の塔頭順心庵に入れて松寿の文学の師とした︵当時の聖福寺は建仁寺派の寺であった︶[57]。 ﹃黒田家譜﹄は松寿の死について以下の事情を伝える。松寿は剣術を好み、木刀で戯れに人に打ちかかっては、相手が扇や脇差などありあわせのもので受け外すと褒めていた。如水の小姓である小林市蔵[注釈 14]という者は、そばにあった刀で受け止めようとしたが、刀身が剥き出しになってしまい、打ちかかって傷を負った松寿は、そのまま出血が止まらず死亡した。市蔵は切腹した[56]。 松寿の葬儀は九皐宗疇を導師として行わせたが、建仁寺から派遣されて来た監寺2名︵中興の祖とされた耳峰玄熊の死後、住持は空席であった︶がこれに不満をもって参列しなかったために、長政は激怒し、彼らを放逐して九皐を住持とした[57]。このため聖福寺は妙心寺派に転派することになったという[57]。娘婿‥一柳右京[編集]
﹃一柳家史紀要﹄によれば、直末の従弟にあたる稲葉源左衛門は直末の娘を娶り、源左衛門は一柳右京末晴と称したという[61]。 一柳末晴の長男である一柳直晴は、一柳直盛の養子となったが、直盛に実子一柳直重が誕生したために京都に隠遁、仙石家の客分になったという[61]。直晴の弟︵末晴の二男[62]︶である一柳盛晴︵右京︶が家を継ぎ、その子である一柳直好︵源左衛門尉︶は会津藩松平家に仕えた[61]。このほか会津藩には、盛晴の二男である直信も仕えたという[61]。末弟‥一柳直道[編集]
﹃寛政譜﹄によれば、末弟の一柳五郎兵衛直道は、天正18年︵1590年︶7月9日に小田原攻めの陣中で没したとある[4]。﹃寛永諸家系図伝﹄では直末の兄弟として直盛のみが記載される。﹃一柳家記﹄ではこの人物に対する言及がない。昭和初期に編纂された﹃一柳家史紀要﹄でも言及されていない。墓所[編集]
一柳直末公首塚[編集]
現在の静岡県駿東郡長泉町下長窪字尾尻︵尾尻公園北側︶には﹁一柳直末公首塚﹂︵長泉町史跡︶がある。直末が戦死したとき、従僕の旗指作兵衛[注釈 15]という者が敵の手に落ちないよう直末の首級を持ち去り、下長久保村の地に埋めたという︵葬られたのは﹁遺骸﹂であるともされており[63]、﹃寛政譜﹄では葬地は駿河国長久保村とある[4]︶。作兵衛はそのまま当地に住んで墓守を務め、以後子孫代々首塚を守ったと伝えられている[64]。延宝4年には小松藩主一柳直治が追悼碑を建立した[65]。昭和初期には寺院がないことは残念であるとして、一柳家末裔の一柳貞吉らによって山梨県南都留郡にあった長観寺[注釈 16]が黄瀬川対岸︵下士狩字陣場︶に移転されて﹁一柳山長観寺﹂と称されたが[67]、この寺は現存していない。宗閑寺の墓[編集]
遺骸については、当初は戦死の場所である笹原新田に埋葬されたといい[63][68]、慶長7年︵1602年︶に﹁一柳庵﹂という堂舎が建てられた[68]。しかし、人家︵路傍の茶店であったという[68]︶の背後にあって参詣に不便であるため[63]、元禄11年︵1698年︶、小野藩主一柳末礼は、山中城三の丸跡に建てられていた宗閑寺に移葬した[63][68]︵宗閑寺は、間宮康俊の娘が建てた寺である[69]︶。寛政4年︵1792年︶には小野藩主一柳末栄・一柳末英によって墓の前に直末の事績を記した石碑が建てられ[68]、1930年︵昭和5年︶には一柳貞吉らによって宗閑寺境内入り口に﹁山中城趾記念之碑﹂が建てられている[68][70]。 一柳庵と直末の墓は上述の通り宗閑寺に移されたものの、これをめぐって笹原新田の村人と当時の宗閑寺住職︵および山中新田の村人︶との間に紛擾が生じた[71]。跡地には、笹原新田の村人によって新たに一柳直末之墓という碑石が建立された[72][68]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ﹃寛永譜﹄では天溲紹運[6]、﹃寛政譜﹄では大通院天叟紹運とする[4]。
(二)^ ﹃一柳家記﹄によれば、このときの黄母衣衆は中西弥五作︵中西守之︶、大塩近右衛門︵金右衛門。正貞︶、備藤甚右衛門︵尾藤知宣︶、見児田半左衛門︵神子田正治︶、小野木清二郎︵小野木重勝︶、一柳市助︵一柳直末︶、一柳弥三右衛門︵一柳可遊︶[12][6]。一柳弥三右衛門︵一柳可遊︶は直末の従兄弟という[13]。
(三)^ ﹃一柳家記﹄によれば、一柳兄弟は﹁スクモ塚城﹂の根屋親光︵七郎兵衛︶攻めや[12][16]、鳥取城の﹁畑野作太夫﹂攻めで功績を立てたという[17][16]。
(四)^ いわゆる﹁賤ケ岳の七本槍﹂と一部重複する。﹃一柳家記﹄によれば、﹁先懸衆﹂は加藤虎之助︵加藤清正︶、大谷桂松︵大谷吉継︶、石田左吉︵石田三成。一説に福島正則家臣桜井左吉︵桜井家一︶という割注がある︶、片桐助作︵片桐且元︶、平野権平︵平野長泰︶、奥村半平、福島市松︵福島正則︶、福島与吉郎︵福島長則。正則の弟[21]︶、大島茂兵衛︵大島光政︶、一柳次郎兵衛、一柳四郎右衛門︵一柳直盛︶、稲葉清六で、﹁以上拾四人﹂︵直前に一柳直末と加藤光泰が軍奉行として名を挙げられている︶が一万五千の敵に馳せ向けたのは無類であると当時評判をとったという[22]。なお、続く部分では崎田源太郎︵のち小右衛門と割注がある︶、加藤孫六︵加藤嘉明︶、桜井左吉、加須屋助右衛門︵糟屋武則︶、石川長十︵一説に石川兵介︵石川一光︶と割注がある︶、脇坂甚内︵脇坂安治︶の戦いぶりが描かれている[23]。﹃一柳家記﹄では直盛の働きを称揚する文章の間に﹁江北之七本鑓とは此時の儀を申候﹂と記している[24]。
(五)^ のちに小川祐忠の被官となり、関ケ原の合戦の際に石田三成の密書をもって一柳直盛の黒田城を訪れたという[25]。
(六)^ 小和田哲男は﹃滋賀県八幡町史 上﹄の記述を引き﹁一般的には﹂田中・山内・堀尾・中村・一柳の5人が年寄と見なされるとしているが[30]、天正17年︵1589年︶8月時点では連署状を発給している田中・山内・堀尾・渡瀬繁詮・宮部宗治が秀頼から附けられた年寄としており[31]、その他にも﹁宿老共﹂がいた可能性があるという[32]。
(七)^ ﹁軽海西城﹂という城郭の名称は、同地域に別の城︵軽海東城︶があったことに対するものである[39]。
(八)^ 後年の記録では大垣6万石、軽海6万石などとも記載され、錯綜している[18]。
(九)^ ﹃一柳家記﹄によれば騎馬253騎・雑兵2700人を率いた[28][40]。
(十)^ ﹃寛政譜﹄の黒田家の譜には直末室の記載がある。
(11)^ 直末室の母は母里氏︵母里小兵衛寡婦︶で、兄に黒田図書直之らがいる[51]。
(12)^ 小野藩一柳家の史料では、﹁伊東是安﹂は高台院の姻戚で、大徳寺で僧職︵﹁高林庵主﹂という︶にあったが、秀吉の意向で還俗させ、孝高の妹を娶せたという。猶子の伊東半兵衛が福岡藩主黒田光之に仕えているという[53]。
(13)^ 長政は当時26歳であったが実子はなかった。長政の嫡男黒田忠之の誕生は慶長7年︵1602年︶である。
(14)^ 市蔵は朝鮮人で、如水がそば近く召使い、小林新兵衛の養子とした者という[56]。
(15)^ 長泉町では﹁旗持留兵衛﹂ともいう[44]。
(16)^ 現在の山梨県都留市川棚にあった。明応2年創建の古刹で、川棚集落自体が長観寺の門前集落であったともいうが[66]、昭和初期には衰微し、堂宇も荒廃していたという[63]。
出典[編集]
(一)^ abc一柳貞吉 1933, p. 34.
(二)^ “一柳直末”. 朝日日本歴史人物事典. 2021年9月3日閲覧。
(三)^ “一柳直末”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年9月3日閲覧。
(四)^ abcdefghijklm﹃寛政重修諸家譜﹄巻第六百三、国民図書版﹃寛政重修諸家譜 第四輯﹄p.154、﹃新訂寛政重修諸家譜 第十﹄p.154。
(五)^ abc一柳貞吉 1935, p. 2.
(六)^ abcd﹃寛永諸家系図伝13﹄p.26
(七)^ ab“所報 - 史料編纂 出版報告 大日本史料 第十一編之二十八”. 東京大学史料編纂所. 2021年9月3日閲覧。
(八)^ 一柳貞吉 1933, pp. 2, 5.
(九)^ ab﹃一柳家記﹄︵﹃続群書類従 第二十輯下﹄p.471︶。
(十)^ 一柳貞吉 1933, p. 2.
(11)^ ﹃一柳家記﹄︵﹃続群書類従 第二十輯下﹄pp.471-472︶。
(12)^ abcde﹃一柳家記﹄︵﹃続群書類従 第二十輯下﹄p.472︶。
(13)^ 一柳貞吉 1933, p. 70.
(14)^ 一柳貞吉 1935, pp. 2–3.
(15)^ abcd一柳貞吉 1935, p. 3.
(16)^ abc一柳貞吉 1935, p. 4.
(17)^ abcd﹃一柳家記﹄︵﹃続群書類従 第二十輯下﹄p.473︶。
(18)^ abcde一柳貞吉 1933, p. 5.
(19)^ abc一柳貞吉 1935, p. 11.
(20)^ ab一柳貞吉 1935, p. 5.
(21)^ ﹃尾張群書系図部集 下 第3巻﹄︵八木書店、1997︶p.853
(22)^ ab﹃一柳家記﹄︵﹃続群書類従 第二十輯下﹄p.474︶。
(23)^ ﹃一柳家記﹄︵﹃続群書類従 第二十輯下﹄pp.474-476︶。
(24)^ ﹃一柳家記﹄︵﹃続群書類従 第二十輯下﹄p.476︶。
(25)^ ﹃一柳家記﹄︵﹃続群書類従 第二十輯下﹄pp.479-480︶。
(26)^ ﹃一柳家記﹄︵﹃続群書類従 第二十輯下﹄pp.476-477︶。
(27)^ abc一柳貞吉 1935, p. 9.
(28)^ abcd﹃一柳家記﹄︵﹃続群書類従 第二十輯下﹄p.477︶。
(29)^ 小和田哲男 2002, p. (Kindle版位置No.827/2673).
(30)^ 小和田哲男 2002, p. (Kindle版位置No.1112/2673).
(31)^ 小和田哲男 2002, p. (Kindle版位置No.1081/2673).
(32)^ 小和田哲男 2002, p. (Kindle版位置No.1161/2673).
(33)^ abc﹃一柳家記﹄︵﹃続群書類従 第二十輯下﹄p.478︶。
(34)^ 小和田哲男 2002, p. (Kindle版位置No.1121/2673).
(35)^ “所報 - 史料編纂 出版報告 大日本史料 第十一編之二十”. 東京大学史料編纂所. 2021年9月7日閲覧。
(36)^ 一柳貞吉 1933, p. 附録p.25.
(37)^ 川上孤山 1917, p. 309.
(38)^ ab大垣市 1930, p. 191.
(39)^ ﹃美濃明細記 美濃雑事記﹄p.137。
(40)^ abcd一柳貞吉 1935, p. 10.
(41)^ 一柳貞吉 1933, p. 附録4.
(42)^ 一柳貞吉 1933, p. 6.
(43)^ ﹃一柳家記﹄︵﹃続群書類従 第二十輯下﹄pp.477-478︶。
(44)^ ab“ながいずみ口コミガイド 今はなき長久保城の話”. ながいずみ観光交流協会. 2021年9月25日閲覧。
(45)^ abcd一柳貞吉 1933, p. 16.
(46)^ “一柳城址”. 出かけよう武儀へ. 伝説ロマンウォークの会. 2021年9月9日閲覧。
(47)^ “磐代神社”. 兵庫県神社庁. 2021年9月5日閲覧。
(48)^ 佐野充彦﹁﹁おの歴史散歩﹂vol.44 一柳直末と秀吉が縄張り争い﹂﹃広報おの﹄第649巻、小野市、2014年4月、26頁、2021年9月25日閲覧。
(49)^ 羽皐隠史 (1913年). “詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形”. 金港堂書籍. p. 7. 2022年5月4日閲覧。
(50)^ “短刀 銘吉光︵名物厚藤四郎︶”. e-国宝. 国立文化財機構. 2022年5月4日閲覧。
(51)^ ﹃黒田家臣伝﹄﹁母里雅楽伝﹂︵﹃益軒全集 巻五﹄p.609︶
(52)^ abcd一柳貞吉 1933, p. 15.
(53)^ ab一柳貞吉 1933, p. 17.
(54)^ ab一柳貞吉 1933, pp. 15–16.
(55)^ @T_KOTEN_Q (2021年3月29日). "余談ながら一柳直末の妻は黒田官兵衛の妹(心誉春勢大姉)。供養墓が京都・金戒光明寺の墓地にある。…︵※写真あり︶". X︵旧Twitter︶より2022年5月4日閲覧。
(56)^ abcde﹃黒田家譜﹄巻之十五﹁如水遺事﹂︵﹃益軒全集﹄巻5 p.443︶。
(57)^ abcd一柳貞吉 1933, p. 24.
(58)^ 佐野充彦﹁﹁おの歴史散歩﹂vol.37 一柳直末、黒田官兵衛の妹を娶る﹂﹃広報おの﹄第642巻、小野市、2013年9月、37頁、2021年9月25日閲覧。
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(67)^ 一柳貞吉 1933, pp. 附録27-30.
(68)^ abcdefg“一柳直末︵ひとつやなぎなおすえ︶とその子孫~一柳庵跡︵いちりゅうあんあと︶・宗閑寺︵そうかんじ︶”. 歴史の小箱︵第335号・平成28年4月1日号). 三島市郷土資料館. 2021年9月1日閲覧。
(69)^ “箱根西坂の史跡6宗閑寺”. 広報みしま︵平成19年7月1日号︶. 三島市. 2021年9月1日閲覧。
(70)^ 一柳貞吉 1933, pp. 附録14-17.
(71)^ 一柳貞吉 1933, pp. 9–10.
(72)^ 一柳貞吉 1933, pp. 9–10, 附録12.