天野信景
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天野信景 | |
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 1663年10月25日(寛文3年9月25日) |
死没 | 1733年10月15日(享保18年9月8日) |
別名 | 子顕(字)、権三郎、源蔵、治部、宮内(通称)、白華、問津亭、信阿弥陀、残翁、運甓斎、輟棹翁、凝寂堂(号) |
霊名 | 信阿弥陀仏 |
墓所 | 愛知県名古屋市千種区幸川町の性高院 |
主君 | 徳川光友→綱誠→吉通→五郎太→継友 |
藩 | 尾張藩 |
氏族 | 天野氏 |
父母 | 父:天野信幸[1]、母:滋野井冬晴の娘 |
天野 信景︵あまの さだかげ︶は、江戸時代中期の国学者、尾張藩士。
天野信景の墓(左・名古屋市性高院)
信景の実証的な指向は、その後の本居宣長や伴信友・河村秀根などに強い影響を与えたと考えられ、平田篤胤の﹃俗神道大意﹄・谷川士清の﹃倭訓栞﹄は信景の随筆﹃塩尻﹄に負うところが大きい。
また、南北朝時代末期の世良田氏の興亡を伝記とした﹃波合記﹄や南朝正統論に基づいた﹃改正続神皇正統記﹄も著している。
﹃鸚鵡籠中記﹄の著者である朝日重章︵文左衛門︶と親交があり、信景は重章から兄事され、45歳で没した重章の臨終に立ち会った。