劉炫
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劉 炫︵りゅう げん、生没年不詳︶は、北斉から隋にかけて活躍した学者。字は光伯。河間郡景城県の人。
生涯[編集]
幼いころから聡明と称され、信都の劉焯らとともに、熊安生のもとで学んだ[1]。北斉末に、南朝梁の費甝による﹃尚書﹄義疏を入手し、これが北朝において﹃尚書﹄孔安国伝が受容される契機となった[2]。北周の武帝が北斉を併合すると、瀛州刺史の宇文亢に引き立てられて戸曹従事となった。隋に入ると、著作郎の王劭︵王松年の子︶とともに国史の編纂に携わった。また天文律暦に通じていた[3]。 開皇3年︵583年︶、牛弘の建議によって募書が行われた際、劉炫は百余巻の書を偽造し、﹁連山易﹂﹁魯史記﹂などと称して奏上し、報酬を受け取った。後に訴えられ、官を除名された[4]。 開皇20年︵600年︶、国子四門と州県学を廃止し、太学博士二人・学生七十二人を置くとする政策が施行された。劉炫は学校を廃止すべきでないと上奏したが、高祖は聞き入れなかった[5]。 戦乱のさなか、凍傷によって68歳でその生涯を終えた[6]。著作[編集]
﹃隋書﹄劉炫伝には、著作として﹃論語述議﹄十巻・﹃春秋攻昧﹄十巻・﹃五経正名﹄十二巻・﹃孝経述議﹄五巻・﹃春秋述議﹄四十巻・﹃尚書述議﹄二十巻・﹃毛詩述議﹄四十巻・﹃注詩序﹄一巻・﹃算術﹄一巻が記録されており、いずれも世に広まっていたとされている[7]。 いずれも中国では散佚し、一部は清の馬国翰﹃玉函山房輯佚書﹄に輯本がある。 但し、﹃孝経述議﹄のみは日本で一部が保存されており、林秀一によって復元が試みられた。これは部分的ではあるが、現存する数少ない義疏の一つである[8]。伝記資料[編集]
研究[編集]
- 林秀一『孝経述議復原に關する研究』(文求堂書店,1953)
- 長谷部英一「隋代の暦論」(『中国哲学研究』6, p1-21, 1993)
- 喬秀岩『義疏學衰亡史論』(萬巻樓,2013)
- 林秀一(譯:喬秀岩・葉純芳・顧遷)『孝經述議復原研究』(崇文書局,2016)
脚注[編集]
(一)^ ﹃北史﹄儒林伝・熊安生﹁安生既學為儒宗,嘗受其業,擅名於後者,有馬榮伯・張黒奴・竇士榮・孔籠・劉焯・劉炫等,皆其門人焉。﹂
(二)^ ﹃北史﹄儒林伝序﹁斉時,儒士罕傳尚書之業,徐遵明兼通之。遵明受業於屯留王聰,傳授浮陽李周仁及勃海張文敬・李鉉・河間權會,並鄭康成所注,非古文也。下里諸生,略不見孔氏注解。武平末,劉光伯・劉士元始得費甝義疏,乃留意焉。﹂
(三)^ ﹃隋書﹄劉炫伝﹁劉炫字光伯,河間景城人也。少以聰敏見稱,與信都劉焯閉戸讀書,十年不出。…周武帝平斉,瀛州刺史宇文亢引為戸曹従事。後刺史李繪署禮曹従事,以吏幹知名。歳餘,奉勅與著作郎王劭同修國史。俄直門下省,以待顧問。又與諸術者修天文律暦,兼於内史省考定群言,内史令博陵李徳林甚禮之。﹂
(四)^ ﹃隋書﹄劉炫伝﹁時牛弘奏請購求天下遺逸之書,炫遂偽造書百餘巻,題為連山易・魯史記等,録上送官,取賞而去。後有人訟之,經赦免死,坐除名,歸于家,以教授為務。﹂
(五)^ ﹃隋書﹄劉炫伝﹁開皇二十年,廢國子四門及州縣學,唯置太學博士二人,學生七十二人。炫上表言學校不宜廢,情理甚切,高祖不納。﹂
(六)^ ﹃隋書﹄劉炫伝﹁時在郡城,糧餉断絶,其門人多隨盗賊,哀炫窮乏,詣郡城下索炫,郡官乃出炫與之。炫為賊所将,過城下堡。未幾,賊為官軍所破,炫飢餓無所依,復投縣城。長吏意炫與賊相知,恐為後変,遂閉門不納。是時夜冰寒,因此凍餒而死,時年六十八。其後門人諡曰宣徳先生。﹂
(七)^ ﹃隋書﹄劉炫伝﹁著論語述議十巻,春秋攻昧十巻,五經正名十二巻,孝經述議五巻,春秋述議四十巻,尚書述議二十巻,毛詩述議四十巻,注詩序一巻,算術一巻,並行於世。﹂
(八)^ 林秀一 (1953). 孝経述議復原に關する研究. 文求堂書店