加藤陽三
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経歴[編集]
●1910年︵明治43年︶- 広島県安芸郡海田町生まれ。 ●広島県立広島第一中学校、第三高等学校卒業。 ●1934年︵昭和9年︶- 東京帝国大学法学部卒業[3]。 ●4月 - 内務省入省。土木局属[4]。 その後、栃木県庁、厚生省社会局勤務[3]。 ●1943年︵昭和18年︶- 内務省地方局勤務[3]。 ●1945年︵昭和20年︶- 内務省調査部総務課長[3]。 その後、内務省警保局公安第二課長、内務省企画課長。静岡県庁勤務[3]。 ●1950年︵昭和25年︶- 国家地方警察本部総務部長[3]。 ●8月-警察予備隊本部人事局長[3]。 ●1952年︵昭和27年︶- 保安庁長官官房長・人事局長[3]。 ●1954年︵昭和29年︶- 防衛庁人事局長[3]。 ●1960年︵昭和35年︶- 防衛庁長官官房長。 ●1963年︵昭和38年︶- 防衛事務次官就任。 ●1964年︵昭和39年︶- 辞職。 ●1965年︵昭和40年︶- 第7回参議院議員通常選挙全国区に自由民主党で出馬し、落選。 ●1967年︵昭和42年︶- 第31回衆議院議員総選挙広島2区から無所属で出馬したが、落選。 ●1969年︵昭和44年︶- 第32回衆議院議員総選挙で自由民主党から出馬し、初当選。2期連続当選。 ●1975年︵昭和50年︶- 三木内閣防衛政務次官 ●1976年︵昭和51年︶- 第34回衆議院議員総選挙で落選し、政界引退。 ●1979年︵昭和54年︶- 防衛弘済会会長[3]。 ●1980年︵昭和55年︶- 秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章[1]。 ●1989年︵平成元年︶- 死去、79歳。死没日をもって従五位から正四位に叙される[5]。 ●2004年︵平成16年︶- 広島県安芸郡海田町名誉町民[3]。その他[編集]
●1952年、海田町に米軍の弾薬陸揚げ施設の建設計画が浮上したが、加藤の尽力で阻止[6]。 ●海田町の加藤会館前には、灘尾弘吉書の加藤陽三先生顕彰碑が建っている。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
官職 | ||
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先代 門叶宗雄 |
防衛事務次官 第3代:1963年 - 1964年 |
次代 三輪良雄 |