十銭紙幣
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十銭紙幣︵じっせんしへい︶とは日本銀行券の1つ。十銭券、十銭札とも呼ばれる。
概要[編集]
い号券、A号券の2種類が存在する。小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律︵額面一円未満の日本銀行券・政府紙幣・貨幣および一円黄銅貨を廃止︶により1953年︵昭和28年︶末をもってどちらも失効した[1]。紙幣券面の表記は﹃拾錢﹄。額面である10銭は1円の10分の1に当たる。 製造中止された十銭硬貨の代替として発行されたが硬貨の需要も根強く、十銭紙幣の発行期間中も常に額面金額10銭の通貨の発行高のうち6割以上は硬貨が占めている状態であり、実態としては硬貨と並行して流通していた[2]。「小額政府紙幣#小額通貨の紙幣化率」も参照
日本の現在発行されていない旧紙幣の中では現存数が非常に多く、しばしば未使用の100枚帯封、稀には1000枚完封が古銭市場やネットオークション等に現れるほどであり、古銭商による買取の場合、1枚での買取はほとんど期待できず、大量にまとめての安い値段での買取となるのが一般である。
い号券[編集]
1944年︵昭和19年︶10月25日の大蔵省告示第489号﹁日本銀行券ノ種類ニ拾錢券及五錢券追加發行﹂[3]で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り[4]。 ●日本銀行券 ●額面 拾錢︵10銭︶ ●表面 八紘一宇塔 ●裏面 彩紋 ●印章 ︿表面﹀総裁之印、発券局長 ︿裏面﹀なし ●銘板 大日本帝國印刷局製造 ●記番号仕様 ●記番号色 赤色﹇通し番号なし︵組番号のみ︶﹈ ●記番号構成 ︿記号﹀組番号‥数字1 - 2桁 ︿番号﹀通し番号なし ●寸法 縦51mm、横106mm[3] ●製造実績 ●印刷局から日本銀行への納入期間 1944年︵昭和19年︶10月20日 - 1946年︵昭和21年︶3月4日[4] ●記号︵組番号︶範囲 1 - 20︵1記号当たり50,000,000枚製造︶[4][注 1] ●製造枚数 994,530,000枚[5] ●発行開始日 1944年︵昭和19年︶11月1日[3] ●通用停止日 1953年︵昭和28年︶12月31日[1] ●発行終了 ●失効券 太平洋戦争の戦況の悪化に伴い金属材料が不足し、硬貨を小型化したり、硬貨の素材としては不適当な劣悪な材質の硬貨を製造したりしていた[注 2]が、その後硬貨用材料の枯渇によりい五錢券とともに、小額な額面の小型紙幣が発行された[6]。当初は五十銭紙幣と同様に小額政府紙幣で代替する方針であったが、政府紙幣の新規額面の発行には国会での法改正が必要であり、急を要することから大蔵大臣の告示のみで対応可能な日本銀行券として発行された[6]。 当時の印刷局は急増する日本銀行券の需要に加え、外地・占領地向け紙幣、軍用手票、公債などの証券類などの製造業務に繁忙を極めていたため、い十錢券の図案検討は印刷局で行われたものの、デザイン決定後に行われる彫刻、製版、印刷、検査、仕上げといった各工程は民間企業の凸版印刷に全て委託された[6]。そのため、銘板には﹁大日本帝國印刷局製造﹂と表記されているものの実際には印刷局においては印刷が行われていない[2]。 表面には彫刻家の日名子実三により設計され、紀元二千六百年奉祝事業の一環として1940年︵昭和15年︶に宮崎県宮崎市に建てられた八紘一宇塔︵正式名称は八紘之基柱、現・平和の塔[注 3]︶が、瑞雲の隙間から光線が降り注ぐ光景の地模様と共に描かれている[6]。裏面は左右に桜花型の彩紋と組み紐模様、中央は青海波があしらわれており、外周部分は券面の端まで波線模様で埋め尽くされている[6]。なおアラビア数字による額面表記はあるが、英語表記はなされていない。このデザインは、当初政府小額紙幣の二十銭紙幣として準備が進められていたものを転用したものである[2]。 透かしはい五錢券等と共通の白透かしによる桐のちらし透かしであるが[6]、紙質や製作が粗悪なため透かしの確認は困難である。発行当初の紙幣用紙は木材パルプに少量の三椏を混合して抄造したものであったが、程無くして木材パルプのみの劣悪な品質の用紙に変更された[2]。なお用紙の節約と取扱上の利便性を考慮した結果、券面の寸法は従来の他券種と比べて横方向に細長く、1930年︵昭和5年︶の乙百圓券以来維持されてきた縦1‥対角線2の規格から外れたものとなっている[2]。 使用色数は、表面3色︵内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色︶、裏面1色となっている[7][4]。両面とも簡易な平版印刷によるものであり、裏面の簡素さや記番号の省略︵通し番号はなく組番号︵記号︶のみの表記︶など粗悪な作りになっている[2]。A号券[編集]
1947年︵昭和22年︶9月5日の大蔵省告示第205号﹁日本銀行券拾銭券の樣式﹂[8]で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り[4]。 ●日本銀行券 ●額面 拾錢︵10銭︶ ●表面 鳩 ●裏面 国会議事堂 ●印章 ︿表面﹀総裁之印 ︿裏面﹀なし ●銘板 印刷局製造 ●記番号仕様 ●記番号色 赤色﹇通し番号なし︵組番号のみ︶﹈ ●記番号構成 ︿記号﹀﹁1﹂+組番号‥数字1 - 3桁+製造工場‥数字2桁 ︿番号﹀通し番号なし ●寸法 縦52mm、横100mm[8] ●製造実績 ●印刷局から日本銀行への納入期間 1947年︵昭和22年︶8月13日 - 1949年︵昭和24年︶12月12日[4] ●記号︵組番号︶範囲 1 - 116[注 4]︵1記号当たり5,000,000枚製造︶[4] ●製造枚数 580,000,000枚[5] ●発行開始日 1947年︵昭和22年︶9月5日[8] ●通用停止日 1953年︵昭和28年︶12月31日[1] ●発行終了 ●失効券 造幣局は手持ちの資材を活用して終戦直後の1945年︵昭和20年︶11月から十銭アルミニウム貨の製造を始めた[9]。これによりい拾錢券は製造・発行が中止された[10]。しかしGHQ︵連合国軍最高司令官総司令部︶の政策により日本国内でアルミニウムの精錬が禁止されたことによる貨幣材料の入手困難に加え、インフレーションの昂進により材料価格が高騰し1946年︵昭和21年︶10月以降は十銭硬貨の製造が継続できない状況に陥ったことから、小額通貨の不足が深刻化したため再度の十銭紙幣の発行が決定された[10]。 なおA号券の発行検討時にも、十銭紙幣を小額政府紙幣として発行することが選択肢の1つとして検討されたものの、い号券の発行時と同様に法改正が不要であり大蔵大臣の告示のみで対応できることから従来通り日本銀行券として発行された[10]。 連合国軍占領下の当時は改刷を行い新紙幣を発行する場合、図案についてGHQの許可が必要であった[11]。加えて1946年︵昭和21年︶にはGHQにより軍国主義的と見做されたデザインの紙幣と郵便切手の新規発行が原則禁止された[注 5]ことを受け、再度の十銭紙幣発行に合わせてそのデザインの改訂を行ったものである[12]。 デザインに鳩や国会議事堂を使うなど戦時中のい号券と印象が異なっている。表面の題材には平和の象徴とされる鳩が採用され、表面右側に2羽の鳩が飛翔する姿が描かれているほか、裏面左側には民主主義の象徴として国会議事堂が描かれている[13]。菊花紋章が描かれた最後の紙幣であり、旧字体・右横書き[注 6]で文言が記載されている最後の紙幣でもある[13]。券面寸法が小さいことから印章は表面の﹁総裁之印﹂の1個のみであり﹁発券局長﹂の印章は省略されている[13]。 紙幣の印刷は一部を除き民間印刷会社へ委託されていたが[10]、印刷された工場に関わらず銘板は﹁印刷局製造﹂である。 記番号については通し番号はなく記号のみの表記となっている[4]。記号の下2桁が製造工場を表しており、下表の通り製造された7箇所の印刷所別に分類できる[14]。製造工場[14] | 記号下2桁[14] |
---|---|
大蔵省印刷局滝野川工場 | 12 |
大蔵省印刷局静岡工場 | 32 |
凸版印刷板橋工場 | 13 |
凸版印刷大阪工場 | 33 |
共同印刷小石川工場 | 15 |
東京証券印刷王子工場 | 16 |
東京証券印刷小田原工場 | 26 |
同時期に発行された十円券以下のA号券と同様に透かしは入っていない[13]。
使用色数は、表面3色︵内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色︶、裏面1色となっている[15][4]。印刷方式は両面とも平版印刷の簡易な紙幣である[13]。
製造期間は1947年度︵昭和22年度︶から1949年度︵昭和24年度︶までであった。
変遷[編集]
戦況の悪化に伴う硬貨用材料の枯渇により、1944年︵昭和19年︶8月まで製造されていた十銭硬貨︵十銭錫貨︶の代替として発行された。 ●1944年︵昭和19年︶10月25日‥い拾錢券の様式を制定[3]。 ●1944年︵昭和19年︶11月1日‥い拾錢券発行開始[3]。図柄は八紘一宇塔。 ●1947年︵昭和22年︶9月5日‥A拾錢券の様式を制定、同日発行開始[8]。図柄は鳩と国会議事堂。 ●1953年︵昭和28年︶12月31日‥小額通貨整理法により銭単位の法定通貨廃止。い拾錢券およびA拾錢券失効[1]。 終戦直後の1945年︵昭和20年︶11月13日からは新たな十銭硬貨︵十銭アルミニウム貨︶が一旦製造されたが翌1946年︵昭和21年︶10月10日には製造終了し、その後は再び十銭紙幣のみの製造発行となっていた。最終的にはインフレーションの進行により銭単位の現金通貨が意味を成さないものとなり、硬貨が復活することなく銭単位の法定通貨︵紙幣・硬貨︶自体が廃止となった。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 17組と18組は未確認。また最終の20組も実物の確認例が極めて少ない。
(二)^ 開戦前は白銅、青銅や純ニッケルを材料とした硬貨が発行されていたが、軍需用資材として転用させられたため、黄銅、更にアルミニウムなどを材料とした硬貨に代えられた。また、戦況の悪化に伴い寸法や量目︵重量︶についても度重なる縮小・削減が行われている。更に戦況が悪化すると、果ては貨幣用として適当な素材とは言い難い錫・亜鉛の合金を材料とした硬貨も発行されたが、大戦末期までにこれらの素材すらも確保が困難となり枯渇状態に陥っている[2]。1945年︵昭和20年︶の終戦時に製造されていた硬貨は、一銭錫貨のみという状況となっていた。
(三)^ 1957年︵昭和32年︶に﹁平和の塔﹂に改称。また同年には周辺地域が宮崎県立平和台公園として整備されることとなった。
(四)^ 記号の頭1桁と下2桁を除いた残り1 - 3桁
(五)^ 郵便切手については軍国主義的と見做されたデザインのものは発行及び使用が直ちに禁止された︵追放切手︶が、紙幣については従前から継続して発行・流通しているものについては引き続き発行・使用することが認められていた。
(六)^ 厳密には1行1文字の縦書き
出典[編集]
- ^ a b c d 1953年(昭和28年)7月15日法律第60号「 小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」
- ^ a b c d e f g 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、192-195頁。
- ^ a b c d e 1944年(昭和19年)10月25日大蔵省告示第489號「日本銀行券ノ種類ニ拾錢券及五錢券追加發行」
- ^ a b c d e f g h i 大蔵省印刷局『日本銀行券製造100年・歴史と技術』大蔵省印刷局、1984年11月、312-313頁。
- ^ a b 大蔵省印刷局『日本のお金 近代通貨ハンドブック』大蔵省印刷局、1994年6月、242-255頁。ISBN 9784173121601。
- ^ a b c d e f 植村峻 2015, pp. 177–181.
- ^ 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、188頁。
- ^ a b c d 1947年(昭和22年)9月5日大蔵省告示第205號「日本銀行券拾銭券の樣式」
- ^ 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、266頁。
- ^ a b c d 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、208-210頁。
- ^ 植村峻 2019, pp. 67–70.
- ^ 植村峻 2019, pp. 74–75.
- ^ a b c d e 植村峻 2015, pp. 201–202.
- ^ a b c 『日本紙幣収集事典』原点社、2005年、244頁。
- ^ 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、189頁。