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南部 信恩︵なんぶ のぶおき︶は、江戸時代中期の大名。陸奥国盛岡藩の第5代藩主。官位は従五位下・備後守。
延宝6年︵1678年︶9月22日、第4代藩主・南部行信の3男として江戸麻生屋敷にて誕生した。元禄14年︵1701年︶5月1日、行信の嫡子になった。前年に兄・実信が亡くなったためである。同年5月15日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。同年7月25日、毛利綱元の娘と結婚する。同年12月18日、従五位下・備後守に叙任する。元禄15年︵1702年︶11月27日、行信が死去したため家督を継ぐ。
元禄16年︵1703年︶4月15日、初めてお国入りするための暇を得る。同年、儒教に傾斜した父により重用され、藩主廃立にまで介入する儒臣を先代の遺命として断罪し、儒学傾斜策の弊害を改める。しかし、同年内に領内に凶作、江戸で元禄地震が起こる。大地震により江戸藩邸が全て全壊し、藩財政に打撃が与えられた。
信恩は宝永4年︵1707年︶12月8日に30歳で死去した。異母弟の利幹が養子となり家督相続した。信恩死後に実子の利視が生まれ、利幹の養嗣子となった。
●父‥南部行信︵1642年 - 1702年︶
●母‥慈恩院 - 岩井与市郎の娘
●正室‥真寿院 - 毛利綱元の娘、先夫は森長成
●側室・浄智院 - 黒沢氏
●次男‥南部利視︵1708年 - 1752年︶
●側室‥齢広院 - 新渡戸氏
●女子‥永井直期正室
●養子
●男子‥南部利幹︵1689年 - 1725年︶ - 南部行信の四男