喜連川宜氏
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喜連川宜氏 | |
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時代 | 江戸時代後期 - 末期(幕末) |
生誕 | 天保5年1月19日(1834年2月27日) |
死没 | 文久2年5月3日(1862年5月31日) |
改名 | 細川孝常(初名)→喜連川宜氏 |
別名 | 左近(通称)、左兵衛督 |
戒名 | 広源院 |
墓所 | 栃木県さくら市喜連川の龍光寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂 |
藩 | 下野喜連川藩主 |
氏族 | 肥後細川氏→喜連川家 |
父母 | 父:細川定良、養父:喜連川煕氏 |
兄弟 | 宜氏、細川孝典、岡川寛美 |
妻 | 正室:英子(喜連川煕氏の娘) |
子 | 養子:縄氏 |
喜連川 宜氏︵きつれがわ のりうじ︶は、江戸時代後期の大名。下野喜連川藩の第10代藩主。
細川定良︵肥後宇土藩主細川興文の四男である孝応の次男︶の長男で、初名は細川 孝常︵たかつね︶。
生涯[編集]
安政5年12月24日︵1859年︶、喜連川藩第9代藩主・喜連川煕氏の婿養子となる。もともと煕氏には同じ細川家から迎えた養嗣子の紀氏︵細川斉護の六男︶がいた。しかし安政5年︵1858年︶4月、煕氏は紀氏との養子縁組を解消した。一説には紀氏が喜連川家を継ぐのを嫌がり、藩から脱走したためとされる。そこで煕氏は、あらためて同年12月に同じく宇土細川家から孝常︵宜氏︶を養嗣子に迎えたのである。 万延元年︵1860年︶12月1日、将軍徳川家茂に御目見する。文久元年︵1861年︶12月、家督を相続する。文久2年︵1862年︶5月3日死去、享年29。系譜[編集]
父母 ●細川定良︵実父︶ ●喜連川煕氏︵養父︶ 正室 ●英子 ー 喜連川煕氏の娘 養子 ●喜連川縄氏 ー 徳川斉昭の十一男宜氏の実父について[編集]
﹃下野喜連川足利家譜﹄﹃大武鑑﹄によれば、宜氏は細川雅楽助孝応男、一方﹃平成新修旧華族家系大成﹄では宜氏は細川定良︵孝応の次男︶男とあって、史料によって記述が異なる。﹃肥後宇土細川家譜﹄では孝応の子女として通固︵通称は外栄︶と定良︵通称は右賢︶とあり、定良の子女に孝常︵通称は左近、喜連川左馬守煕氏養子︶、孝典︵後政典、通称は茂手木、小笠原修理長光養子︶、寛美︵姓は岡川、通称は速水、養子先は不明︶の3人が記述され、宜氏は定良の長男となっている。ちなみに祖父にあたる孝応は﹁江戸大名墓総覧﹂の775頁によれば、宜氏の生まれる以前の文政10年︵1827年︶1月25日︵﹃系図纂要﹄は文政7年1月25日に作る︶に死去している。参考文献[編集]
- 東京大学史料編纂所「下野喜連川足利家譜」【「栃木県史」史料編 近世4(1974同県)に当主略譜のみ抄録】
- 東京大学史料編纂所「肥後宇土細川家譜」【未翻刻】
- 秋元茂陽「江戸大名墓総覧」(1988著者刊)