大築尚志
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大築 尚志 | |
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生誕 |
1835年12月14日 下総国印旛郡佐倉(現千葉県佐倉市) |
死没 | 1900年6月12日(64歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1871 - 1889 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
臨時東京湾守備隊司令官 砲兵監 |
戦闘 | 日清戦争 |
大築 尚志︵おおつき たかゆき、1835年12月24日︵天保6年11月5日︶ - 1900年︵明治33年︶6月12日︶は、日本の陸軍軍人、陸軍中将。幼名、保太郎︵やすたろう︶。
人物・親族[編集]
沼津兵学校頭取、兵部省兵学助、陸軍省砲兵局長などを歴任。江戸幕府、明治政府で軍事技術者として活躍、日本における大砲などの武器の整備の近代化に大きく貢献した。息子の大築千里は京都帝国大学教授、また東京帝国大学出身で1905年︵明治38年︶に麹町女学校を創立した大築佛郎は四男。六女・壽天は田中義一に嫁いだ。孫に作曲家の大築邦雄がいる。略歴[編集]
下総国、佐倉藩士大築弥市尚忠の子として、佐倉城内で生まれる。母はつな。佐倉藩の藩校、成徳書院︵現在の千葉県立佐倉高等学校の前身︶で12歳の時の1847年︵弘化4年︶4月21日には、儒学の基礎である四書︵論語、孟子、中庸、大学︶を声に出して読む素読の試験を受け優秀な成績を収める。 1851年︵嘉永4年︶に藩から高島流砲術修行を命ぜられた。1853年︵嘉永6年︶と翌年のペリー艦隊来航に際して、沿岸警備のため下総国千葉郡寒川浦︵現、千葉市︶へ出張。藩命により1854年︵嘉永7年︶から、藩の洋学者である手塚律蔵などから蘭学、英学などを学んだ。1860年︵万延1年︶、佐倉において藩の洋学指南役を拝命、師の推挙で1862年︵文久2年︶蕃書調書出役教授手伝となった。 1865年︵元治2年︶幕臣に取立てられ、幕府陸軍で歩兵差図役として幕府の洋式軍隊編成にあたり[1]、1864年︵元治元年︶8月には翻訳した﹃歩兵心得﹄︵1860年版オランダ歩兵武器取扱等心得︶が刊行された。明治維新後、主家の駿河移封に従い、沼津兵学校創設を推進し、西周を頭取として招くことに尽力。西辞任後1870年︵明治3年︶には頭取並となる。 1871年︵明治4年︶の廃藩置県後に沼津兵学校は兵部省に移管され、陸軍中佐兼兵学助となる。その後、陸軍省第3局副長、造兵正御用取扱、砲兵本廠提理、砲兵会議副議長、砲兵局長、砲兵会議議長心得を経て、1886年︵明治19年︶陸軍少将・砲兵会議議長となる。さらに砲兵監、日清戦争の際は臨時東京湾守備隊司令官を命じられ、1889年︵明治32年︶には陸軍中将となり同時に後備役に編入された。 1900年︵明治33年︶6月12日、66歳で死去。死去にあたり正四位旭日重光章を賜る。青山墓地︵東京都港区南青山︶に葬られ、戒名は大興院殿真常尚志大居士。栄典[編集]
- 位階
- 勲章等
- 1885年(明治18年)11月19日 - 勲三等旭日中綬章[4]
- 1887年(明治20年)12月27日 - 金製黄綬褒章[5]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]
- 1895年(明治28年)8月20日 - 勲二等瑞宝章[7]
脚注[編集]
(一)^ https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatamotogokenin2/contents/46.html
(二)^ ﹃太政官日誌﹄ 明治7年 第1-63号 コマ番号109
(三)^ ﹃官報﹄第1019号﹁叙任﹂1886年11月20日。
(四)^ ﹃官報﹄第718号﹁賞勲叙任﹂1885年11月20日。
(五)^ ﹃官報﹄第1351号﹁彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 黄綬褒章下賜﹂1887年12月28日。
(六)^ ﹃官報﹄第1929号﹁叙任及辞令﹂1889年12月2日。
(七)^ ﹃官報﹄第3644号﹁叙任及辞令﹂1895年8月21日。
関連文献[編集]
- 樋口雄彦『大築尚志略伝』・沼津市博物館紀要(第11号)、1987年。
- 宮地正人編『幕末維新論集〈12〉明治維新の人物像』吉川弘文館、2000年。ISBN 9784642037327 (4642037322)