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天太玉命神社︵あめふとたまのみことじんじゃ[1]/あめのふとたまのみことじんじゃ︶は、奈良県橿原市忌部町にある神社。式内社︵名神大社︶で、旧社格は村社。
古代氏族の忌部氏︵斎部氏︶の氏神として知られる。
祭神は次の4柱[3]。
●天太玉命︵あめふとたまのみこと/あめのふとたまのみこと︶
●大宮売命︵おおみやのめのみこと︶
●豊石窓命︵とよいわまどのみこと︶
●櫛石窓命︵くしいわまどのみこと︶
延長5年︵927年︶成立の﹃延喜式﹄神名帳での祭神の記載は4座。同帳では﹁太玉命神社四座﹂として、祭神1座を太玉命神とするが、もう3座は明らかでない。なお、﹃延喜式﹄の名神祭条でも祭神を4座とする。
祭神について[編集]
主祭神の太玉命︵フトダマ︶は、古代氏族の忌部氏︵いんべうじ、斎部氏︶の祖神として知られる。﹃古事記﹄・﹃日本書紀﹄・﹃古語拾遺﹄ではこの神について、天照大神の岩戸隠れの際に天児屋命︵中臣氏祖神︶とともに神事を行なったことや、瓊瓊杵命︵邇邇芸命︶の天孫降臨の際に五部神︵五伴緒︶の1神として従ったことが記されている。その太玉命を祖とする忌部氏は、中臣氏とともに宮中祭祀を分掌した氏族であり、﹃延喜式﹄神名帳に﹁太玉命神社﹂として見える当社は、その忌部氏の氏神と推測される。また天太玉命神社の鎮座地一帯は、地名に﹁忌部﹂と見えることから忌部氏の本拠地︵本貫︶に比定される。ただし当社が神名帳の﹁太玉命神社﹂に比定されるのは、元禄10年︵1697年︶に松下見林が﹃太玉命社記﹄において提唱して以後のことで、古い由緒については詳らかでない。
前述の通り、﹃延喜式﹄神名帳では祭神を4座とするが詳細は明らかでない。これについて、﹃五郡神社記﹄では天太玉神・大宮乃売神・太玉命︵天富命か︶・天比乃理咩命の4神に比定するほか、松下見林の﹃太玉命社記﹄では天太玉命・大宮売命・豊石窓命・櫛石窓命の4神に比定しており、後者が現在に踏襲されている。大宮売命・豊石窓命・櫛石窓命の3神は、﹃古語拾遺﹄・﹃先代旧事本紀﹄において太玉命の御子神に位置づけられる神々になる。
なお、後述のように﹃類聚三代格﹄の貞観10年︵868年︶太政官符では、﹁天太玉神﹂の社は臼滝神・賀屋鳴比女神の社とともに飛鳥神の裔に位置づけられている。
創建は不詳。前述のように、天太玉命神社の鎮座地一帯は忌部氏の本拠地︵本貫︶と見られ、当社はその忌部氏の氏神として祀られたと推測される。
国史では、天安3年︵859年︶に﹁太玉命神﹂の神階が従五位上に昇叙された旨の記事が見える。また﹃類聚三代格﹄の貞観10年︵868年︶6月28日太政官符では、飛鳥神の四裔神の1つに﹁天太玉神﹂の社が挙げられている。
延長5年︵927年︶成立の﹃延喜式﹄神名帳では大和国高市郡に﹁太玉命神社四座 並名神大 月次新嘗﹂として、4座が名神大社に列するとともに、朝廷の月次祭・新嘗祭では幣帛に預かる旨が記載されている。また﹃延喜式﹄臨時祭の名神祭条においても、﹁太玉神社四座﹂として見える。しかし、中臣氏の伸長に反して忌部氏は奈良時代・平安時代頃に衰退し、太玉命神社もまた以後は衰退したものと見られている。
室町時代、嘉吉元年︵1441年︶の﹁興福寺官務牒疏﹂では高市郡忌部に鎮座する﹁太玉神﹂の記載が見え、興福寺の末で、神宮寺には蓮光寺があることが記されている。
江戸時代には﹁春日社﹂と称されていたが、元禄10年︵1697年︶に松下見林によって﹃延喜式﹄神名帳の﹁太玉命神社﹂に比定された。
明治維新後、明治41年︵1908年︶10月に近代社格制度において村社に列した。
●天安3年︵859年︶1月27日、従五位下から従五位上 ︵﹃日本三代実録﹄︶ - 表記は﹁太玉命神﹂。
摂末社[編集]
●玉依姫命神社 - 祭神‥玉依姫命[3]。本殿の向かって右手に鎮座する。
●春日神社 - 祭神‥天児屋根命[3]。本殿の向かって左手に鎮座する。
現地情報[編集]
所在地
●奈良県橿原市忌部町字一ノ道153
交通アクセス
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