山内豊誠
山内 豊誠 | |
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山内 豊誠 | |
時代 | 江戸時代末期 - 明治時代 |
生誕 | 天保13年2月4日(1842年3月15日) |
死没 | 明治41年(1908年)2月19日 |
官位 | 従五位下、侍従 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 土佐新田藩主 |
氏族 | 山内氏 |
父母 | 父:山内豊充、養父:山内豊福 |
妻 |
正室:兼(正親町実徳娘) 継室:妻木頼黄の姉 継室:珠子(綾小路有長娘) |
子 | 内藤正愨、豊英ら |
山内豊誠 やまうち とよしげ | |
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生年月日 | 1842年3月15日 |
没年月日 | 1908年2月19日(65歳没) |
前職 | 判事 |
配偶者 |
山内兼 (妻木頼黄の姉) 山内珠子 |
在任期間 | 1890年7月10日 - 1908年2月19日 |
山内 豊誠︵やまうち とよしげ︶は、幕末の大名。明治時代の貴族院議員。土佐国土佐新田藩6代︵最後の︶藩主。実父は山内豊充︵4代藩主・山内豊賢の弟︶。
略歴[編集]
明治元年︵1868年︶6月10日、先代藩主・山内豊福の養子となる。新政府に対して、豊福の自殺を隠し、重病のためとしていた。同年9月16日、豊福の死が公表され、豊誠が正式に跡を継いだ。戊辰戦争では新政府側として武功を挙げたため、5000両の恩賞を与えられた。明治2年︵1869年︶、版籍奉還により藩知事となる。明治3年︵1870年︶9月25日、廃藩置県に先立ち、土佐新田藩は本藩に編入、廃藩となる。同3年11月10日、明治天皇の次侍従となる。明治4年︵1871年︶7月28日、次侍従を退任する。 その後、新政府の役人となって司法省や宮内省に出仕した。明治14年︵1881年︶判事となる。明治17年︵1884年︶子爵を授けられた。明治23年︵1890年︶7月10日、貴族院議員に選ばれ[1]、亡くなるまで在任した[2]。明治41年︵1908年︶2月19日、67歳で死去した。脚注[編集]
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (麻布)山内家初代 1884年 - 1908年 |
次代 山内豊英 |