岩村俊武
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岩村 俊武︵いわむら としたけ、1866年10月5日︵慶応2年8月27日︶ - 1943年︵昭和18年︶11月9日[1]︶は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。団次郎が幼名だが成人後も長らくこの名前で通した。一時教通と名乗り大正4年︵1915年︶に俊武と改名。
弟 岩村通世
︵﹃大日本司法大観﹄より︶
履歴[編集]
慶応2年︵1866年︶、土佐国幡多郡宿毛︵現・高知県宿毛市︶に岩村通俊の次男として生まれた。明治20年︵1887年︶7月、海軍兵学校︵14期︶を卒業。明治22年︵1889年︶9月、海軍少尉任官。日清戦争、日露戦争に出征。特に水雷戦術に長じていた。日露戦争では第3艦隊参謀として出征し、その職のまま旅順要塞を攻略する第3軍に連絡将校として派遣され︵途中で第1艦隊参謀に異動︶、旅順開城委員の海軍代表として名を連ねた。 明治41年︵1908年︶2月、軍令部副官に就任し、同年9月、海軍大佐に昇進。明治43年︵1910年︶12月、横須賀鎮守府付となり、同44年︵1911年︶12月、装甲巡洋艦﹁吾妻﹂艦長に着任。戦艦﹁香取﹂艦長を経て、大正2年︵1913年︶12月、海軍少将に進級し朝鮮総督府付武官となる。 大正3年︵1914年︶11月、臨時青島要港部司令官に就任し、第4水雷戦隊司令官、第1水雷戦隊司令官、練習艦隊司令官、海軍将官会議議員を歴任。大正6年︵1917年︶12月、海軍中将に進み大湊要港部司令官となった。大正8年︵1919年︶12月、二度目の将官会議議員に就任。大正9年︵1920年︶8月に待命となり、大正10年︵1921年︶4月、予備役に編入。 退官後、郷里の宿毛に帰ったがのちに上京し昭和18年︵1943年︶11月に死去。墓は東京多磨霊園。栄典[編集]
位階 ●1891年︵明治24年︶12月14日 - 正八位[2] ●1896年︵明治29年︶12月21日 - 正七位[3] ●1914年︵大正3年︶1月30日 - 正五位[4] ●1917年︵大正6年︶12月28日 - 従四位[5] 勲章等 ●1906年︵明治39年︶4月1日 - 功三級金鵄勲章、勲三等旭日中綬章、明治三十七八年従軍記章[6] ●1920年︵大正9年︶11月1日 - 勲一等瑞宝章[7]親族[編集]
●父 岩村通俊 ●弟 岩村通世 ●従弟 林譲治著書[編集]
●﹃馬鹿鳥の声﹄冨山房、1922年。 ●﹃馬鹿鳥の声 続﹄冨山房、1943年。脚注[編集]
(一)^ ﹃日本海軍史﹄第9巻、132頁。 (二)^ ﹃官報﹄第2539号﹁叙任及辞令﹂明治24年12月15日 (三)^ ﹃官報﹄第4046号﹁叙任及辞令﹂1896年12月22日。 (四)^ ﹃官報﹄第451号﹁叙任及辞令﹂1914年1月31日。 (五)^ ﹃官報﹄第1624号﹁叙任及辞令﹂1917年12月29日。 (六)^ ﹃官報﹄7005号・付録﹁叙任及辞令﹂1906年11月2日。 (七)^ ﹃官報﹄第2660号﹁叙任及辞令﹂1921年6月14日。参考資料[編集]
●﹃高知県人名事典﹄高知市民図書館、1970年。 ●外山操編﹃陸海軍将官人事総覧 海軍篇﹄芙蓉書房出版、1981年。 ●福川秀樹﹃日本海軍将官辞典﹄芙蓉書房出版、2000年。 ●海軍歴史保存会編﹃日本海軍史﹄第9巻、発売:第一法規出版、1995年。先代 土屋光金 |
大湊要港部司令官 第12代:1917年12月1日 - 1919年12月1日 |
次代 森山慶三郎 |