平山訓子
表示
ひらやま おしえ 平山 訓 | |
---|---|
晩年の 1924年(大正13年)新宿有明堂にて | |
生誕 |
蔵原 訓(くらはら おしえ) 1882年12月20日 日本・ 熊本県下益城郡小川町大字東小川字引上1081番地(現・宇城市) |
死没 | 1925年5月1日、享年44(満42歳没) |
別名 | 平山 訓子(ひらやま おしえこ) |
職業 | ジャーナリスト(熊本の女性初)、文筆家、歌人、実業家 |
平山 訓子︵ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - 1925年5月1日︶[注釈 1]
は、熊本初の女性ジャーナリスト、文筆家、歌人、実業家。本名は平山 訓︵ひらやま おしえ︶、旧姓蔵原、元和歌山県知事で衆議院議員の蔵原敏捷は実弟である[5]。
生涯[編集]
熊本県下益城郡小川町︵現・宇城市︶出身[6]、父・蔵原穆あつし、母・そでの長女として生まれる[5]。 1901年3月、熊本女学校[注釈 3]を卒業後まもなく、徳島県出身︵生まれは東京府︶[注釈 5]の平山八十五郎[注釈 7]と結婚、一児をもうけるが、1903年5月、夫八十五郎が米国ハーバード大学留学中に客死したため、同年9月、幼子を実家に預け[注釈 8] 、九州日日新聞社︵のち、熊本日日新聞社に社名変更︶に入社した[5][注釈 9]。熊本の女性記者第一号として活動する[6][10][5]。﹁戦争と婦人﹂﹁回春病院の半日﹂など数多の連載署名記事[注釈 11]を残し、1908年3月に退社した[5]。 のち、上京し[注釈 13] 大日本婦人教育会の幹事として活動する[34][35][注釈 15]。その一環としてか、1912年2月には﹃名流大家の観たる理想の婦人及家庭﹄︵実業之日本社︶に、理想の婦人像について、大隈重信、津田梅子、蔵原惟これ郭ひろ[注釈 16]など13名[注釈 17] の名流大家︵教育者︶の一人として執筆している[注釈 23]。その間、﹁かげ草﹂[55]、﹁伯父さん﹂[56]、﹁おきのさん﹂[57]などの小説や﹃小公子﹄の翻訳[58]などの文筆活動を手がけた。 その傍ら事業活動もおこない、代々木に有あり明あけ製菓︵製菓工場︶[59]、新宿に有あり明あけ堂︵喫茶、洋食、菓子販売︶[60][49][注釈 26]をそれぞれ開業したが[注釈 27]、1925年に持病の心臓病[注釈 29] が悪化し、5月1日死去[28]。享年44︵満42歳没︶。墓は小川町の蔵原家墓地にあり、夫八十五郎とともに眠っている[28]。訓子の死後、有明製菓は実弟の蔵原史とし樹きが[59][64][注釈 30]、有明堂は実子の春はる海みが引き継いだ[75][65][注釈 31]。 1925年に発表した﹃歌集 有あり明あけ﹄[注釈 38]は遺稿[注釈 39]で、坂元雪せっ鳥ちょうはその巻末に、追悼文﹁小母さんを想ふ﹂[注釈 41]を寄せている[10][90]。また、与謝野晶子は訓おし子えこの死を悼み、訪ほう熊ゆうした折に親しく訓子の実家を訪ねてその霊を慰めている[91]。 ﹁踊りつつ 吾はゆくなり四よそ十と歳せの 神の恵みに識れる大おほ路ぢを﹂ 訓子の辞世の歌である[92]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ﹁訓子﹂のふりがなは﹁おしえこ﹂[1][2][3]。国立国会図書館のNDLサーチでは、読みを﹁クニコ→オシエコ﹂に訂正している[4]。
(二)^ このエピソードは﹁近代肥後異風者伝﹂で紹介されたもの[10]。﹁近代肥後異風者伝﹂は熊本日日新聞朝刊に2001年4月から2010年3月まで連載され、幕末~昭和初期に活躍した熊本の85人を収録、のち10人を加えて書籍化され出版されている[11]。
(三)^ 訓子が学んだ当時の校母は竹崎順子。訓子は、師と仰ぐ順子先生の思い出を感謝の気持ちを込めて綴っている[7]。また、女学校時代の友人に野田タキノと野口精せい子こ[8]がいる。タキノは野田卯太郎の娘で松野鶴平に嫁ぐ[9]が、その仲をとりもったのが訓子である[注釈 2]。野口精子は歌人で﹃夕ばえ﹄[12]など多くの作品を残しているが、1921年8月の精子の予期せぬ死を悼み、訓子は月刊誌﹃新人﹄に追悼文を寄せている[13]。
(四)^ 徳島県人名辞典[14]によると、幕末の徳島藩士一覧に平山姓は一人だけ記載されている。平山留蔵である。留蔵は、江戸詰めをしていたようで、1851年︵嘉永4年︶、宇橋源栄の次男・藤次郎を養子として三田の江戸屋敷に迎えている。これが八十五郎の実父と思われる。また、後述の訓子の歌集に﹁天津空 群れ照る星の光とも 賞でまし君が園の小菊は︵征石翁に︶﹂という歌がある[15]。1910年の歌で、この年5月に藤次郎が亡くなっている[16]ことから、この歌は、義父で軍人の、藤次郎に対する追悼歌と思われる。﹁征石翁﹂に関する歌はこの一首のみで、日頃の交流はなかったのかもしれない。征石翁、軍人に相応しい呼び名である。
(五)^ 平山家は徳島藩馬廻二百石の家柄でルーツは徳島県である[10][注釈 4]
が、八十五郎の出生地は東京府[17]。
(六)^ その後八十五郎は、北海道庁河西支庁に勤務[21]したのち、1901年1月、熊本県立八代中学校︵現八代高等学校︶に着任[22]、のち、蔵原訓を妻に迎える[5]。1902年5月、八代中学校を退任[23]し、ハーバード大学留学のため、米国に向けて出航する[5]。このとき愛児の顔を見ての出航か定かでない。
(七)^ 平山八十五郎について次の記述がある。﹁札幌農学校入学前︵東京帝国大学予科生の時、1889年~1892年頃︶[18]、八十五郎は東都に名の知れた、日本の陵上競技黎明史に残るような運動家であった。頗すこぶる発達した心臓の持ち主で[19]、足が一直線に伸びる華麗なフォームで走り、当時は誰もが彼に歯が立たなかった︵松村松年談︶。
1898年7月に札幌農学校農学科を卒業[20][注釈 6]
したが、その後、米国留学中に客死した。﹂という趣旨の記述があり、併せて札幌農学校時代の第16回遊戯会︵体育会︶における八十五郎の活躍ぶりを伝えている[24][25]。前述の松村松年は札幌農学校の3期先輩で[26]、東京帝国大学予科の同級生にビタミンB1の発見者、鈴木梅太郎がいる[27]。
(八)^ 後述の連載コラム﹁落葉かご﹂に、﹁ただ美しきは愛の一輪、いかに美しき眺めに非ざるか﹂と実家に残した愛児への切ない思いを吐露している[10]。同じく後述の連載コラム﹁ふるさと日記﹂は、訓子の故郷における人々の暮らしぶりや情景、日露戦争直前の若者達との交流、などを綴ったものである[10]が、これは、母おや児こが触れ合う機会を作るための新聞社の配慮だったのかもしれない。
(九)^ 訓子は﹁入社の辞﹂[28]で次のように述べている。﹁...近時教育の普及がいちじるしく婦人界の活勢を添え来りしより各種の慈善会組織せられ学校教師出で看護婦出で電話交換手出るなど社会事業の一部が確かに婦人の力を待つことの多きに至れるは我らが深く悦びとする処なれども日々駸しん々しんとして進み行く文明の前途は尚広く長く極り無き理程︵里程︶を有するにあらずや見よや家庭組織の上に於て育児の上に於て近くは服装の上に於て緻密なる改善を加へ優しくして鋭き婦人の斧を揮うべき余地、甚だ少なしとせず、此時に当り時に其の指導者となり慰撫者となり或は鼓吹者となりて健全優美なる理想の地にそを引率し行くは洵まことに時代の必要と謂はざる可らず...﹂。男尊女卑の時代に果敢に挑戦した若き女性︵このとき訓子は満20歳︶の心意気が読み取れる。この﹁優しくして鋭き婦人の斧を揮う﹂という思いは、訓子の人生観を象徴している。
(十)^ 訓子の連載記事のうち、特に日露戦争に関する記事は好評だったようで、女性向け週刊新聞の﹃婦女新聞﹄に、﹁平山訓子氏の奮闘ぶりに大塊翁が喜び、女史に掛軸を贈った﹂との記述がある[30]。
(11)^ 主な署名記事‥﹁入社の辞﹂︵1903年9月22日︶、﹁新しき年の使ひ﹂︵1904年元旦号︶、﹁朝井夫人と語る上、下﹂︵1904年4月13日、4月14日︶、﹁雷いかづち艦長三村夫人と語る﹂︵1904年4月15日~17日︶、﹁病兵慰問記﹂︵1904年7月17日︶、﹁戦争と婦人﹂︵1905年1月24日~29日︶、﹁軍隊歓迎と婦人﹂︵1905年10月26日︶、﹁熊本母の会記﹂︵1906年6月26日~7月1日︶、﹁回春病院の半日﹂︵1906年11月25日~12月8日︶、﹁坪井葉煙草専売局を観る-工女労働の模様﹂︵1907年6月28日~30日︶など、日露戦争に関する記事が多い[5][10][29][注釈 10]。
これらの署名記事は、﹁谷川憲介﹃近代熊本女性史年表﹄亜紀書房、1999年12月刊﹂に全文掲載されており[5]、ほかに﹁落葉かご﹂、﹁ふるさと日記﹂などの連載コラムや著名人との対談記事を執筆している[10]。
(12)^ いたつき︵労いたつき︶‥苦労あるいは病。
(13)^ 後述の﹃歌集 有明﹄[31]に、1908年春に詠まれた歌がある。﹁幼き日 君と遊べる夢に見て 花心ある春の朝かな﹂﹁駒鳥の 鳴く野邉戀しいたつき[注釈 12]に とらわれてより四しが月つ經にけり﹂など[32]。後述しているが、歌は、上京後の1908年から辞世の1925年まで時系列に並んでいる。このことから、上京は1908年春で、新聞社を退社後間もない頃と思われる。また、同じ歌集に故郷に残した我が子を想う歌がある。1909年秋の歌で、﹁旅にある 吾子のため日並べて 裁てど縫へどもあかず長き夜﹂﹁恙なく もの学べかし秋の夜を 汝がために縫う薄き毛けご衣ろも﹂[33]とあり、この﹁旅にある吾子﹂は﹁遠く離れた我が子﹂を指している。幼子を母・そでに預けての上京であった[5]。
(14)^ 訓子は、大日本婦人教育会の活動として、羽仁もと子︵報知新聞出身︶、岸本柳子︵大阪毎日新聞出身︶らとともに、新聞記者の経験を活かし、同会の雑誌の編集および発行を担っている[38]。同誌は隔月発行で、内容も、講演会記事に加え家庭・婦人欄を設けるなど総合雑誌の色合いが強くなっていくが、訓子が退会したと思われる1918年以降は単なる会報に名を変え、年2回の発行となった[38]。同会が機関誌の編集を訓子等専門家に委ねるように方針転換させたことを契機として、明治期における婦人新聞記者が、その後の婦人雑誌の担い手として登場してくるようになる[39]。
(15)^ 大日本婦人教育会は、1887年、載こと仁ひと親王妃を総裁に毛利安子︵公爵の母︶を会長に創立されたもので、500名近い会員を擁し女子教育の向上と普及を活動目的に掲げている団体である[36]。本部は麹町区永田町一丁目十九番地にあり、訓子は名流婦人の間に伍して才色兼備をもって知られていた[34]。総会や各種行事への参加など、1908年11月から1917年5月までの訓子の活動が記録されている[37][注釈 14]
。
(16)^ 蔵原惟郭は肥後国阿蘇郡黒川村︵現在の熊本県阿蘇市︶の阿蘇蔵原家の出身で[40][41]、訓子の生家である小川蔵原家は阿蘇蔵原家の分家に当たり、その祖は二にべ辺づ塚か城主・蔵原志しま摩のか守みこ惟れな長が︵1490年-1560年︶である[42]。小川蔵原家は阿蘇の名門・蔵原家をルーツとする旧きゅ家うかであるが、いまは大きな屋敷跡の草におおわれた石垣だけが往時の栄華をしのばせている[5]。1909年発行の﹃富貴要鑑﹄に、訓子の父・蔵原穆の名がある[43]。﹃富貴要鑑﹄は前年の高額所得者をリストアップしたものでこの年のみ発行されているが、中でも穆はかなり上位の所得者で[43]、小川町長を2回務めている[44][45]。
(17)^ 津田梅子、成瀬仁蔵、三輪田真佐子、安部磯雄、棚橋絢子[46]︵私立東京高等女学校長︶、蔵原惟郭、山脇房子、大隈重信、嘉悦孝子、下田歌子、服部綾雄、荒川重秀︵1891年創設当時の育英黌こう︵東京農業大学の前身︶の教頭、札幌農学校の1期生︶[47]、平山訓子の13名。訓子はこのとき満29歳。訓子以外は何れも教育界の重鎮で、13名の中で訓子は飛びぬけて若かった。何かで評価されての抜擢だと思うが、その痕跡が見当たらない。
(18)^ 罪のしも‥深い罪悪感や後悔。
(19)^ 後述する﹃歌集 有明﹄の1912年の歌。﹁戒めて 鞭をかざして高たか物ものを 打ちつつ今日も凩こがらしは吹く﹂﹁僞りか 罪のしも[注釈 18]
とか選べとて 二つの道を指さすは誰ぞ﹂﹁狂ほしき 血の迸ばしり天つ日を 隠して今日は薄暗きかな﹂﹁生き残る 蠅二三匹壁を這ふ 我が此頃を思はする秋﹂﹁生命をば その一いっ壺こに投げ入れて 燃ゆる焔の勢ひを見よ﹂﹁湯たんぽを 抱きて今日も籠りけり 汽車の響きも懐かしみつつ﹂など[51]、憂いに満ちた悲痛な歌が続く。
(20)^ 父の葬儀に帰熊したときの訓子の歌。﹁おのれをば 見詰むる者の寂しさと 喜びを知る時の來よかし︵春海へ︶﹂[52]、1912年初夏の歌である。このとき、息子の春海は満9歳。4年振りの母と子の再会である。
(21)^ 訓子の歌集に、﹁憂へつつ 驛路を一つ乗り越しぬ 鎌倉に病む妹よ安かれ︵妹の死︶﹂﹁いみじくも 尊き玉は隠されし 寂しきままに逝かんとすらん︵妹の死︶﹂﹁病みて臥す 子に今生の暇すと 母は百里の道を來ませり︵妹の死︶﹂[54]とある。1912年秋の歌である。
(22)^ 1912年は、訓子にとって最悪の年だったようだ。当時、玄児は東京朝日新聞社の社会部長であったが、玄児の、妻イヨに対する離婚訴訟と新聞社内のゴタゴタが原因で、ある雑誌社の心ない中傷記事が玄児だけでなく訓子にも及び、翻弄された[50]。辛い日々だったようで、このころの訓子は暗い歌ばかり詠んでいる[注釈 19]。さらに不幸は続く。この年、訓子の父・穆が亡くなって[注釈 20]、弟の敏とし捷かつが家督を継ぎ[53]、さらに追い打ちをかけるように、妹も病死している[注釈 21]。しかし訓子は﹁境遇何ぞ運命何ぞと云ふ﹂逆境に負けない強さを持っていたようで、これらを踏み台にして、のちの有明製菓及び有明堂の開業につなげていく。
(23)^ 訓子が執筆した第十六章は、次の文章で結んでいる。﹁...故に若し此等の人々にして、猶不平や不満やに閉されつつありとすれば、开それは此愛を握らないからであって、此愛を握り得る眞境地に達することが出來れば、必らず境遇何ぞ運命何ぞと云ふ意氣が湧き出て、笑って此世が渡れるかと思ひます。要するに私共は此清くして、貴き眞の愛の境地をふまへることが肝要だと思ひます。﹂[48]。 訓子の生きざまの一端が見える。しかし、これと前後して起きる渋川玄耳との恋愛事件とそれに続く玄児の離婚騒動が、訓子のその後の人生に暗い影を落としている[49][注釈 22]。
・^ 1935年︵昭和10年︶頃の﹃火災保険特殊地図﹄︵都市整図社発行︶のうち、新宿駅周辺を復元したもの︵﹁日本の古本屋﹂の解説より抜粋︶。
・^ 1935年頃の新宿三丁目の地図[61][注釈 24]によると、新宿駅東口から見て、新宿追分のほてい屋︵のちの伊勢丹新宿店︶の交差点の少し先に明治製菓があり、その筋向いの交差点角に吾妻バーがある。また、1930年発行の﹃東京名物食べある記﹄[62]には、明治製菓の筋向いに、有明堂、上海料理の芳明、吾妻バーが並ぶ、とある。有明堂は伊勢丹新宿店の斜向いに位置していた。
・^ 当時、有明堂は現在︵2024年2月︶の伊勢丹新宿店の斜はす向いにあり[注釈 25]
、与謝野晶子が出入りするなど文化人のサロンとして親しまれていた[49][10]。また、二人の中国人コックを雇い入れて﹁チャーハン﹂を売り出し、名流婦人を招待するなど宣伝宜しきを得、繁盛していたとの記述もある[63]。有明製菓を含め業績も好調だったようで、紳士録に、平山訓[60]、蔵原史樹︵後述︶[64]、平山春海︵後述︶[65]の名がある。
・^ ほかに、1922年戸塚町に出資金9000円︵共同出資、訓子の出資金は3000円︶で内外製菓を設立している[66]。これは投資目的だったようで翌1923年に資金を回収している[67]。また、後述の坂元雪鳥の追悼文[68]に﹁...十一二年前、緊要にしてしかも世に閑却されてゐる方面で、手をつけたい事業はかずかずその眼前に竝んで見えた...︵中略︶...若し爰に數年を假したなら、菓子屋有明堂の女将は忽ちに婦人界の闘將として打ち出でられるのであったと思ふと、親しい懐かしい小母さんを亡ったといふ私情の悲みに數倍する悼惜の念に堪へないものがある...﹂とある。訓子は有明製菓や有明堂を軸にして、事業を拡大したいという思いがあり、その根底には前述した﹁入社の辞﹂にあるように﹁優しくして鋭き婦人の斧を揮う﹂という強い思いがあったのではないか。因みに雪鳥の追悼文にある﹁十一二年前﹂は、後述する訓子の帰熊時期に重なる。
・^ かへるさ‥帰りがけ。
・^ ﹃歌集 有明﹄に一篇の詩が載せてある[69]。﹁﹃病める心臓﹄十二歳のとき 海水浴のかへるさ[注釈 28] はじめてお前が私に巣喰ふのを知った...︵中略︶...仕事に私が身を入れ歩いても 戀の白金に一時を燃焼しても お前は必ず其足取をはばみ お前は其火に水をかけ 私を失望と憂苦に陥し入れて そして冷かにほほ笑むのだ おお悲しい! 病める心臓 不遠慮な悪魔とを怖るるあまり そっとお前をいたはって居る 日向ぼっこの縁へ出て 静かに息を殺しながら 病めるお前を抱えてうららかな三日月を見て居る﹂とある。前述したように、夫・八十五郎の心臓は﹁頗る発達した心臓﹂で、訓子のそれは﹁病める心臓﹂。足して2で割ったら、とも思うが皮肉なものである。
・^ 史樹はその後、1934年4月1日から1936年8月10日まで和菓子の老舗・塩瀬総本家の代表取締役を務めている[70][71][72]。史樹は、東京帝国大学法科出身[73]で弁護士でもあるが、1936年9月15日に弁護士資格が失効している[74]ことから、退任事由は死亡と思われる。
・^ 有明堂を引き継いだ時、春海は明治大学の学生であったが、のち松野鶴平との縁で鐘紡に入り静岡工場長を務め、妻・睦との間に三男三女をもうけた[76]。春海は、訓の死後、1930年まで店を守っていたようで、1931年の﹃大日本商工録﹄に営業税56円、所得税30円の記載がある[77]。以降有明堂についての記録は見当たらない。
・^ 帰熊中の歌は24首ある[78]。﹁何やらむ 春の野を吹く風に似て 此頃われを巡る香りは﹂﹁ありとある 花を聚あつめむ此の夕 久くお遠んの戀の新にひ室むろのため︵弟敏捷の婚姻に︶﹂﹁匂やかに 嫩どん葉ようは煙り向つ峰 向つ谿たに々だに春の日を着る﹂﹁向つ山 眼近かに見えて生温き 風吹きそよぐ雨來るらし﹂﹁尾おのの上えより 捕おとし來りし眼白の子 今朝を初めて高らかになく﹂﹁ゆくりなく 十年別れし友に逢ふ 筑紫の旅は夢多きかな︵友人タキノを訪ねて︶﹂など、心弾む歌が多い。
・^ 1920年当時、旧制高等学校︵一高~八高︶の入学方式は、試験科目と試験問題が全校共通とされ、入学者の選抜は学校別で行われるという﹁共通試験の単独選抜方式﹂であった[80]。試験は同一日程で、受験場所は志望校に定められ、答案は各校で集められ採点された[80]。受験生は1校しか受験することができなかった[80]。
・^ ﹁生ひ立ちて 世の光たり鹽たらず﹂‥幼少期に辛い思いをさせた、の意。聖書にある﹁塩と光﹂から派生した歌と思われる。
・^ しかし春海には戸惑いがあったようだ。父を知らずに生まれ、母の温もりを知らずに幼少期を過ごした。訓子は、そんな息子の心情を汲み、自覚していて、﹁生ひ立ちて 世の光たり鹽しおたらず[注釈 34] 呪はれし子の生命悲しき﹂﹁反感の あとなくとけてひそやかに 母と呼ぶ子の痛ましきかな﹂[82]と詠んでいる。1923年の歌で、この年春海は熊本の五高を出て再び上京し、明治大学に進学している。翌1924年にも、﹁蒼白く 黙せるままに出で行きし 幸薄き子は海か陸地か︵去りし子十一首︶﹂[83]などと詠んでいる。訓子の﹁優しくして鋭き婦人の斧を揮う﹂という人生は、一人息子の生い立ちに犠牲を強いてのもの、だったのかもしれない。
・^ 当時、府立四中は府立一中︵現在の東京都立日比谷高等学校︶と並ぶ名門校で、一高から東京帝国大学に進学するためのスパルタ式の受験勉強で鳴らしていた[79]。しかし、春海は府立四中を卒業︵当時の旧制中学校は5年制︶後、郷愁の念からか一高ではなく五高を選び[注釈 33]
、東京を後にして熊本に帰ってまう[10][5]。その、1920年春の訓子の歌。﹁おお吾が子 暗をば脱けよ光をば 衣にきよと叫ぶわれ母﹂﹁一人子の わが﹃春海﹄なり一つ葉の 風にそよがぬそのさまに居よ﹂﹁思はじと 思へともなほ現うつつにも 夢にも消えぬ吾わが子こなるかな﹂﹁吾あ子こよ來よ 寂しき母と言ひやらん 其そを忍びつつ春の日暮るる﹂﹁花咲くと 喜び合ひし子等あらず 味氣なき日をまた春に見る﹂など[81]、一人子を思う母親の顔がのぞくが、あるいは失恋に似た心情だったのかもしれない[注釈 35]。
・^ ﹃歌集 有明﹄に、﹁母と呼ぶ 聲を怪しみ振り返り 夕暮れ近き路に佇む︵春海の看護より歸る途上︶﹂という歌がある[84]。1915年春~初夏の歌で、寄宿舎にいる息子を見舞った帰路での歌と思われる。
・^ 歌は全部で250首あり時系列に並んでいる[31]。したがって、歌集は訓子の日記でもある。歌は、上京後の1908年に始まり1925年の辞世で終わっており、人生の後半の足跡を、短歌という形で残している。歌集から足跡を辿ると、訓子は上京後もたびたび帰熊していたようで、特に、1913年春からの帰熊は2年近くに及び、その間、故郷の情景を数多く詠んでいる[注釈 32]。故郷で﹃小公子﹄の翻訳などの文筆活動をしながら、のちに展開する製菓事業についての構想︵実家からの資金援助[10]など︶を練っていたようだ。1915年、訓子は息子・春海を連れて上京する。この年﹃小公子︵翻訳︶﹄を出版[58]、春海は府立四中︵現在の東京都立戸山高等学校︶[注釈 36]に入学し[10]、東京で寄宿舎生活を始めた[注釈 37]。
ほどなく訓子は、前述の有明製菓および有明堂を開業することになる。
・^ ﹃明治大正歌書解題﹄には、﹁平山訓子﹂﹁遺稿集﹂とあり、巻頭の歌とともに﹃詩歌集 有明﹄として紹介されている[85]。
・^ 雪鳥の人柄を偲ばせる逸話は、ほかにもいくつかある。雪鳥は、師や友が困難を迎えた時に身を尽くす、そういう、他ひ人とに篤い人物だったようだ。師である夏目漱石の、1910年8月24日の﹁修善寺の大患﹂における雪鳥の奮闘ぶりはよく知られたところで、雪鳥は、漱石が療養に出かけた8月18日から3週間、漱石の傍にいて、心身の両面にわたって気遣っている[88]。また、友である渋川玄児が亡くなった1926年4月には、葬儀の費用がないと聞き、玄児秘蔵の短冊を漱石の夫人・鏡子に買い取ってもらい葬儀の費用に充てた、との逸話もある[89]。
・^ 坂元雪鳥は訓子より3、4歳年上であるが、追悼文の中で、﹁小母さんと呼ぶのは、何處となく人を撫で順したがへる天性が自然に小母さんといふ風格を具へてゐたから、その風格に引きつけられて小母さんにしてしまった。それでも訓さんは小母さん貌をしたり、姉御づらをしたりする人ではなかった。察しがよくて氣が置けないながら、何處かに厳格さがあった。﹂と述懐している[68]。訓子は雪鳥について歌集の中で、﹁去こ年ぞ見しは 日に背かれし君なりき いま見る君は日を抱く君︵SS氏と語る︶﹂﹁その心 かへ給ふなと母のごと 四つ年上の君に説く夕︵SS氏と語る︶﹂などと詠んでいるが[86]、これらの歌は1924年の歌で、﹁日を抱く君﹂と詠んだのは、この年の雪鳥の結婚[87]を指してのことなのかもしれない。年上で名の知れた国文学者の雪鳥を﹁撫で順へる﹂訓子もそうだが、それを受容する雪鳥の人柄をも偲ばせる逸話[注釈 40]
である。
出典[編集]
(一)^ 吉村一郎﹁熊本県新聞史﹂﹃新聞研究﹄日本新聞協会、1953年9月、43頁。doi:10.11501/3360578。ISSN 0288-0652。全国書誌番号:00012459。
(二)^ 江刺昭子﹁有明の憂愁歌人 平山訓子﹂﹃女のくせに―草分けの女性新聞記者たち﹄インパクト出版会、1997年1月、202頁。ISBN 978-4755400612。 NCID BN1605163X。
(三)^ 内川芳美﹃新聞史話 生態と興亡﹄社会思想社、1967年、82頁。doi:10.11501/2933374。全国書誌番号:67000548。
(四)^ “平山訓子”. 国会図書館典拠データ検索. 2024年3月6日閲覧。
(五)^ abcdefghijkl木鐸 2000, p. 30.
(六)^ ab“熊本最初の女性記者”. 新聞博物館. 熊本日日新聞. 2024年5月15日閲覧。
(七)^ 平山訓子﹁順子竹崎先生を憶ふ﹂﹃新女界 第1巻 第2号﹄新人社、1909年5月1日、29-31頁。
(八)^ “野口精子”. 近代文献人名辞典(β). 2024年3月11日閲覧。
(九)^ 人事興信所﹃人事興信録7版﹄人事興信所、1925年、ま59頁。doi:10.11501/13046227。全国書誌番号:43007701。
(十)^ abcdefghijkl井上智重﹁近代肥後異風者伝﹃平山訓 熊本の女性記者第一号﹄﹂﹃熊本日日新聞﹄2005年5月31日、朝刊、9面。
(11)^ 井上智重﹁平山訓 熊本の女性記者第一号﹂﹃異風者 (いひゅうもん) 伝 : 近代熊本の人物群像﹄熊本日日新聞社、2012年1月、265-270頁。ISBN 978-4877554095。全国書誌番号:22025797。
(12)^ 野口精﹃夕ばえ﹄警醒社書店、1915年10月31日。doi:10.11501/908484。全国書誌番号:42003483。
(13)^ 平山訓子﹁だんだん淋しくなります﹂﹃新人10月号﹄新人社、1921年10月1日、89-90頁。doi:10.11501/1510403。全国書誌番号:00012238。
(14)^ ﹃徳島県人名事典. 別冊﹄徳島新聞社、1994年6月、264頁。ISBN 4-88606-022-6。全国書誌番号:95008113。
(15)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、24頁。
(16)^ ﹃海事新報︵257︶﹄帝国海事協会、1910年5月、14頁。doi:10.11501/1500786。全国書誌番号:00003272。
(17)^ ﹃北海道帝国大学一覧 自大正9年至11年﹄北海道帝国大学、1922年4月、321頁。doi:10.11501/940224。全国書誌番号:43010030。
(18)^ ﹃東京帝国大学一覧 明治23-24年﹄帝国大学、1890年12月、326頁。doi:10.11501/813167。全国書誌番号:40041458。
(19)^ 松村松年﹃新時代の国民体育﹄明治図書、1926年3月、117頁。doi:10.11501/939879。全国書誌番号:43009836。
(20)^ ﹁札幌農学校一覧 自明治37年至明治38年﹂﹃札幌農学校一覧 明治36-39年分﹄札幌農学校、1907年3月、113頁。doi:10.11501/812781。全国書誌番号:40041286。
(21)^ ﹃職員録 明治32年︵乙︶﹄印刷局、1898年、10頁。doi:10.11501/779777。全国書誌番号:40017124。
(22)^ ﹃職員録 明治34年︵乙︶﹄印刷局、1901年、452頁。doi:10.11501/779781。全国書誌番号:40017124。
(23)^ ﹃官報 1902年05月17日﹄大蔵省印刷局、1902年、356頁。doi:10.11501/2948961。全国書誌番号:00084180。
(24)^ 野口源三郎、奈良岡健三﹁我が国に於ける初期の陸上競技史に関する研究(1) : 北海道大学の巻﹂﹃順天堂大学体育学部紀要﹄第8号、習志野 : 順天堂大学、1965年12月、4-5頁、doi:10.11501/1838255、ISSN 0288187X。
(25)^ 奈良岡健三﹁明治大正時代の北海道大学におけるスポーツ・体育に関する研究﹂﹃北海道大學教育學部紀要﹄第17巻、北海道大學教育學部、1970年1月、25-26頁、CRID 1050564288945134592、hdl:2115/29050、ISSN 04410637。
(26)^ ﹁札幌農学校一覧 自明治37年至明治38年﹂﹃札幌農学校一覧 明治36-39年分﹄札幌農学校、1907年3月、111頁。doi:10.11501/812781。全国書誌番号:40041286。
(27)^ ﹃東京帝国大学一覧 明治23-24年﹄帝国大学、1890年12月、324-326頁。doi:10.11501/813167。全国書誌番号:40041458。
(28)^ abc木鐸 2000, p. 32.
(29)^ 江刺昭子﹁有明の憂愁歌人 平山訓子﹂﹃女のくせに―草分けの女性新聞記者たち﹄インパクト出版会、1997年1月、204頁。ISBN 978-4755400612。 NCID BN1605163X。
(30)^ 福島四郎﹃婦女新聞﹄ 復刻版第6巻、不二出版、1982年12月、275頁。ISBN 978-4-8350-3564-2。
(31)^ ab平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月。
(32)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、2-3頁。
(33)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、21頁。
(34)^ ab瀬沼茂樹﹃日本文壇史21﹄講談社、1978年2月、223-224頁。doi:10.11501/1349725。全国書誌番号:78009319。
(35)^ 香内信子﹃與謝野晶子と周辺の人びと―ジャーナリズムとのかかわりを中心に﹄創樹社、1997年1月、35頁。ISBN 978-4794305299。
(36)^ 江刺昭子﹁有明の憂愁歌人 平山訓子﹂﹃女のくせに―草分けの女性新聞記者たち﹄インパクト出版会、1997年1月、212頁。ISBN 978-4755400612。 NCID BN1605163X。
(37)^ ﹃財団法人大日本婦人教育会五十周年記録﹄大日本婦人教育会、1937年。doi:10.11501/1462928。全国書誌番号:46062981。。
(38)^ ab﹃日本の婦人雑誌﹄大空社、1986年10月、35-37頁。doi:10.11501/12236381。全国書誌番号:87012117。
(39)^ 近代女性文化史研究会﹃婦人雑誌の夜明け﹄大空社、2016年2月1日、48頁。ISBN 978-4283013247。全国書誌番号:22705296。
(40)^ ﹁阿蘇の豪族﹃蔵原一族﹄の歴史記録集めた﹃くらはら館﹄﹂﹃広報あそ﹄2009年2月号、阿蘇市、2009年、2-5頁。
(41)^ 大江志乃夫﹁藏原惟郭﹂﹃熊本人物鉱脈 : この百年をつくる﹄熊本日日新聞社、1963年、141-143頁。doi:10.11501/2986534。全国書誌番号:64009682。
(42)^ 山本十郎﹁第四章 阿蘇家の支持 其の三 蔵原志摩守附 小川蔵原﹂﹃阿蘇魂﹄阿蘇魂刊行会、1969年9月、180-181頁。doi:10.11501/9768988。全国書誌番号:73002048。
(43)^ ab﹃富貴要鑑﹄富友館、1909年7月、169頁。doi:10.11501/900157。全国書誌番号:41018981。
(44)^ ﹃職員録 明治37年 乙﹄印刷局、1904年、475頁。doi:10.11501/12356499。全国書誌番号:40017124。
(45)^ ﹃地方自治体の沿革と其の人物‥熊本県﹄自治通信社、1932年、551頁。doi:10.11501/1234599。全国書誌番号:47007440。
(46)^ “棚橋絢子”. 近代文献人名辞典(β). 2024年5月9日閲覧。
(47)^ 外山敏雄﹁札幌農学校草創期の人々﹂﹃英学史研究﹄第1975巻第7号、日本英学史学会、1974年9月、203-208頁、CRID 1390001205118065152、doi:10.5024/jeigakushi.1975.195、ISSN 03869490。
(48)^ 平山訓子﹁第16章 処世上の真境地﹂﹃名流大家の観たる理想の婦人及家庭﹄実業之日本社、1912年2月、163-172頁。doi:10.11501/758395。全国書誌番号:40003614。
(49)^ abc木鐸 2000, p. 31.
(50)^ 香内信子﹃與謝野晶子と周辺の人びと―ジャーナリズムとのかかわりを中心に﹄創樹社、1997年1月、35-36頁。ISBN 978-4794305299。
(51)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、29-32頁。
(52)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、28頁。
(53)^ 校友調査会 編﹃帝国大学出身名鑑 再版﹄校友調査会、1934年、ク32頁。doi:10.11501/1280156。全国書誌番号:47009432。
(54)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、30-31頁。
(55)^ 平山訓子﹁かげ草﹂﹃東西南北﹄有楽社、1908年6月、83-88頁。doi:10.11501/1488348。全国書誌番号:00016700。
(56)^ 平山訓子﹁伯父さん﹂﹃新女界 第1巻 第4号﹄新人社、1909年7月、25-28頁。
(57)^ 平山訓子﹁おきのさん﹂﹃新女界 第3巻 第6号﹄新人社、1911年6月、18-20頁。
(58)^ ab平山訓子 訳﹃バーネット夫人の﹁小公子﹂﹄名著評論社、1915年1月。doi:10.11501/1716401。全国書誌番号:45022525。
(59)^ ab﹃最近東京市工場要覧﹄東京市、1928年、451頁。doi:10.11501/1120399。全国書誌番号:46089702。
(60)^ ab﹃日本紳士録31版﹄交詢社、1927年、738頁。doi:10.11501/2127095。全国書誌番号:47013817。
(61)^ 新宿区立新宿歴史博物館﹃新宿盛り場地図﹄新宿区立新宿歴史博物館、2005年、1頁。
(62)^ ﹃東京名物食べある記﹄正和堂書房、1930年、92頁。doi:10.11501/1176069。全国書誌番号:47011289。
(63)^ 大津保﹃ジグザグ人生﹄大坪佐八、1968年、196頁。doi:10.11501/3448920。全国書誌番号:73003885。
(64)^ ab﹃日本紳士録32版﹄交詢社、1928年、284頁。doi:10.11501/1145537。全国書誌番号:47013817。
(65)^ ab﹃日本紳士録33版﹄交詢社、1929年、677頁。doi:10.11501/1145603。全国書誌番号:47013817。
(66)^ ﹃官報第3043号 付録﹄1922年9月21日、1頁。doi:10.11501/2955161。全国書誌番号:00084180。
(67)^ ﹃官報第3274号 付録﹄1923年6月29日、7頁。doi:10.11501/2955397。全国書誌番号:00084180。
(68)^ ab坂元雪鳥﹁小母さんを憶ふ﹂﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、巻末。
(69)^ 平山訓子﹁病める心臓﹂﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、92-97頁。
(70)^ ﹃官報第2260号 付録﹄1934年7月14日、29頁。doi:10.11501/2958736。全国書誌番号:00084180。
(71)^ ﹃官報第2962号 付録﹄1936年11月14日、6頁。doi:10.11501/2959444。全国書誌番号:00084180。
(72)^ ﹃人事興信録 第11版 改訂版 上﹄人事興信所、1937年、ク77頁。doi:10.11501/2127093。全国書誌番号:46057934。
(73)^ ﹃東京帝国大学卒業生氏名録﹄東京帝国大学、1926年、54頁。doi:10.11501/940177。全国書誌番号:43010019。
(74)^ ﹃官報第2913号 本文﹄1936年9月15日、372頁。doi:10.11501/2959395。全国書誌番号:00084180。
(75)^ ﹃職業別電話名簿 東京・横浜近県15版﹄日本商工通信社、1926年、368頁。doi:10.11501/950547。全国書誌番号:43018374。
(76)^ 木鐸 2000, pp. 30–31.
(77)^ ﹃大日本商工録 昭和6年版 全国13版﹄大日本商工会、1931年、402頁。doi:10.11501/1107975。全国書誌番号:44056545。
(78)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、35-42頁。
(79)^ 保田卓、薄葉毅史、竹内洋﹁近代日本の学歴貴族の社会的出自と進路 : 第一高等学校入学者調査表と同窓会名簿の分析から﹂﹃教育社会学研究﹄第65巻、日本教育社会学会、1999年、62頁、CRID 1390282680374332416、doi:10.11151/eds1951.65.49、ISSN 03873145。
(80)^ abc森口千晶‥一橋大学経済研究所教授﹁旧制高等学校の入学者選抜制度改革‥マッチング理論とEBPMの観点からの考察﹂﹃内閣府経済社会総合研究所﹃経済分析﹄﹄第203号、内閣府経済社会総合研究所、2021年7月、190頁、CRID 1520299616454110208、ISSN 04534727。
(81)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、53-55頁。
(82)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、79-80頁。
(83)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、85頁。
(84)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、45頁。
(85)^ 本美鉄三﹃明治大正歌書解題﹄白帝書房、1930年、182頁。doi:10.11501/1178660。全国書誌番号:47022266。
(86)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、86頁。
(87)^ 日本近代文学館 編﹁坂元雪鳥﹂﹃日本近代文学大事典 第2巻 (人名 こーな)﹄講談社、1977年11月、96頁。doi:10.11501/12450423。全国書誌番号:78002480。
(88)^ 小宮豊隆﹁雪鳥君の﹃修善寺日記﹄﹂﹃漱石・寅彦・三重吉﹄岩波書店、1942年、248-255頁。doi:10.11501/1127319。全国書誌番号:46025172。
(89)^ 高田素次﹃山麓抄﹄球磨郷土研究会、1962年、128頁。doi:10.11501/2933158。全国書誌番号:63002005。
(90)^ 江刺昭子﹁有明の憂愁歌人 平山訓子﹂﹃女のくせに―草分けの女性新聞記者たち﹄インパクト出版会、1997年1月、214頁。ISBN 978-4755400612。 NCID BN1605163X。
(91)^ 香内信子﹃與謝野晶子と周辺の人びと―ジャーナリズムとのかかわりを中心に﹄創樹社、1997年1月、38頁。ISBN 978-4794305299。
(92)^ 平山訓子﹃歌集 有明﹄平山春海刊、1925年5月、91頁。