載仁親王妃智恵子
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載仁親王妃 智恵子 | |
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閑院宮 | |
続柄 | 三条実美第2女子 |
全名 | 智恵子(ちえこ) |
身位 | 親王妃 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1872年6月30日 |
死去 |
1947年3月19日(74歳没) 日本・神奈川県小田原市 |
埋葬 |
1947年3月26日 日本・東京都文京区、豊島岡墓地 |
配偶者 | 閑院宮載仁親王 |
子女 |
篤仁王 安藤恭子(恭子女王) 黒田茂子(茂子女王) 季子女王 閑院宮春仁王 寛子女王 戸田華子(華子女王) |
父親 | 三条実美 |
母親 | 三条治子(鷹司輔煕の九女) |
栄典 |
勲一等宝冠章 |
役職 |
大日本婦人教育会総裁 日本赤十字篤志看護婦人会総裁 愛国婦人会総裁(1903年 - 1924年)[1] |
載仁親王妃 智恵子︵ことひとしんのうひ ちえこ、1872年6月30日︵明治5年5月25日︶ - 1947年︿昭和22年﹀3月19日︶は、日本の皇族。閑院宮載仁親王の妃[2]。身位は親王妃で、皇室典範における敬称は殿下。母方を通じて、東山天皇の7世孫にあたる。
愛国婦人会の総裁を務めた︵中上︶
1872年6月30日︵明治5年5月25日︶、公爵・三条実美の二女として誕生[2]。母は、鷹司輔煕の九女・治子。旧名は、三条 智恵子︵さんじょう ちえこ︶。
6歳ほどより跡見女学校へ通い、跡見花蹊に学ぶ[3]。絵画を得意とし、四條派の写生画、南宗派の文人画を修め、﹁花堤﹂の雅号を持つ[3][4]。1891年︵明治24年︶閑院宮載仁親王と結婚する。載仁親王との間には、篤仁王︵夭折︶、恭子女王︵安藤信昭夫人︶、茂子女王︵黒田長礼夫人︶、季子女王、春仁王、寛子女王、華子女王︵華頂博信夫人、後に戸田豊太郎夫人︶の2男5女を儲けた。
上から三姉妹は自身と同じ跡見女学校へ通わせ、春仁王は学習院、下の二姉妹は女子学習院に通わせた[3][5]。篤仁王のほか、季子女王は腎臓病、寛子女王は関東大震災での被災により[6]、いずれも成人を迎えずに没している。
邸内に学問所を設けて教師を参邸させるなど[7]、子女の教育に熱を入れる一方、社会公共の事業にも精力を傾け、大日本婦人教育会や日本赤十字篤志看護婦人会の総裁を務めた。日露戦争の時には、愛国婦人会の総裁に就任した。
1947年︵昭和22年︶3月19日、神奈川県小田原市にある閑院宮邸で薨去した[8]。満74歳没。
同年3月26日、東京都文京区の豊島岡墓地にて葬儀が行われた[9]。
略歴[編集]
栄典[編集]
- 1891年(明治24年)12月26日 - 勲一等宝冠章[10]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[11]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[12]
脚注[編集]
(一)^ 今井小の実﹁愛国婦人会と社会事業‥大正後期の山口支部の活動に焦点をあてて﹂︵関西学院大学人間福祉学部研究会﹃Human welfare﹄第12巻第1号、2020年︶
(二)^ ab維新史料編纂会 1929, p. 2.
(三)^ abc中村秋人﹁閑院宮妃殿下﹂﹃名媛と筆蹟﹄博文館、1909年
(四)^ 坂本辰之助︵編︶﹁妃智恵子殿下﹂﹃皇室及皇族﹄ 昭文堂、1910年
(五)^ 皇室写真帖編纂所︵編︶﹁閑院宮(御住所麹町区永田町)﹂﹃皇室写真帖﹄皇室写真帖発行所、1922年、p.86
(六)^ 小田原市 1967, p. 393.
(七)^ 跡見花蹊﹁女王殿下を偲び奉りて﹂﹃をりをり草﹄実業之日本社、1915年
(八)^ ﹃官報﹄第6055号、﹁告示 宮内省告示第五号﹂、昭和22年3月24日
(九)^ ﹃官報﹄第6056号、﹁告示 宮内省告示第六号﹂昭和22年3月25日
(十)^ ﹃官報﹄第2550号、﹁叙任及辞令﹂、明治24年12月28日
(11)^ ﹃官報﹄第7578号・付録、﹁辞令﹂、明治41年9月28日
(12)^ ﹃官報﹄第4438号・付録﹁辞令二﹂1941年10月23日。