彦五瀬命
彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「彦五瀬命」や「五瀬命(いつせのみこと)」、『古事記』では「五瀬命」と表記される。
神武天皇(初代天皇)の長兄である。
記録[編集]
『日本書紀』・『古事記』によると、鸕鶿草葺不合尊と海神の娘の玉依姫との間に生まれた長男である。弟に稲飯命・三毛入野命・神日本磐余彦尊(神武天皇)がいる。
彦五瀬命は弟たちとともに東征に従軍したが、浪速国の白肩津(あるいは孔舎衛坂)での長髄彦との交戦中に長髄彦の放った矢に当たった。彦五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東に向かって)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西に向かって)戦おう」と助言し、一行は南へ廻り込んだ。
しかし紀国の男之水門に着いた所で、彦五瀬命の射られた傷が悪化した。この時に彦五瀬命が「賊に傷つけられて死ぬとは」と雄叫びしたので、その地は「雄水門(おのみなと、男之水門)」というとする。その後『日本書紀』によると紀国竈山で亡くなり、竈山に墓が築かれたという。ただし『古事記』では紀国男之水門で亡くなったとする。
墓[編集]
墓は、宮内庁により和歌山県和歌山市和田にある竈山墓︵かまやまのはか、北緯34度12分4.97秒 東経135度12分14.93秒︶に治定されている[1][2]。宮内庁上の形式は円墳[1]。
彦五瀬命の墓について、﹃日本書紀﹄では前述のように竈山に墓が築かれた旨が記されている。延長5年︵927年︶成立の﹃延喜式﹄諸陵寮︵諸陵式︶では﹁竈山墓﹂の名称で記載され、紀伊国名草郡の所在で、兆域は東西1町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する︵紀伊国では唯一の陵墓︶。これに先立つ持統天皇5年︵691年︶には有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に﹃日本書紀﹄・﹃古事記﹄の編纂と並行して、﹃帝紀﹄や﹃旧辞﹄に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある[3]。またその際には、日本武尊墓︵伊勢︶・彦五瀬命墓︵紀伊︶・五十瓊敷入彦命墓︵和泉︶・菟道稚郎子墓︵山城︶をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある[3]。
彦五瀬命の神霊を祀る神社としては、竈山墓の南麓に竈山神社︵式内社︶が鎮座する。また、岡山県岡山市東区の安仁神社︵式内社︶では神武天皇の兄︵あに‥安仁︶として、稲氷命︵稲飯命︶・御毛沼命︵三毛入野命︶とともに祀られている。