戸田華子
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戸田 華子 (華子女王) | |
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閑院宮家、華頂侯爵家 | |
続柄 | 閑院宮載仁親王第5女子 |
全名 | 戸田 華子(とだ はなこ) |
身位 | 女王 →(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下 →(皇籍離脱) |
出生 |
1909年6月30日 日本・神奈川県小田原市 閑院宮別邸 |
死去 |
2003年5月10日(93歳没) 日本・東京都調布市 |
配偶者 | 華頂博信(1951年離婚) |
戸田豊太郎 | |
子女 |
華頂博道 伏見博孝 松岡治子 |
父親 | 閑院宮載仁親王 |
母親 | 載仁親王妃智恵子 |
栄典 |
勲二等宝冠章 |
役職 |
大日本婦人衛生会 日本工業倶楽部 |
戸田 華子︵とだ はなこ、1909年︿明治42年﹀6月30日 - 2003年︿平成15年﹀5月10日︶は、日本の元皇族、元華族夫人。閑院宮載仁親王の第5女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。旧名は、華子女王︵はなこじょおう︶。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。皇籍離脱後の名は、﹁華頂 華子︵かちょう はなこ︶﹂から﹁竹村 華子﹂を経て、﹁戸田 華子﹂。
人物[編集]
1909年︵明治42年︶6月30日 、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第5女子︵第7子/末子︶として、神奈川県小田原市の閑院宮御別邸で誕生した。 1926年︵大正15年︶12月13日に侯爵華頂博信と結婚し、﹁華頂 華子︵かちょう はなこ︶﹂となり、2男1女をもうけるも、1951年︵昭和26年︶に離婚。華頂博信との離婚後、竹村姓の戸籍を編成し、﹁竹村 華子﹂と名乗る。その後、不倫相手であった戸田豊太郎︵徳川慶喜の孫娘徳川喜和子の元夫︶と再婚し、﹁戸田 華子﹂となる。戦後の旧皇族関係者の離婚第1号となった。 2003年︵平成15年︶5月10日午前4時32分、肺炎のため、東京都調布市内の病院にて死去。93歳没。なお、葬儀の喪主は、長男・華頂博道が務めた。親族[編集]
●父‥閑院宮載仁親王 ●母‥載仁親王妃智恵子︵三条実美公爵令嬢︶ ●兄弟姉妹‥篤仁王 - 恭子女王 - 茂子女王 - 季子女王 - 春仁王 - 寛子女王 - 華子女王 ●夫‥ ●前夫‥侯爵華頂博信︵伏見宮博恭王第3王男子︶ ●後夫‥戸田豊太郎 ●子女‥ ●長男‥華頂博道 ●次男‥伏見博孝 - 伏見博英︵博英王、博信の叔父︶の養子となる。 ●長女‥松岡治子 - 松岡震三︵松岡洋右の三男で住友金属工業専務︶夫人[1][2] 伯父の伏見宮貞愛親王は、最初の夫・華頂博信の祖父にあたる。 また、日本映画製作者連盟事務局長をつとめている華頂尚隆は、孫︵華頂博道の息子︶にあたる。栄典[編集]
脚注[編集]
- ^ “松岡震三・元住友金属工業専務が死去”. 日本経済新聞. (2010年12月16日)
- ^ 佐藤朝泰 (1987). 門閥: 旧華族階層の復権. 立風書房. p. 98
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1926年12月14日。
参考文献[編集]
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻(1996年・霞会館)