智泉
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智泉︵ちせん、延暦8年2月14日︵789年3月15日︶? - 天長2年2月14日︵825年3月25日︶?[1]︶は、平安時代前期の真言宗の僧。讃岐の人。俗姓菅原氏︵一説に阿刀氏︶。母は空海︵弘法大師︶の姉と伝えられる。空海の甥で十大弟子の一人。空海が亡き智泉の供養のため書いた﹁亡弟子智泉が為の達嚫文﹂が﹃性霊集﹄巻八にある。
生涯[編集]
●延暦16年︵797年︶、9歳のとき空海に連れられて故郷を去り、大安寺の勤操に預けられたと伝えられる[2]。 ●延暦21年︵802年︶、14歳のとき空海の近士︵従者︶となったと伝えられる[3]。 ●延暦23年︵804年︶、16歳のとき受戒と伝えられる[4]。 ●同年7月、入唐留学僧・空海の乗る遣唐使船が肥前松浦を出発。智泉も侍者として同行したと伝えられる[5]。 ●大同元年︵806年︶10月、空海が唐から帰国。大宰府に留まる。大同年中に空海から両部灌頂を受けたと伝えられる[6]。 ●大同4年︵809年︶7月、嵯峨天皇の勅命により空海が入京、高雄山寺に入る。智泉も随行したと伝えられる。 ●弘仁3年11月13日︵812年12月20日︶、最澄から書簡と進物を受け、空海へのとりなしを依頼される[7]。12月、空海により高雄山寺の三綱の1人︵ほかは杲隣、実恵︶に選ばれる。 ●弘仁年中、空海に随い高野山に来て東南院︵と後に号される伽藍の起源となる草庵︶を造り滞在すると伝えられる[8]。 ●天長2年2月14日︵825年3月25日︶、病により高野山東南院にて没すと伝えられる︵延暦8年︵789年︶生説なら享年37︶。 叔父で師匠の空海より先に亡くなったため、空海が駆けつけ智泉の死を悼んだとされる伝説[編集]
智泉は孝順の士といわれ、父母にまつわるものが多い。
●父の死を予感
大同4年︵809年︶、河内の高貴寺に滞在中のある晩、胸騒ぎがして急に父母に会いたくなり讃岐に帰郷したところ、父は病に臥せっていた。父は死ぬ前に会えたことを喜び、智泉の手を握って、お前のおかげで浄土に往生できると言い、息を引き取る。智泉は百日の間泣きながら経を唱え冥福を祈ったと伝えられる。
●皇后のため普賢菩薩像に祈り皇子誕生の霊験を得る
大同4年︵809年︶、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子︵当時は夫人︶は、世子誕生を祈るため山城国相楽郡に報恩院を建て、智泉にこれを託す。智泉がそこで祈ったところ、空から一軸の法華曼荼羅が降ってきた。このことを師空海に報告すると、この経の守護である普賢菩薩の像を造り本尊として祈れば、必ず感応があると教えられる。智泉は夢のお告げにより、天然に﹁宝威徳上王仏﹂の六字をなす霊木を発見。たまたま来た仏師椿井双法眼が自ら助力を申し出、半ばまで彫り進んだところ、讃岐より智泉の母が来訪し、母も彫刻に加わる。母の腕前は法眼が驚嘆するほどで、たちまち像は完成。智泉が像に眼を入れ、誠を尽くして祈ると、翌弘仁元年︵810年︶、皇子が誕生︵後の仁明天皇︶した。これにより智泉は神僧と称され、世の崇敬を集めた。
●地獄から母を救う
母の死から数年後、智泉は夢で母が地獄に堕ちたことを知る。何とかして母を救おうと師空海に相談し、智泉は破地獄の法を伝授される。これを心を込めて修したところ、その晩、夢に母が現れ﹁お前に救われて、今、天上に往生しました﹂と告げたという。﹃元亨釈書﹄巻九にある。﹃弘法大師弟子伝﹄﹃弘法大師弟子譜﹄は、智泉の母が地獄に堕ちるなどあり得ないとして、この説話を採用する﹃元亨釈書﹄を批判。