武見太郎

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たけみ たろう


武見 太郎
防衛医科大学校卒業式で祝辞を述べる武見(1980年3月16日)
生誕 1904年明治37年)8月7日
日本の旗 日本 京都府
死没 (1983-12-20) 1983年12月20日(79歳没)
東京都
墓地 妙法寺 (杉並区)
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
出身校 慶応義塾大学医学部
職業 医師
肩書き 世界医師会会長
配偶者 秋月英子
子供 武見敬三(第27代厚生労働大臣
武見可質(父)
武見初(母)
親戚 菊地養之輔
大友よふ
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  190487 - 19831220

196136[1]姿沿

27

経歴[編集]

武見太郎の像(観音寺 ・京都市東山区)

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エピソード[編集]


RhAB21GHQF[8][ 2][9]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 吉田からは「絶対に診察料を取るな」と厳命されていたという。米内には酒を適量なら飲んでもいいと言い、酒が好きな米内も「いい医者だよ。酒を飲んでいいと言ったからね」と上機嫌だったが、これは既に米内の病状が手の施しようがない程悪化し、せめて最期には好きなものを嗜んで欲しい、という配慮だった。しかし米内は肺炎で最期を迎えたため、結果的には杞憂にはなっている。なお「診察料を取るな」と吉田茂が言明したのは岡田啓介もいる。どちらも「お国の為に頑張った方だから」という吉田茂の配慮である。(阿川弘之「米内光政」(新潮文庫、1982年)ISBN 4-10-111006-9
  2. ^ (本文から)サムス准将、そのとき大佐ですが、彼の部屋の前に厚生省の偉い人がちゃんとすわっていて、「おい、何でもいわれたことは、はいはいと聞いておくんだぞ。あとからごまかし方を教えてやるから」という。私はそこでカチッときた。ごまかし方を教えてやるからというのは、ちょっと聞きずてにならない。私はそれまで役人とはつきあいがなかった。(中略)私は喜んで出ていった。そうしたら、外に厚生省の役人の偉いのがまだちゃんと待っていて、「おい、どうした」というから「ふざけるな」といって帰ってきたのです。

出典[編集]



(一)^  5071http://www.med.or.jp/jma/about/50th/ 

(二)^  : 1960,7020111173-73ISBN 9784588312113 

(三)^ abcde19041983. www.nichiren.or.jp. 20231018

(四)^  CMINC) 

(五)^ . (2011519). 20231018

(六)^  2020-01-22

(七)^ 19041983. www.nichiren.or.jp. 20231018

(八)^ 西稿 - 2011西

(九)^ 5725

著書[編集]

  • 『武見太郎回想録』日本経済新聞社、1968年2月24日。NDLJP:2977014 
  • 『寸鉄医言』日本医事新報社出版局 1972
  • 『医心伝真』実業之日本社 1976
  • 『聴心記』実業之日本社 1978
  • 『21世紀は慢性肝炎が国民病になる 国民医療非常事態宣言』サイマル出版会 1979
  • 『ベッドでつづった病人のための病人学 日本医師会長の150日間闘病記』実業之日本社 1981
  • 『戦前戦中戦後』講談社 1982
  • 『実録日本医師会 日本医師会長25年の記録』朝日出版社 1983
  • 『武見太郎の人と学問』武見記念生存科学研究基金武見太郎記念論文集編集委員会編 丸善 1989

翻訳[編集]

  • ヤング『比較人間論 人間研究序説』監訳 広川書店 1976

参考文献[編集]

医師性善説に賭けて…………武見太郎 p283 - p306 〔初出:「武見太郎・二十五年の功罪」 『潮』1982年8月号〕
  • 保阪正康『天皇が十九人いた さまざまなる戦後』(角川文庫、2001年)
「ケンカ太郎」の棺を覆うてから――武見太郎の功罪 p238 - p265 〔初出:『新潮45』1988年5月号〕

関連項目[編集]

外部リンク[編集]