渡辺綱倫
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渡辺綱倫 | |
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守綱寺所蔵 | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 天保4年7月10日(1833年8月24日)[1] |
死没 | 元治元年9月13日(1864年10月13日) |
別名 | 通称:小半蔵→半蔵 |
墓所 | 愛知県豊田市寺部町の守綱寺 |
官位 | 従五位下、飛騨守 |
主君 | 徳川茂徳→義宜 |
藩 | 尾張藩家老 |
氏族 | 三河渡辺氏 |
父母 | 父:渡辺寧綱 |
妻 | 成瀬正肥養女(渋谷良徳娘) |
子 | 綱聡 |
渡辺 綱倫︵わたなべ つなとも︶は、江戸時代後期の尾張藩家老。渡辺半蔵家12代当主。
渡辺綱倫の墓(豊田市守綱寺)
家督は、8月に生まれたばかりの長男・綱聡が相続した。
生涯[編集]
天保4年︵1833年︶、尾張藩家老・渡辺寧綱の長男として誕生した。万延元年︵1860年︶、寧綱の死去により家督を相続する。 文久元年︵1861年︶、皇女和宮の降嫁の際に、幕府より尾張藩に道中警護の命が下り、中仙道で警護に当たった。文久3年︵1863年︶、家老となる。同年、従五位下、飛騨守に叙任。元治元年︵1864年︶7月、禁門の変の際に、銃隊100人を率い京都御所南門を守備した。長州兵との戦闘で敗れた責任を取って同年9月13日、自害する。享年32。出典[編集]
- 『豊田市史』
脚注[編集]
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻(霞会館、1996年)p.860