牧野康哉
牧野康哉 | |
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時代 | 江戸時代後期 - 末期 |
生誕 | 文政元年11月17日(1818年12月14日) |
死没 | 文久3年6月13日(1863年7月28日) |
改名 | 修橘・徳橘(幼名)、康哉 |
戒名 | 篤信院殿譲誉義山礼興大居士 |
墓所 | 長野県小諸市の牧野家墓地 |
官位 | 従五位下、四品、遠江守 |
幕府 | 江戸幕府 若年寄 |
藩 | 信濃国小諸藩主 |
氏族 | 牧野氏 |
父母 | 父:牧野貞幹、養父:牧野康命 |
兄弟 | 貞一、康哉、貞勝 |
妻 |
正室:松平信豪の娘 継室:朽木綱條の娘 |
子 |
康済、本多忠直、康保 娘(牧野忠泰継室のち牧野忠毅正室) |
牧野 康哉︵まきの やすとし︶は、信濃小諸藩の第9代藩主、江戸幕府の若年寄。越後長岡藩分家牧野家11代。
経歴[編集]
文政元年︵1818年︶10月17日、常陸笠間藩主牧野貞幹の次男として江戸日比谷で生まれる。幼少時より聡明であり、西洋通で知られた。小諸藩の第8代藩主牧野康命の養子となり、天保3年︵1832年︶に康命が死去したため家督を継ぎ、従五位下・遠江守に叙位・任官する。 天保の大飢饉で藩内に大被害を受けると、育児法を制定して子育米を配給するなど、子女の救済を積極的に行った。また、当時は天然痘が流行していたが、未だ種痘は世間に認知されておらず普及していなかった。そこで藩医を長崎に学ばせた上、初めに自分の娘2人に種痘を施しその普及に努めた。これは日本初の種痘の実施である。 安政2年︵1855年︶には農村救済のために農村復興方を設置した。さらに家臣に二宮尊徳の報徳仕法を学ばせて実施したり、凶作に備えて貯蓄を行なうなどしている。産業の奨励も行ない、領内の小県郡長瀬・立岩などで和紙の製造業が盛んになったのも、康哉の時代からである。 これら一連の藩政の成功は幕府からも高く評価され、奏者番等を経て安政5年︵1858年︶には若年寄に任じられ、将軍継嗣問題では井伊直弼を支持し、直弼のブレーンとして幕府の中枢で活躍した。文久3年︵1863年︶6月13日に死去した。享年46。跡を長男の康済が継いだ。 康哉の業績は高く評価されており、懐古園には﹁牧野公遺徳碑﹂が建設されている。門閥の平均化[編集]
概要[編集]
天保年間後半に門閥の平均化の作業が行われている。足高制はわずかな例外に留め、家柄に応じて支給する持高を引き下げて、役職手当を整備するという内容であった。 これにより、有能な人材が登用しやすくなった一方で、お家騒動がおきやすい土壌を醸成してしまったことは、否めない。不祥事続きの大胡以来[1]家臣・木俣家を除き、結果的に順送り人事[編集]
小諸馬場町大火︵現在の小諸市古城二丁目︶で知られる木俣家以外は、天保年間末ごろを基準とすれば、用人格以上の格式を持つ家については、次のようなことが言える。 天保年間以降から、廃藩までの期間に、用人格以上の家は、用人職以上に短期間でも、1度は、就任していることが確認できる。つまり、不祥事・非行を繰り返した木俣家︵重郎右衛門・多門家系︶を例外とすれば、順送り人事によって、栄誉的に花道が作られていたことがうかがわれる。下記掲載の江戸武鑑にある木俣熊之進とは、当家から分家として分出された家である。万延元年の江戸武鑑による主要家臣[編集]
﹁大武鑑・中﹂に掲載された万延元年︵1860年︶の武鑑に掲載された家臣。江戸武鑑は、当時の民間出版によるものなので、確実性に乏しい面がある。小諸藩の一次史料と異なる部分が多数ある。 ●(家老・家老家︶ ●武鑑上では他藩の家老同様に役職名記載無しで、2名記載 加藤六郎兵衛︵定府︶、牧野八郎左衛門 ●用人 小諸藩の用人の定数は原則3名であるが、7名の記載がある。側用人も用人として記載しているものとみられる。小諸藩において、側用人は用人より2階級低く、職権・職域もまったく異なる。 本間九郎左衛門︵定府︶、河合作兵衛、稲垣左一兵衛︵定府︶、真木蔵太、神戸安右衛門、加藤孫蔵︵定府、附兼務︶、真木九馬右衛門︵公用人兼務︶ ●公用人︵用人兼務者除く︶ 本間彦作︵定府︶、木俣熊之進︵定府︶ ●取次頭取 古畑政右衛門、稲垣左織系譜[編集]
父母 ●牧野貞幹︵実父︶ ●牧野康命︵養父︶ 正室、継室 ●松平信豪の娘︵正室︶ ●朽木綱條の娘︵継室︶ 子女脚注[編集]
- ^ 小諸家臣木俣氏の先祖は、1590年から1616年までの期間、藩主牧野家の先祖は上野国大胡城主であった。この期間に家臣となった家である。上級士分としては古くから藩主牧野氏の先祖に仕えていなかった家。