百済文輔
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百済 文輔︵くだら ぶんすけ[1] / ふみすけ[2]、1883年︵明治16年︶4月21日[3] - 1952年︵昭和27年[1]︶8月4日[3]︶は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選県知事、川崎市長、小倉市長。
経歴[編集]
山口県厚狭郡高千帆村︵現山陽小野田市︶出身[1]。神職百済忠敬の息子として生まれる[2]。山口高等学校を卒業[4]。1908年、京都帝国大学法科大学政経学科を卒業[2]。内務省に入省し山梨県属となる。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格した[4]。 1911年3月、山梨県東山梨郡長に就任[5]。1913年、関東都督府参事官となる[6]。以後、大阪府事務官、三重県警察部長、群馬県内務部長、愛媛県内務部長、東京府産業部長、同書記官・内務部長、北海道庁内務部長など歴任[2]。 1926年12月、群馬県知事に就任[7]。産業会館建設、共進会開催、蚕糸業資金、教育調査会設置などに取り組んだ[1]。1927年5月、奈良県知事に転任[2]。 1929年8月、台湾総督府殖産局長に転任[8]。1931年5月8日、依願免本官となり退官した[4][9]。同年、川崎市長に就任し、さらに、1934年3月、小倉市長となり、1938年3月まで在任した[10]。人物[編集]
1924年、家督を相続する[6][11]。渋谷区多額納税者である[12]。宗教は神道[11]。趣味はゴルフ、釣り、園芸、囲碁[11]。住所は東京市渋谷区元広尾町[11][12]︵現・渋谷区広尾︶。家族・親族[編集]
- 百済家
- 父・忠敬(山口士族)[6][11]
- 母・トマ(1854年 - ?、百済忠安の三女)[6][11]
- 妻・ミツ(1892年 - ?、山口士族、中村珍政の三女)[6][11]
- 男・十一郎(1912年 - ?、日本鉱業会社員)[11]
- 二男[6]
- 三女[6]
- 四女[6]
- 五女[6]
- 親戚
脚注[編集]
(一)^ abcd﹃群馬県人名大事典﹄171頁。
(二)^ abcde﹃新編日本の歴代知事﹄719頁。
(三)^ ab﹃全国歴代知事・市長総覧﹄日外アソシエーツ、2022年、391頁。
(四)^ abc﹃日本官僚制総合事典‥1868 - 2000﹄198頁。
(五)^ ﹃官報﹄第8314号、明治44年3月13日。
(六)^ abcdefghij﹃人事興信録 第10版 上﹄ク38頁︵国立国会図書館デジタルコレクション︶。2020年10月11日閲覧。
(七)^ ﹃新編日本の歴代知事﹄293頁。
(八)^ ﹃日本官僚制総合事典‥1868 - 2000﹄129頁。
(九)^ ﹃官報﹄第1305号、昭和6年5月9日。
(十)^ 北九州市史編さん委員会編﹃北九州市史 近代・現代 行政社会﹄北九州市、1987年、1068頁。
(11)^ abcdefgh﹃人事興信録 第12版 上﹄ク41頁︵国立国会図書館デジタルコレクション︶。2020年10月11日閲覧。
(12)^ ab﹃渋谷区多額納税者名鑑﹄54頁︵国立国会図書館デジタルコレクション︶。2020年10月11日閲覧。