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皎月院︵こうげついん、? - 慶長5年9月17日︵1600年10月23日︶︶は、戦国時代・安土桃山時代の女性。石田三成の正室で石田重家、石田重成、辰姫ら3男3女の母︵後妻であり二男一女の母とも︶。父は宇多頼忠、兄弟に宇多頼重らがいる。一説に姉に山手殿︵真田昌幸正室︶[1] がいる。
生年は不詳。三成からは﹁うた﹂と呼ばれていた[2]。当時政権の中心にあった三成の妻であるにもかかわらず、逸話などはほとんど残っていない。
寿聖院の位牌にある﹁皎月院殿寂室宗珠大禅定尼﹂という戒名は、白川亨によれば、近年に寿聖院の住職谷口楚石によって諡号されたものであり、石田一族の菩提寺である寿聖院にも、もとは位牌や記録がなかったという[3]。
結婚の時期については、出家した重家が遺した﹃霊牌日鑑﹄や﹃極楽寺系図﹄によれば、三成が秀吉に仕官したのが18歳の時と記されており、﹃津軽家史料﹄には三成夫妻の最初の子である長女︵山田隼人正の妻︶が関ヶ原の戦いの時には22歳と記されていることから、うたが三成に嫁いだのは三成が秀吉に仕官した天正5年︵1577年︶から翌天正6年︵1578年︶の間であり、長女を産んだのは天正7年︵1579年︶であることがわかる。
関ヶ原の戦いの際には父や三成の家族とともに佐和山城にいた。関ヶ原で三成ら西軍が敗れると、徳川家康は西軍を裏切った小早川秀秋らに佐和山城を攻めさせた。城方も奮戦するものの数に敵わず、頼忠、頼重らは自害し、三成の家臣・土田桃雲が三成の妻ら一族の婦女を刺殺し、天守に火を放ったという。享年は不明。
しかし、白川亨は他大名の妻が大坂にあるなか三成の妻が領地にいるという不自然さと、寿聖院の住職となった重家︵宗亨︶の記した﹃霊牌日鑑﹄に三成や他の石田一族、慶長12年︵1607年︶に死去した重家の義伯母︵石田正澄の妻︶などの戒名が記されているにもかかわらず、三成の妻︵重家の母︶の戒名が記されていないことから、三成の妻は佐和山城で死去していなかったという説を唱えている。三成の妻は佐和山城を脱出後にしばらく隠棲し、次女の岡重政室を頼って会津若松に下ったとし、﹃極楽寺過去帳﹄に記載の元和元年︵1615年︶10月14日に没したという﹁無量院殿一相寿卯大禅定尼﹂が戒名ではないかとしている[4]。
また、重成の子孫である弘前藩士杉山家では、三成の妻は三成の刑死後に自害したという伝承を残している。