石丸志都磨
石丸 志都磨︵いしまる しとま[1] / しずま[2]、1878年︵明治11年︶8月25日[1][3] - 1960年︵昭和35年︶3月28日[1][3]︶は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将、満州国軍中将。旧姓・相良。
経歴[編集]
佐賀県出身[1][2][3]。相良頼懐の二男として生まれ、石丸康順[注 1]の養子となる[1][4]。中學済々黌︵現熊本県立済々黌高等学校︶を経て、1899年︵明治32年︶11月、陸軍士官学校︵11期︶を卒業し[3]、翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる[1][5]。1904年︵明治37年︶5月から1906年︵明治39年︶4月まで日露戦争に出征した[2]。この間、辛碇泊場司令部員を務めた[1]。 1906年12月、歩兵第13連隊中隊長に就任[1]。陸士中隊長兼教官を経て、1914年︵大正3年︶8月、歩兵少佐に昇進し歩兵第2連隊付となる[1]。1915年︵大正4年︶6月、同連隊大隊長に就任し、第14師団副官を経て、1918年︵大正7年︶7月、歩兵中佐に昇進し歩兵第59連隊付となり、1919年︵大正8年︶3月から同年8月までシベリア出兵に出征した[1]。1923年︵大正12年︶8月、歩兵大佐に進み高崎連隊区司令官に就任した[1][2]。 1925年︵大正14年︶3月、歩兵第17連隊長に転じ、1924年︵昭和3年︶3月、陸軍少将に進級し歩兵第14旅団長となる[1][2][3]。1929年︵昭和4年︶3月、第8師団司令部付に異動し、1931年︵昭和6年︶3月、予備役に編入された[1][2][3]。 その後、満州国の招聘を受け、1933年︵昭和8年︶6月から1935年︵昭和10年︶4月まで同国侍従武官を務め、1934年︵昭和9年︶7月、満州国軍中将となり、1935年10月に退役した[1][4]。その後、日満帝国婦人会理事長、東亜報徳会幹事などを務めた[1][4]。1947年︵昭和22年︶11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。 戦後には蘭星会会長となった[1]。親族[編集]
栄典[編集]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[7]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『人事興信録』第13版 上、イ177頁では「石丸原順」。