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エピソード[編集]
●米内光政とは同期であると同時に無二の親友であり、米内と交わした書簡の中には誰にも語ることがなかった米内の本音を知ることが出来る。その書簡の一部は﹃米内光政の手紙﹄︵高田万亀子 著︶で公表されている。
●1945年︵昭和20年︶4月の鈴木貫太郎内閣の組閣時に、重臣の岡田啓介が入閣を求められたが、岡田は鈴木に﹁とんでもないことだ。それはいかん、もっと若い者が必要だ。海軍側からは人柄なり、政治的感覚なりからいって、貴族院にいる左近司政三、衆議院にいる八角三郎、議席は持たないが人物の確かな荒城二郎、この三人の中から誰か君のめがねに叶った者を採るがよい﹂と語ったという[7]
位階
●1903年︵明治36年︶4月10日 - 正八位[8]
●1904年︵明治37年︶8月30日 - 従七位[9]
●1906年︵明治39年︶11月30日 - 正七位[10]
●1911年︵明治44年︶12月20日 - 従六位[11]
●1917年︵大正6年︶1月31日 - 正六位[12]
●1921年︵大正10年︶1月20日 - 従五位[13]
●1926年︵大正15年︶1月15日 - 正五位[14]
●1930年︵昭和5年︶12月27日 - 従四位[15]
●1932年︵昭和7年︶12月27日 - 正四位[16]
勲章等
●1914年︵大正3年︶5月16日 - 勲四等瑞宝章[17]
●1915年︵大正4年︶11月7日 - 旭日小綬章・大正三四年従軍記章[18]
●1916年︵大正5年︶5月26日 - 勲三等瑞宝章[19]
出典・脚注[編集]
(一)^ ab﹃日本海軍史 第9巻 将官履歴﹄
(二)^ ﹃大衆人事録 東京篇﹄﹁井上達三﹂
(三)^ ﹃人事興信録 第13版 上﹄﹁荒城二郎﹂。﹃日本海軍史﹄では父の名前は三千雄とある
(四)^ abc﹃続対支回顧録 下巻 列傳﹄﹁荒城二郎﹂
(五)^ 平間、293頁
(六)^ ﹃米内光政の手紙﹄
(七)^ ﹃鈴木貫太郎傳﹄、195頁
(八)^ ﹃官報﹄第5929号﹁叙任及辞令﹂1903年4月11日。
(九)^ ﹃官報﹄第6355号﹁叙任及辞令﹂1904年9月3日。
(十)^ ﹃官報﹄第7028号﹁叙任及辞令﹂1906年12月1日。
(11)^ ﹃官報﹄第8552号﹁叙任及辞令﹂1911年12月21日。
(12)^ ﹃官報﹄第1348号﹁叙任及辞令﹂1917年2月1日。
(13)^ ﹃官報﹄第2539号﹁叙任及辞令﹂1921年1月21日。
(14)^ ﹃官報﹄第4066号﹁叙任及辞令﹂1926年3月17日。
(15)^ ﹃官報﹄第1212号﹁叙任及辞令﹂1931年1月16日。
(16)^ ﹃官報﹄第1802号、﹁叙任及辞令﹂1933年01月04日。
(17)^ ﹃官報﹄第539号﹁叙任及辞令﹂1914年5月18日。
(18)^ ﹃官報﹄第1189号・付録﹁叙任及辞令﹂1916年7月18日。
(19)^ ﹃官報﹄第2346号﹁叙任及辞令﹂1920年5月29日。
参考文献[編集]
●外山操編﹃陸海軍将官人事総覧 海軍篇﹄原書房
●帝国秘密探偵社﹃大衆人事録 東京篇﹄1939年
●人事興信所編﹃人事興信録 第13版 上﹄1941年
●東亜同文会編﹃続対支回顧録 下巻 列傳﹄明治百年史叢書、1973年︵復刻版、原本は1941年刊︶
●鈴木貫太郎伝記編纂委員会﹃鈴木貫太郎傳﹄1960年
●高田万亀子著﹃米内光政の手紙﹄原書房 1993年
●海軍歴史保存会﹃日本海軍史 第9巻 将官履歴 上﹄1995年
●平間洋一﹃第二次世界大戦と日独伊三国同盟: 海軍とコミンテルンの視点から﹄錦正社、2007年