荒木栄
荒木栄 Sakae Araki | |
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生誕 |
1924年10月14日 日本・福岡県大牟田市 |
死没 |
1962年10月26日(38歳没) 日本・福岡県大牟田市 |
ジャンル | 労働歌 革命歌 うたごえ運動 |
職業 | 作曲家 |
荒木 栄︵あらき さかえ、1924年10月15日 - 1962年10月26日︶は、ソングライター。
福岡県大牟田市出身。三井鉱山三池製作所︵三井三池炭鉱︶の機械組立工で、主に労働歌を作曲した。戦後日本を揺るがした三井三池争議に参加し、その前後を通じて労働者を励ます歌を作る。代表作に﹁がんばろう﹂、﹁この勝利ひびけとどろけ﹂、﹁沖縄を返せ﹂など。
概要[編集]
彼の性格は、情熱的で真面目で実直な人柄であったと伝わっている。彼については三池争議後、早くに若くして死んだため、神格化、理想化されて語られることがしばしばある。ただ事実として、労働者や平和のために闘った人物であり、彼の闘いと創造活動には高い評価が贈られることが多い。例えば、死去の直前の1962年10月20日には﹁うたごえ運動活動家第一席﹂、死去後の11月25日には総評第21回臨時大会で異例の個人表彰が行われている。 全日本自由労働組合︵全日自労︶とは地元との関係で交流があり、全日自労に関わる作品が多くある。また三池争議を通じて作詞家の森田ヤエ子や門倉さとし[1] 、宇部興産炭鉱の組合活動家・花田克巳らとも交流がある。 死去した米の山病院の入り口には﹁荒木栄碑﹂が当時の院長、松石秀介によって建てられており、荒木の作品の一つ﹁地底のうた﹂の一節が刻まれている。また米の山病院では毎年、荒木栄記念祭が開かれている。 2008年5月、この荒木栄の現代史における意義を探る、95分の音楽ドキュメンタリー映画﹃荒木栄の歌が聞こえる﹄が完成した。構成・監督は、栄がその一生を送った大牟田出身の港健二郎。音楽の特徴[編集]
彼の音楽の特徴は、曲の内容としては全体に、共に働いたり闘ったりする仲間を励ましたり鼓舞しつつ、それを支える妻や子供たちをいたわるという流れが見られる。前者の曲としては﹁どんとこい﹂、﹁がんばろう﹂、﹁守れホッパー﹂などが挙げられる。後者には﹁三池の主婦の子守唄﹂、﹁炭鉱社宅のおかみさん﹂などがある。 また、彼が作ったメロディは、日本民謡や唱歌等でよく見られる﹁五音音階﹂︵ヨナ抜き音階︶を主体としており、同時にメロディの(音としての)高低を、できるだけ日本語のアクセントや、歌詞の持つ感情・情景と一致させるという姿勢と相まって、広く大衆に受け入れられる素地となったものと思われる。(例‥﹁がんばろう﹂の冒頭の﹁が﹂。﹁心はいつも夜明けだ﹂の2回目の﹁心にゃ﹂の﹁こ﹂)作品と略歴[編集]
︵︶内は作詞者。-は不明、無しは荒木自身が作詞。
●1924年10月15日 福岡県大牟田市の三池炭鉱社宅で10人兄弟︵兄4人、姉4人、妹1人︶の三男として生まれる
●1930年 三井鉱山で働いていた父が解雇。以降苦しい子供時代を送る
●1939年 三川尋常高等小学校を卒業。三池製作所に就職
●1945年5月 海軍に徴兵され横須賀海軍工作学校に入隊
●1945年8月 終戦。その後復員。この頃に自らの心境を多くの短歌にして詠んでいる
●1946年 職場の混声合唱団での活動を始める。ハーモニカやヴァイオリンを独学で学ぶ。
東京藝術大学音楽部同声会︵同窓会︶の通信教育などを受けてこれらの楽器を学ぶ。ちなみに、この通信教育は日本で通信教育が始まったばかりのもの。
●1947年3月 ビルマで戦没した兄の安夫の妻・荒木ヒサエと結婚
●1947年5月 バプテスト教会の洗礼を受ける
●1949年 作曲活動を開始。大牟田混声合唱団や三池製作所混声合唱団に入団
以下の最初の三曲は宮沢賢治の童話を元にしたオペレッタ﹁ひのきとひなげし﹂の挿入歌。﹁啄木よ﹂は死後に見つかったもので、題名は付けられていなかったため、︵仮題︶となっている。
ひとつ星のうた/うたおうよおどろうよ/落日のうた︵後藤安男︶/この人を守れ︵吉開某︶/啄木よ︵仮題︶
●1950年 労働者を励ます歌を作り始めるのはこの頃から
炭鉱ばやし︵淀川正︶/採炭のうた︵坂本茂雄︶/選炭情歌/地底建設のうた︵-︶
●1952年 青年団を主体としたうたごえ運動を起こす
●1953年 113日間の闘い。蛮声会を結成。第1回九州のうたごえに参加
7月 炭婦協行進曲
●1954年 うたう会の設立。久留米医科大学︵現在の久留米大学︶病院で胃を手術。退院後は設計課に異動
10月 おやすみ仲間たち
12月 大牟田うたう会のうた
●1955年 第3回九州のうたごえに参加
3月 春のうたごえ
4月 新さくら音頭
12月 心の中に︵-︶
●1956年 大牟田センター合唱団を結成
1月 そとは北風
3月 燃やせ闘魂
4月 星よお前は/希望の沖に︵堤洋子︶
5月 せんぶりせんじのうた
9月 仲間の顔︵湯浅僖規︶
10月 沖縄を返せ︵全司法福岡高裁支部︶
11月 労働者はまだ︵後藤安男︶/夜明けだ
●1957年 日本のうたごえに参加。地元で開催される全日自労全国大会に向けて作曲
10月 憎しみの中から︵全日自労大牟田分会︶/手︵竹下八重子︶
●1958年 勤務評定反対運動に参加し、﹁組曲・子供を守るうた﹂は勤務評定反対の歌
1月 人工衛星行進曲
9月 組曲・子供を守るうた︵上野博子︶
●1959年 製作所分離に際して闘いを本格的に開始し、また炭鉱を巡る闘いを励ます歌を作り、社宅公演を行う
●1月 三井鉱山が三池労組に対し6000人の希望退職や製作所の分離を含む会社再建案を提示。組合は強く反発
●5月 日本共産党に入党
●8月29日 会社側が4580人の人員削減案を発表
●10月24日 製作所分離に際し製作所支部が三池労組を脱退。荒木は三池労組に残る
●12月2日 会社側が1492人に退職を勧告
●12月3日 会社側が退職勧告に応じない1278人を指名解雇
1月 大行進のうた︵全日自労大牟田分会作詞グループ︶
9月 どんと来い
11月 どんづまりのうた︵森田ヤエ子︶
●1960年 三池争議の中で多数の曲を作って﹁うたごえ統一行動﹂を進める。曲はいずれも労働者を励ましたり、争議中の妻や子供たちを歌った歌
●1月25日 会社側がロックアウトを通告。三池労組は無期限ストに突入
●3月17日 三池炭鉱新労働組合︵三池新労、第二組合︶を結成
●3月25日 以降、三池労組の組合員の約半分が三池新労に加わってストから離脱
●3月28日 三池新労が就業して生産が再開される
●3月28日 久保清が暴力団員に刺殺される
●7月7日 ホッパーへの組合員立ち入り禁止とする仮処分を福岡地裁が下す。ホッパーの攻防戦が始まる
●8月10日 中央労働委員会は斡旋案を発表。炭労と総評も受け入れる方向で動く
●9月6日 炭労臨時大会。三池労組は条件付きで斡旋案の受諾を決定
●10月29日 会社側と組合との交渉が妥結。生産再開に関する協定を調印
●11月1日 ロックアウト解除
●11月11日 三池労組は無期限ストを解除
●12月1日 生産完全再開
1月 みんなでみんなで敵をうて︵三鉱創作グループ︶
4月 おれたちの胸の火は︵森田ヤエ子︶/三池の主婦の子守唄
5月 みんなニコニコ︵三鉱創作グループ︶
6月 がんばろう︵森田ヤエ子︶
7月 団結おどり︵森田ヤエ子︶/守れホッパー︵井手信義︶
9月 闘いの火を︵前原桃枝︶
12月 ひびかせろ︵三川うたごえ行動隊︶/仲間のうた︵大江将精︶/花をおくろう︵森田ヤエ子︶/月見草︵森田ヤエ子︶
●1961年 三池争議敗北後の中で励ます歌を作り続け、うたごえや創作曲の後進の育成を進める。また他地域の活動家とも交流をする
1月 田植えうた︵田植歌︶︵森田ヤエ子︶
3月 宇部興産炭鉱労働者のうた︵花田克巳︶/三池でもやした火を燃やせ︵花田克巳︶/よろこび︵森田ヤエ子︶/炭郎くんと炭子さん︵投野一隆︶/おい仲間たち︵森田ヤエ子︶
4月 炭鉱社宅のおかみさん/こぶし固めて︵上野信幸︶
5月 心はいつも夜明けだ︵永山孝︶
7月 黒潮の歌︵森田ヤエ子︶
11月 新島と板付と︵森田ヤエ子︶/組曲・地底のうた
- まわそう機械を︵-︶
●1962年 三池争議を描いた構成劇﹁不知火﹂をまとめる︵九州各地で公演︶。板付基地問題より反基地運動に関わる。
●3月25日 板付基地包囲事件。これに際して﹁この勝利ひびけとどろけ﹂などを作曲する。
●5月 久留米医科大学病院で胃を再び手術
●7月28日 米の山病院に入院
●10月26日 午後2時に、米の山病院で胃癌によって死去︵享年38︶
1月 ひざっこぞうの唄︵門倉さとし︶
2月 アメリカ帝国主義をたたき出せ/ふるさと︵森田ヤエ子︶
3月 筑紫野に春を/春まつり音頭︵森田ヤエ子︶/春と夜明けと若者たち︵井上明︶/真っ赤な花はみんなの意気だ︵橋本輝雄︶
4月 この勝利ひびけとどろけ/こうず︵平川さよ子︶
5月 五月のうた︵森田ヤエ子︶
6月 平和と軍縮を︵新宿合唱団︶
7月 この道を行く︵門倉さとし︶/おれたちは太陽︵門倉さとし︶
8月 わが母のうた︵森田ヤエ子︶ ※遺作
●制作年不明 沖縄かがやけ/ミイ・ニシ/夢を紡ぐもの
編曲・訳詞[編集]
●1955年4月 ああお前さん︵主人は冷たい土の上に、スティーブン・フォスター、訳詞︶ ●1956年2月 美わし春の花よ︵編曲︶ ●- 山小屋の灯︵作詞・作曲‥米山正夫、編曲︶/線路の仕事︵線路は続くよどこまでも︶/草競馬︵スティーブン・フォスター、訳詞‥妹尾幸陽、編曲︶評伝[編集]
●森田ヤエ子﹃この勝利ひびけとどろけ―荒木栄の生涯﹄大月書店、1983年脚注[編集]
- ^ 本来は「言へんに央」という漢字(詇)であるが、JIS規格外の表外字であるため、一般のコンピュータでは表示できない。ただし、一部の詩を「さとし」の表記で発表した例はあるようである