足助藩
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足助藩︵あすけはん︶は、三河国加茂郡足助村︵現在の愛知県豊田市︶に存在した藩。藩庁は足助陣屋。[1]
概要[編集]
徳川四天王で有名な本多忠勝の孫・本多忠義の五男である本多忠周は、加茂郡足助村に陣屋を置き、7000石の交代寄合となっていた。 忠周は天和3年︵1683年︶に寺社奉行となったことから3000石の加増を受けた。これにより合計1万石の大名として諸侯に列し、足助藩が立藩したのである。しかし貞享4年︵1687年︶、勤務怠慢から寺社奉行を免職され、2年後の元禄2年︵1689年︶には加増分の3000石を没収されて再び7000石の旗本寄合︵ただし寄合となったのは元禄15年で、最初は小普請役だった︶となったため、足助藩は廃藩となった。 この旗本寄合本多氏は、幕末まで存続した。歴代藩主[編集]
本多︵ほんだ︶家[編集]
譜代。1万石。 (一)本多忠周︵ただちか︶以降の歴代領主[編集]
旗本寄合席。7000石。
(一)本多忠貞︵たださだ︶ 陸奥白河藩主・越前松平直矩の七男。初名は松平知隆︵ちかたか︶
(二)本多忠強︵ただたけ︶ 播磨山崎藩主・本多忠英の四男。忠貞の娘婿
(三)本多忠弘︵ただひろ︶ 常陸笠間藩嫡子・井上正富の次男。駿府城代を歴任
(四)本多忠保︵ただやす︶ 忠弘の次男。本多忠遠︵ただとお︶の弟
(五)本多忠堅︵ただかた︶ 陸奥泉藩主・本多忠籌の三男
(六)本多忠昶︵ただあきら︶ 摂津高槻藩主・永井直珍の次男
(七)本多忠恒︵ただつね︶ 忠昶の子
(八)本多忠曄︵ただてる︶ 播磨明石藩主・越前松平直泰の十男。初名は松平直貞
(九)本多主水 忠曄の子。実名未詳
(十)本多忠陳︵ただのぶ︶ 主水の弟。明治維新時の当主