足木敏郎
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県宝飯郡一宮村(現:豊川市) |
生年月日 | 1934年9月27日 |
没年月日 | 2022年4月19日(87歳没) |
身長 体重 |
173 cm 66 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 外野手 |
プロ入り | 1953年 |
初出場 | 1953年10月8日 |
最終出場 | 1953年10月8日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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足木 敏郎︵あしき としろう、1934年9月27日 - 2022年4月19日︶は、愛知県宝飯郡一宮村︵現‥豊川市︶[1]出身のプロ野球選手︵投手、外野手︶。
経歴[編集]
豊川高校から1953年に名古屋ドラゴンズへ入団したが、試合出場は1953年10月8日の対洋松ロビンス戦で試合途中から右翼手として守備についた1試合のみ︵なお、足木に非はないものの、この試合の後で足木が未登録で試合に出場していたことが判明し、名古屋球団がセントラル野球連盟から厳重注意処分を受けた[2]︶で、同年現役引退[1]。 現役引退後は中日球団に残りトレーナーを務めた後にフロント入りして広報、マネージャー、通訳、渉外部長などを務めた。 球団職員と並行して英会話教室に通い、習得した語学力を生かし、1962年から当時創設された渉外担当として新外国人獲得に尽力。﹁日本に来る意欲と人柄を見ていた﹂と3年連続首位打者に輝いたアロンゾ・パウエルを始め、ケン・モッカ、ゲーリー・レーシッチら北米を中心にこれまで100人強を発掘した[3]。 球界でも異例の在籍期間61年だったが、2013年12月27日に勇退が決まる。 球団を退職した後はその経験を生かし、﹁月刊ドラゴンズ﹂にて連載を担当した。 2022年4月19日、老衰のため死去[4]。87歳没。詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1953 | 名古屋 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
通算:1年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
背番号[編集]
- 57 (1953年)
関連情報[編集]
著書[編集]
- 『ドラゴンズ裏方人生57年』(中日新聞社開発局出版開発部、2009年12月、ISBN 978-4806206040)
連載[編集]
- 「足木敏郎DRAGONS 61年」(月刊ドラゴンズ、2015年1月号 - )
脚注[編集]
(一)^ abプロ野球人名事典 2003︵2003年、日外アソシエーツ︶、12ページ
(二)^ ﹁プロ野球 記録の手帖﹂︵千葉功著、ベースボールマガジン社刊、2001年︶P566。
(三)^ "中日の元﹃敏腕﹄渉外担当・足木敏郎氏が87歳で死去 モッカ、パウエル、ゲーリーら獲得". 東京スポーツ. 19 April 2022. 2022年4月19日閲覧。
(四)^ "中日で渉外部長など歴任の足木敏郎さんが87歳で死去 モッカ、パウエルら獲得 異例の61年間在籍". 中日スポーツ. 中日新聞社. 19 April 2022. 2022年4月19日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 足木敏郎 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)