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長良川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長良川の戦い
戦争戦国時代 (日本)
年月日弘治2年4月1556年4月
場所美濃国長良川
結果斎藤義龍の勝利、斎藤道三の討死
交戦勢力
斎藤義龍軍撫子紋 斎藤道三軍二頭波紋
織田信長軍
指導者・指揮官
斎藤義龍撫子紋
稲葉一鉄
安藤守就
氏家卜全
長井道利
竹腰道鎮
日根野弘就
竹腰尚光
揖斐光親
斎藤道三二頭波紋 
織田信長
明智光安 
明智光秀
林道慶 
竹中重治
石谷対馬守
飯沼杢之助
神山内記
川島掃部助
川村図書
毛利宮内
戦力
17500余 2700余
損害
不明 不明

155624

[]


154211155423[ 1][1][ 2]2155510[ 3]2

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418婿20

西175002700



退殿

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/12[2]

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退退

殿退退

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[ 5][ 6]

[]


51561




[]

[3]352642.3 1364548.6 / 35.445083 136.763500 / 35.445083; 136.763500 (道三塚)









退殿使退

[ 7]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 江戸期の軍記物にはこのとき道三は鷺山城に隠居したというが、資料的価値が高い『信長公記』には親子4人(道三・義龍・孫四郎・喜平次)で稲葉山城に居城したとあることから、信憑性はないといえる。
  2. ^ 主家の土岐氏も土岐成頼が一色出身なこともあり、その三代孫の頼栄は一色姓を名乗っている。
  3. ^ 『信長公記』には「親子4人で稲葉山城に居城していた」とあるため、稲葉山城の「奥」と推定される。
  4. ^ 主君のいる部屋の次にある部屋で、主君に仕える者の控えの部屋。
  5. ^ 現・愛知県清須市春日
  6. ^ 織田下四郡を支配していた清洲織田家の織田大和守信友を滅ぼしたため。
  7. ^ 弘治二年(1556年)4月19日付けで書かれた手紙である。「道三の遺言状」とも、「信長への国譲り状」とも言われる。現存する物は計3通ある。織田軍へ合流した斎藤利治へ渡した可能性が高い。

出典[編集]

  1. ^ 『信長公記』
  2. ^ 勝俣鎮な夫「美濃斎藤氏の盛衰」『岐阜県史通史編 原始・古代・中世』1980年。 
  3. ^ 岐阜市内の指定等文化財一覧”. 岐阜市 (2012年4月6日). 2013年3月31日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『信長公記』
  • 『週刊 新説 戦乱の日本史 第37号 美濃国盗り』2008年10月24日発売 小学館

関連項目[編集]

外部リンク[編集]