青山幸道
青山幸道 | |
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保10年8月5日(1725年9月11日) |
死没 | 安永8年10月30日(1779年12月7日) |
別名 | 主計(通称) |
戒名 | 歓喜院殿義天喬山大居士 |
墓所 | 東京都港区南青山の梅窓院(浄土宗) |
官位 | 従五位下・大膳亮、大蔵少輔、大和守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 丹後宮津藩主→美濃郡上藩主 |
氏族 | 青山氏 |
父母 | 父:青山幸秀、母:不詳 |
兄弟 | 金次郎、藤七、幸道、幸篤、幸充、忠高、相馬恕胤正室、幸弼 |
妻 | 正室:松平光慈[1]の娘 |
子 | 幸完、幸卓、幸賢、妻木頼功、秋田倩季継室、青山幸発正室ら |
青山 幸道︵あおやま よしみち︶は、江戸時代中期の大名。丹後国宮津藩の第2代藩主、美濃国郡上藩の初代藩主。官位は従五位下・大和守。幸成系青山家5代。
略歴[編集]
享保10年︵1725年︶、宮津藩初代藩主・青山幸秀の三男として生まれる。庶子であったが、同年に弟で嫡男だった幸篤が病弱を理由で廃嫡されたため、延享元年︵1744年︶5月に世子となった。同年10月晦日、父の死去により跡を継ぎ宮津藩主となる。同年12月16日、従五位下・大膳亮に叙任[2]。 宝暦8年︵1758年︶12月27日に美濃郡上藩に移封される。宝暦10年︵1760年︶6月3日、大蔵少輔に遷任。宝暦13年︵1763年︶12月、大和守に転任。 郡上の前藩主金森頼錦は郡上一揆・石徹白騒動などにより宝暦8年︵1758年︶12月に改易されており、幸道の移封はそのあとを受けてのものであった。藩政においては、金森家の統治による領民の不満を無くそうと、新たな検地や法令制定などを行なって、藩政の安定化を図った。﹁郡上おどり﹂発祥の一説として、幸道による領民慰撫策が挙げられることがある[3][4]。また、郡上八幡城を改修し、城下にあたる殿町に居館を設けた[5]。 一方で安永2年︵1773年︶、隣国である幕府領飛騨国で百姓一揆︵大原騒動の安永騒動︶が発生すると、飛騨周辺諸藩と共に鎮圧のために出兵した[6]。厳しく弾圧したために領民の恨みを買ったといわれている。 安永4年︵1775年︶11月11日、長男の幸完に家督を譲って隠居し、安永8年︵1779年︶10月晦日に死去した。享年55。系譜[編集]
父母 ●青山幸秀︵父︶ 正室 ●松平光慈の娘 子女
●青山幸完︵三男︶
●青山幸卓︵四男︶
●青山幸賢︵五男︶
●妻木頼功︵六男︶
●秋田倩季継室
●青山幸発正室