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阿部 正邦︵あべ まさくに︶は、江戸時代前期から中期にかけての大名。武蔵国岩槻藩5代藩主、丹後国宮津藩主、下野国宇都宮藩主、備後国福山藩藩主。官位は従四位下備中守。阿部家宗家5代。
岩槻藩3代藩主・阿部定高の次男として誕生した。幼名は作十郎。
父・定高は万治2年︵1659年︶に25歳で死去するが、嫡子である正邦はわずか2歳と幼少であったため、定高の弟︵三浦︶正春が家督を継いだ。しかし家中に反発もあり、寛文11年12月19日︵1672年︶、正春は14歳の正邦に家督を譲り、支藩の上総国大多喜藩を自ら分知して立てた。
正邦は幕府に疎んじられたらしく、10年後の天和元年︵1681年︶に丹後宮津藩︵旧領と同じ9万9000石︶へ転封され︵この時点では正春は大多喜にとどまった︶、それから16年後の元禄10年︵1697年︶には下野宇都宮藩に1000石増加の10万石で移され、さらに13年後の宝永7年︵1710年︶、備後福山藩︵石高同じ︶に転封された。福山藩への入封時には正邦は既に53歳になっていて、﹁至極ニ能所﹂であるが﹁只今ハ困窮いたし﹂と、宇都宮から遠く離れた福山への転封に困惑する心境を述べている。以後は正邦一代にとどまらず、幕末まで阿部家に転封はなく、福山藩に定着した。
正邦は福山転封の翌年、正徳元年︵1711年︶3月28日に福山へ入部し、﹁指出帳﹂︵宝永差出帳︶を全村から提出させて、領内の実情を把握した。この差出帳には、各村の石高、寺社、商品作物、鉄砲など村の概要と年貢納入の方法や、五人組などの諸制度が載せられている。同年9月には各郡奉行から村々へ、治安に関する条項を中心とした﹁条々﹂35ヵ条を公布して、領主交替時に起こる動揺を抑えようとし、正徳2年︵1712年︶には年貢の納め方についての請書を出させた。また、正徳3年︵1713年︶には村入用に関する規定を定め、節約と村政の公正を命令している。商業統制では宝永7年︵1710年︶に升改めを実施している。こうして、正徳3年︵1713年︶頃までに正邦は福山藩領内を掌握し、西国街道筋の譜代大名としての存在意義を定着化させていった。
このように正邦は、阿部家の福山藩主では藩政に比較的積極的に取り組んでいたが、転封から5年後の正徳5年︵1715年︶、江戸において死去した。家督は四男の正福が継いだ。諡は長生院殿尋誉耀海踞岸。墓地は西福寺︵台東区浅草︶、のち谷中墓地︵台東区谷中︶に改葬。
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京極家 |
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1666年から1669年まで幕府領
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永井家 |
- 永井尚征1669-1673
- 永井尚長1674-1680
- 殺害された上に無継嗣のため、改易
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阿部家 |
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奥平家 |
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青山家 |
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本庄松平家 |
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阿部家 宇都宮藩藩主 (1697年 - 1710年) |
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奥平家 |
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本多家(正信系) |
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奥平家 |
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奥平松平家 |
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本多家(忠義系) |
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奥平家 |
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阿部家 |
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戸田家 |
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深溝松平家 |
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戸田家 |
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阿部家 備後福山藩初代藩主 (1710年 - 1715年) |
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水野家 |
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1698年から1700年まで幕府領
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奥平松平家 |
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阿部家 |
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