鷲の門
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鷲の門︵わしのもん︶は、徳島県徳島市徳島町城内の徳島中央公園にある、かつての徳島城の城門である。ただし実物は戦失し、現在の門は復元である。古い門は鷲ノ門・鷲之門・鷲御門などとも。
名の由来は、幕府に﹁鷲を飼う建物﹂として申請したためと伝えられるが、出所不明で[1]、真偽は定かでない[2]。
旧 鷲の門[編集]
建設[編集]
堀川の南に位置するこの付近は、徳島城築城時には城外だった。しかしその後、城の南に新しい曲輪﹁三木郭﹂︵みきくるわ︶が築かれ城内となった。その郭の門が鷲の門である。 三木郭・鷲の門が築かれたのは蜂須賀光隆の代 (在 1652–1666) とする文献もあるが、1989年の発掘調査でも文禄慶長期 (1592–1615) と推定される滴水瓦が出土しており、﹃阿淡年表秘録﹄の記述では1603年︵慶長8年︶に鷲の門に関する記述があるため、1603年にはすでにあったはずである[1]。 三木郭には石垣や濠がなく、土倉のような建物で囲まれており、その東の一角に鷲の門があった。城の巽︵南東︶の端に位置し、東に面した、表口見附の門である。 様式は脇戸付き薬医門。南脇には御番所があった。 南北に伸びる御堀縁に面し、ほぼ正面から徳島本丁筋︵現 国道192号︶が東へ伸び、淡路街道・伊予街道・土佐街道など主要街道の起点となっていた。明治以降[編集]
1875年、徳島城が取り壊されたが、鷲の門のみが記念として保存され、長らく徳島公園︵現 徳島中央公園︶のシンボルとなっていた。 江戸時代には、門の北側︵現 腰掛長屋︶は堀まで伸び、この門のみで通行できた。しかし、時期は不明だが、この部分は解体され、通行できるようになった[2][3]。 1945年7月4日の徳島大空襲で焼失した。新 鷲の門[編集]
復元[編集]
徳島市出身の学校経営者吉井ツルヱ︵ツルエとも︶により、1988年12月27日復元開始、1989年9月15日完成。1989年9月27日、徳島市市制100年を記念し寄贈された。 復元には、1936年に県立工業学校︵のち県立徳島工業高校、現 県立徳島科学技術高校︶建築科が実測・作成した図面が元になった[4]。建築物[編集]
各部の寸法等は次の通り[4]。御番所・腰掛長屋は、門本体の左右︵南北︶に伸びる小屋である。御番所 | 門 | 腰掛長屋 | |
---|---|---|---|
間口/m | 6.93 | 7.78 | 6.93 |
奥行/m | 3.96 | 3.21 | 3.96 |
高さ/m | 4.28 | 7.73 | 4.28 |
瓦葺 | 瓦葺 | 瓦葺 | |
檜造 | 総欅造 | 檜造 | |
平屋建 | 平屋建 | 平屋建 |
門本体の大きさは旧鷲の門と同じだが、御番所と腰掛長屋は少し短くなっている。また、全体の位置も少し異なる。これは、かつてとは道路の配置が異なる︵旧三木郭の中を国道192号が通っている︶ためである。