デジタル大辞泉
「切腹」の意味・読み・例文・類語
せっ‐ぷく【切腹】
1 自分で腹を切って死ぬこと。平安時代以降、中世・近世を通じて武士の自決法として行われた。はらきり。割腹。
2 江戸時代、武士に科した死罪の一。検死役の前で、自ら腹を切ろうとするところを介(かい)錯(しゃ)人(くにん)が首を斬り落としたもの。
[類語]割腹・腹切り・追い腹・詰め腹
[補説]作品名別項。→切腹
せっぷく︻切腹︼﹇映画﹈
小林正樹監督による映画の題名。昭和37年︵1962︶公開。原作は滝口康彦の小説﹁異聞浪人記﹂。音楽は武満徹。出演、仲代達矢、岩下志麻、石浜朗ほか。カンヌ国際映画祭審査員賞、第17回毎日映画コンクール日本映画大賞受賞。
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せっ‐ぷく【切腹】
(一)〘 名詞 〙
(二)① 自分で刀剣を用いて、腹を切って死ぬこと。はらきり。割腹(かっぷく)。屠腹(とふく)。
(一)[初出の実例]﹁上杉修理亮討師直・師泰両入道以下十余人、川津・高橋以下又切腹﹂(出典‥園太暦‐観応二年︵1351︶二月二七日)
(二)﹁傍なる脇差ぬきはなし、切腹(セップク)と見るよりも、皆々驚きいだき止れば﹂(出典‥談義本・根無草︵1763‐69︶後)
(三)② 江戸時代、武士に科した刑罰の一つ。死刑のうちで、もっとも軽いもの。検死役の前で、みずから腹を切るところを介錯(かいしゃく)人が後ろから首を打ち落とした。
②︿男色大鑑﹀" />
切腹②︿男色大鑑﹀
・[初出の実例]﹁山城宮内殿・本田藤四郎殿喧𠵅にて、御せっふくの由﹂(出典‥梅津政景日記‐元和三年︵1617︶五月五日)
・﹁お科(とが)の程、わきまへがたく、切腹(セッフク)すべきやうもなく、是非もなき仕合にて、取籠(こもり)しが﹂(出典‥浮世草子・武家義理物語︵1688︶四)
・③ はらわたがよじれるほどにおかしがること。吹き出すこと。笑止。
(一)[初出の実例]﹁今日攤之間、親信卿擲レ者、不レ抜レ笏、雖二人警示一猶不レ得レ心、仍可レ抜レ笏之由関白被レ示、周章乍レ立抜レ之、人々解レ頤、自又以切腹歟﹂(出典‥玉葉和歌集‐治承二年︵1178︶一一月二〇日)
・④ 馬の左脇腹の下にあるつむじ毛。帯剣。
(一)[初出の実例]﹁帯剣、和名切腹﹂(出典‥相馬旋毛)
切腹の語誌
(1)①は中古末期以後、武士が自殺する方法のひとつとして行なわれた。中世まではその式法も整わず、刃先を左脇腹に突き立て右脇まで引く一文字や、さらに右脇でいったん抜いた刀を鳩尾(みずおち)に突いて縦に臍下へと切り下げる十文字の仕法などがあった。また、介錯人が首を切り落として絶命させることも少なくなかった。主君への殉死のための切腹を﹁追腹(おいばら)﹂、人に強いられてする切腹を﹁詰腹(つめばら)﹂という。
(2)中世末期からは②のように刑罰としても行なわれたが、執行官の手にかからない、名誉ある死刑として、侍以上の武士にのみ認められた。
(3)明治三年︵一八七〇︶の新律綱領でも、士族には自裁が認められたが、同六年の改正律例で廃止された。ただし、自殺の方法として、その後も軍人には重んぜられ、これらは﹁割腹(かっぷく)﹂と呼ばれることが多い。
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切腹 (せっぷく)
刀で腹を切って死ぬことで,自殺または死刑の方法として用いられた。割腹︵かつぷく︶,屠腹︵とふく︶,腹切︵はらきり︶ともいい,日本の習俗として外国人にも︿はらきり﹀の名で知られている。
自殺の方法としては平安時代に始まり,源平争乱のころから一般化し,武士︵男子︶はもっぱらこれによるべきものとされ,中世,近世を通じてひろく行われた。短刀を腹の左に突き立て,右に回して引き抜き,つぎに胸の下に突っ込み,下へ押し下げて十文字に切り,さらにのどを突くのが正式であった。腹を切るのは苦痛も多く,致死も困難であるが,自分の真心を人に示すという観念,および戦場や人の面前で自殺するのにはもっとも目につきやすく,勇壮であるというところから,この部位が選ばれたのであろう。敗軍の将兵が捕らえられることをまぬかれるために行うことが多いが,主君への殉死のためにする追腹︵おいばら︶,職務上の責任,世間の義理から人に迫られてやむなく行う詰腹︵つめばら︶などもあった。
刑罰としては中世末から行われたが,江戸時代に幕府・藩が採用し,武士のうち侍と呼ばれた上級武士に対する特別の死刑となった。幕府法では500石以上の者は大名などの屋敷内で,それ以下の者は牢屋内で,ともに庭において夕方から夜にかけて執行される例であった。庭に砂を敷き,その上に畳2枚を置き,白木綿の布,赤毛氈などでこれをおおって処刑の場とし,受刑者は浅黄無垢︵あさぎむく︶無紋の水浅黄上下︵かみしも︶を着てそこに座ると,正副2名の介錯人︵かいしやくにん︶が進みでて,正介錯人は姓名を名のって一礼し,刀を抜いて受刑者の背後に立つ。他の役人が奉書紙に包んだ9寸5分の木刀を三方︵さんぼう︶にのせて,受刑者の前に置くと,副介錯人はその位置を正し,受刑者が服装を改めるのを助ける。受刑者が肩衣︵かたぎぬ︶をはね,三方に手をかけようとする瞬間,正介錯人は刀を振るってその首を切り,副介錯人が首を取って横顔を検使に見せると,検使は始終を見届けた旨を述べて執行を終わる。木刀の代りに扇を出したり︵扇腹︶,ときには本物の短刀を使うこともあった。切った首および死体は遺族,家来などにさげわたされた。
現存する記録によれば,江戸小伝馬町牢屋で執行された切腹は1702年︵元禄15︶から幕末まで約20人で,それほど多数あったわけではない。刑罰としての切腹は自殺の形をとっているものの,要するに斬首の刑にほかならないが,不浄な執行吏の手にかからずみずから自分の罪に服するものとして,名誉を重んじた方法とされた。明治になっても新律綱領は士族に対し自裁という切腹の刑を認めたが︵1870︶,改定律例によって廃止され︵1873︶,刑罰としての切腹は消滅した。しかし,自殺の方法としては,その後も軍人の間にこれをもっともふさわしいとする観念が強く残っていた。
執筆者‥平松 義郎
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切腹
せっぷく
短刀で腹を切って死ぬ自決の一方法で、割腹(かっぷく)、屠腹(とふく)ともいわれ、外国にも﹁ハラキリ﹂として知られる日本独特の習俗。平安時代に始まるとされ、武士道が発達した鎌倉時代にかけて定着し、中世、近世を通じて行われた。人間の魂は腹に宿るという考えから、勇敢に腹を切ることは、武士道を貫くうえで最適な行為となった。動機は、主君に殉ずる追腹(おいばら)、職責や義理上の詰腹(つめばら)、捕虜の恥辱を逃れるための切腹、また無念のあまり切腹する無念腹などがある。切り方は、腹一文字にかき切る一文字腹、さらに縦にみぞおちから臍(へそ)の下まで切り下げる十文字腹が勇壮でよいとされたが、体力的にそこまでは不可能で、なお喉(のど)を突いて絶命に導いたようである。江戸期に入ると、動機の純粋さも失われていき、方法も形式化した。つまり、武士の切腹にあたり、付き添って首を斬(き)り落とす介錯(かいしゃく)の作法である。それも、しだいに、腹を切る寸前に介錯人が背後から首を斬ることが多くなった。
介錯は3人で勤めた。3人の介錯というのは、介錯︵大介錯ともいう︶、添(そえ)介錯︵助(すけ)介錯ともいう︶、小介錯の三役で、介錯は首を討つ役、添介錯は短刀ののった三方を持ち出す役、小介錯は首を実検に入れる役である。また、首を斬るのに﹁三つの規矩(きく)﹂と﹁四つの間(ま)﹂という心得があった。﹁三つの規矩﹂の一つは短刀をいただくとき、二つは左の腹を見るとき、三つは腹へ短刀を突き立てるとき、﹁四つの間﹂の一つは三方を据えて退くとき、二つは三方を引き寄せるとき、三つは刀を把(と)るとき、四つは腹へ突き立てるときで、これらが早すぎても遅すぎてもいけないとされた。しかし、三方にのっているのは短刀でなく、扇子である場合もあり、これを扇腹(おうぎばら)とよんだ。
切腹は自決のほかに、中世から処刑の方法としても採用された。上級武士に対する名誉刑として、自分の不始末を自力で処理するという思想から切腹を賜ったのである。上士の犯罪者の場合は、預けられた大名などの屋敷内で、中士の切腹は牢屋(ろうや)内で行われた。この刑罰としての切腹は1873年︵明治6︶に廃止された。自殺の方法としては明治時代以降もたまにみられ、1945年︵昭和20︶8月25日、早暁(そうぎょう)、東京都内旧代々木(よよぎ)練兵場の一角で﹁大東塾(だいとうじゅく)十四士﹂が古式にのっとった集団割腹自決を行った。また近年では作家三島由紀夫の切腹︵1970︶の例がある。
﹇古川哲史・稲垣史生﹈
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切腹
せっぷく
はらきり,割腹ともいう。﹁士﹂以上の身分の者に科せられた死刑,または自殺の一方法。令 (りょう) の刑罰の一つに﹁自尽﹂と呼ばれるものがあり,平安時代末期から室町時代にいたる間に,﹁自尽﹂の方法として﹁切腹﹂が行われるようになり,江戸時代にいたってその形式が確立した。江戸時代,武士の死刑にはほかに﹁斬﹂があったが,切腹は斬首のはずかしめから救うために行われた。獄舎または預り大名屋敷の庭に畳2枚を敷いて本人をすわらせ,本人が三方に載せた木刀に手を掛けたとき背後の正介錯人が首を切り,副介錯人が首を取って検使に見せて執行を終えるというものであった。維新後は,明治3 (1870) 年の﹃新律綱領﹄に,士族に対して﹁自裁﹂という切腹刑が定められたが,1873年廃止。
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切腹
せっぷく
割腹・屠腹・腹切とも。刀で自分の腹を切る自殺または死刑の方法。平安時代以後,勇気や真心を示す自殺の方法として武士の間で一般化し,室町時代には武士に対する刑罰としても行われるようになった。中世末までは刀を左の脇腹に突き立て右脇まで引く一文字,そこからいったん抜いた刀を縦に鳩尾(みぞおち)から臍下まで切り下げる十文字などがあり,その式法も定まらなかったが,しだいに儀式化した。江戸時代には上級武士に対する死刑としても用いられた。500石以上の者は大名の屋敷内で,それ以下の者は牢内で,検使が見届けるなか執行された。ただしその方法は完全に儀式化し,実質的には介錯人(かいしゃくにん)による斬首の刑であった。刑罰としては1873年(明治6)廃止されたが,自殺としては軍人を中心にその後も行われた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
切腹【せっぷく】
刀で腹を切って死ぬことで,割腹(かっぷく),屠腹(とふく),腹切(はらきり)とも。武士の間で行われた自尽の方法で,源平の争乱のころから一般化。中世末から刑罰として用いられ,江戸時代の刑罰としては,検断立会いの下に介錯人(かいしゃくにん)が首を打った。斬首(ざんしゅ)より武士の名誉を重んじた刑。→殉死
→関連項目改易
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切腹
1962年公開の日本映画。英題︽Harakiri︾。監督‥小林正樹、原作‥滝口康彦、脚色‥橋本忍、撮影‥宮島義勇、音楽‥武満徹、美術‥大角純一、戸田重昌、録音‥西崎英雄。出演‥仲代達矢、岩下志麻、石浜朗、稲葉義男、三國連太郎、三島雅夫、丹波哲郎ほか。カンヌ国際映画祭審査員賞受賞。第17回毎日映画コンクール日本映画大賞、音楽賞、美術賞、録音賞受賞。第13回ブルーリボン賞脚本賞、主演男優賞︵仲代達矢︶受賞。
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普及版 字通
「切腹」の読み・字形・画数・意味
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
世界大百科事典(旧版)内の切腹の言及
【刑場】より
…かたわらの御様場︵おためしば︶においては,死罪人の死体を用い[様]斬︵ためしぎり︶を行った。なお武士の閏刑︵じゆんけい︶である切腹の場所は,牢屋敷内揚座敷︵あがりざしき︶前庭のほか,時宜によって当人預け先の屋敷内があてられた。牢屋外の刑場として,江戸では千住小塚原︵こづかつぱら︶と品川[鈴ヶ森]に常設のものがあり,これを︿両御仕置場﹀と称した。…
【刑罰】より
…︻小林 宏︼
﹇日本中世﹈
律令法で刑罰の適用に大きな意味をもったのは犯罪者の官位の有無であったが,中世の武家法では[侍]身分が重視され,謀書(文書偽造)の罪について,侍は所領没収,[凡下]︵ぼんげ︶は[火印],また人を殴る罪について,侍は所領没収,郎従以下は召禁(禁錮),また密懐(姦通)の罪について,侍は所領半分没収,名主,百姓は[過料](以上,︽御成敗式目︾および追加法)などと定められた。また,窃盗の罪について,凡下は1回目は火印,3回累︵かさ︶ねれば死罪とするが,侍は1回でも遠流︵おんる︶としたごとく,犯罪の性質によっては侍が重刑を科せられたことや,遅くも15世紀には,侍身分に死罪の栄誉刑として[切腹]が認められたことなど,いずれも侍身分重視の証左である。 中世の刑罰の態様を見ると,その特徴は大よそ以下の3点にまとめることができる。…
【腹】より
… 腹や腹部臓器に心や魂が宿るとする見方は日本にも古くからあり,今も〈腹をさぐる〉〈腹を割った話〉〈腹に一物〉その他の用法に表現されている。切腹はハラキリharakiriとして欧米にも知られるが,自殺手段というよりは多くの場合自己の潔白あるいは赤心の表明形式(新渡戸稲造《武士道》1899)で,内臓を露出して真心を見せるとの思い入れが強い。腹部臓器を貫いて脊柱のすぐ前を縦走する腹部の大動脈や下大静脈などを切断しなければ,切腹しても直ちに死に至ることはない。…
※「切腹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」