吉野作造(読み)ヨシノサクゾウ

デジタル大辞泉 「吉野作造」の意味・読み・例文・類語

よしの‐さくぞう〔‐サクザウ〕【吉野作造】

 
18781933  

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精選版 日本国語大辞典 「吉野作造」の意味・読み・例文・類語

よしの‐さくぞう【吉野作造】

 

(一)退
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉野作造」の意味・わかりやすい解説

吉野作造
よしのさくぞう
(1878―1933)


11()190033()()()()()1906()()1907190919103()1914319161()()()()

 輿()1918()()()192423退19261932

西 

81948196619761984

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百科事典マイペディア 「吉野作造」の意味・わかりやすい解説

吉野作造【よしのさくぞう】

 
19091924退
麿  

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改訂新版 世界大百科事典 「吉野作造」の意味・わかりやすい解説

吉野作造 (よしのさくぞう)
生没年:1878-1933(明治11-昭和8)


1906091314161︿︿218244退24191326

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朝日日本歴史人物事典 「吉野作造」の解説

吉野作造

 
8.3.18(1933)
11.1.29(1878)
()13(),,37(1904)7,422,3(1914)7132,,,退31,2,3<著作>(48)  
()
 

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉野作造」の意味・わかりやすい解説

吉野作造
よしのさくぞう

 
[]1878.1.29. 
[]1933.3.18. 
 1904060910314182424 (1926)  (32)  (8)   

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「吉野作造」の解説

吉野作造
よしのさくぞう


1878.1.291933.3.18

1909(42)14(3)28(3)161()18248

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉野作造」の解説

吉野作造 よしの-さくぞう

1878-1933 明治-昭和時代前期の政治学者。
明治11年1月29日生まれ。吉野信次の兄。第二高等学校在学中,キリスト教に入信。大正3年母校東京帝大の教授。「中央公論」誌上で民本主義をとなえ,大正デモクラシー運動の理論的指導者となる。マルクス主義とは一線を画しながら,労働運動,朝鮮の学生運動などを支持。13年朝日新聞社に入社するが筆禍事件で退社。のち明治文化研究会を設立,「明治文化全集」を刊行し近代史研究につくした。昭和8年3月18日死去。56歳。宮城県出身。
【格言など】学生の真理探究の態度は多情でなくてはなりません(「学生に対する希望」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「吉野作造」の解説

吉野作造
よしのさくぞう

1878〜1933
大正・昭和期の政治学者・思想家
宮城県の生まれ。東大教授。論壇で活躍し『中央公論』などに多くの評論を発表,民本主義を提唱し,普通選挙・政党内閣制実現を主張。枢密院・貴族院・軍部を批判し,その改革を唱え,また黎明会 (れいめいかい) ,東大の新人会,社会民衆党結成にも関係し,大正デモクラシーの理論的指導者として活躍した。1924年軍部の圧迫で東大を辞し,一時朝日新聞社に入社。また明治文化研究会を創立し『明治文化全集』24巻の編集にあたった。

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世界大百科事典(旧版)内の吉野作造の言及

【解放】より

…大正・昭和期の雑誌。(1)第1次 吉野作造,福田徳三らの黎明会同人を中心として,デモクラシー思想の普及のために1919年(大正8)6月大鐙閣から発行された総合雑誌。創刊号の定価38銭。…

【国体思想】より

…1911年,小学校の国定教科書の南北朝記述をめぐって南北朝正閏問題が起こったが,北朝系の明治天皇の勅裁により君臣の大義から南朝正統が決定した。
[大正デモクラシー期]
 まず美濃部達吉の天皇機関説を上杉慎吉が天皇親政論から批判したのに対し,美濃部は国体は文化的概念であるとして法学的世界からそれを除き,吉野作造も日本国体の優秀性は特別の君臣情誼関係という民族精神の問題であるとして政治学の対象から除外し,デモクラシーと国体は矛盾しないとした。大正期には公認のイデオローグ井上哲次郎ですら《我国体と世界の趨勢》で,君主主義と民主主義の調和にこそ国体の安全があると説いた。…

【新人会】より

…東京帝国大学の学生を中心とする思想運動団体。1918年12月5日,吉野作造の弟子麻生久,赤松克麿,宮崎竜介らが新しい思想の伝達者,社会改造の担い手をめざして結成,翌19年2月には機関誌《デモクラシイ》を創刊した(1920年2月《先駆》,同年10月《同胞》と改題)。同月には東京亀戸の工場地帯に入り共産党指導者となる渡辺政之輔を中心とする分会を設立したのをはじめ,全国各地に支部を設けた。…

【中央公論】より

…樗陰はまず文芸欄を拡充し,明治末期から大正期にかけて谷崎潤一郎,志賀直哉,芥川竜之介ら新進作家を数多く登場させ,〈文壇の登竜門〉としての権威を築いた。ついで吉野作造,大山郁夫,福田徳三らを執筆者として起用し,雑誌は大正デモクラシー運動の思想的担い手の役割を果たした。吉野の〈憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず〉はその代表的論説であり,後の総合雑誌の巻頭論文なるものの典型となった。…

【民本主義】より

…この言葉は明治末年,古賀廉造,黒岩涙香(周六),茅原華山らによって使われはじめ,大正初年には井上哲次郎,上杉慎吉,永井柳太郎,西川光二郎,大山郁夫らがそれぞれの立場から用いていた。 それが時代の合言葉として脚光をあびたのは,吉野作造〈憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず〉(《中央公論》1916年1月号)による。吉野はこれを,democracyの訳語だとしつつ,法理上の〈主権の所在〉にかかわる民主主義とあえて区別して,君主国といえども立憲制をとる以上従うべき,〈主権運用の方法〉に関する政治上の原則とした。…

【浪人会】より

…18年,黒竜会とともに〈大阪朝日新聞膺懲(ようちよう)運動〉(白虹(はつこう)事件)を行い,また同会の行動を非難した雑誌《日本及日本人》にも攻撃を加えた。このような同会の行動を,吉野作造は,同年11月号の《中央公論》誌上で徹底的に攻撃した。これに対し浪人会側は,吉野に立会演説会の開催を申し入れ,同年11月22日,東京神田南明俱楽部で吉野対浪人会の立会演説会が行われたが,かえって聴衆の吉野支持の気運を高めることになった。…

※「吉野作造」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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