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[[1884年]](明治17年)[[2月22日]]に[[東京府]][[東京市]][[京橋区]](現:[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[京橋 (東京都中央区)|京橋]])で生まれる<ref name="mb-fund" /><ref name="sizuoka-compe" />{{refnest|group="注"|出生地を[[東京市]][[芝区]](現:東京都港区芝)としているサイトも存在する<ref>{{Cite web|author=酒井義夫(いずみ書房創業者)|date=2014-05-26|url=http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2014/05/post_1852.html|title=『蝶々夫人』の三浦環〜今日はこんな日|work=児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ|publisher=[[いずみ書房]]|accessdate=2016-02-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160222084956/http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2014/05/post_1852.html|archivedate=2016年2月22日}}</ref>。ただし、少なくとも[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](現:[[東京芸術大学]]音楽学部)入学以降は東京市芝区に在住していた<ref name="emoto-book_2005">{{Cite book |和書 |author=江本弘志 |year=2005 |title=日本人歌手ここに在り!:海外に雄飛した歌い手の先人たち |publisher=[[文芸社]] |page=10 |isbn=483558922X}}</ref>。}}。父親は[[静岡県]][[城東郡]][[朝比奈村 (静岡県小笠郡)|下朝比奈村]](現:[[御前崎市]])出身で[[公証人]]である柴田孟甫(本名:熊太郎)、母は城東郡[[六郷村 (静岡県)|小沢村]](現:[[菊川市]])出身の永田登波で<ref name="sizuoka-compe" /><ref name="emoto-book_2005" />、3歳から[[日本舞踊]]を、6歳から[[長唄]]と[[箏]]を習い始める<ref name="human-record_27">{{Cite web |date=1997-06 |url=http://www.nihontosho.co.jp/1997/06/27.html |title=人間の記録27 三浦環 |work=一般・図書館向け〜文芸・読みもの |publisher=[[日本図書センター]] |accessdate=2016-02-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160222085656/http://www.nihontosho.co.jp/1997/06/27.html |archivedate=2016年2月22日 }}《》</ref>。東京・虎ノ門の東京女学館へ入学後<ref name="mb-fund" /><ref name="human-record_27" />、[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](現:[[東京芸術大学]]音楽学部)出身の教師である杉浦チカから音楽家になることを勧められ、[[1900年]](明治33年)に東京音楽学校へ入学する。[[瀧廉太郎]]から[[ピアノ]]を、[[幸田延]]から[[声楽]]を学び、[[ヴァイオリン]]をアウグスト・ユンケルに師事するようになり<ref name="human-record_27" />{{refnest|group="注"|「ピアノを瀧廉太郎に、[[声楽]]をユンケルに習う」と記述しているものも存在する<ref name="mb-fund" />。}}、私生活では入学直前に父・孟甫の勧めで[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の三等軍医正である藤井善一と結婚(7年後に離婚)する<ref>[https://diamond.jp/articles/-/58001?page=3 「蝶々夫人」を1910-30年代に欧米で歌ったソプラノ歌手・三浦環の数奇な音楽人生]坪井賢一、ダイヤモンド社、ダイヤモンドオンライン、2014.8.22</ref>。 |
[[1884年]]︵明治17年︶[[2月22日]]に[[東京府]][[東京市]][[京橋区]]︵現‥[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[京橋 (東京都中央区)|京橋]]︶で生まれる<ref name="mb-fund" /><ref name="sizuoka-compe" />{{refnest|group="注"|出生地を[[東京市]][[芝区]]︵現‥東京都港区芝︶としているサイトも存在する<ref>{{Cite web|author=酒井義夫︵いずみ書房創業者︶|date=2014-05-26|url=http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2014/05/post_1852.html|title=﹃蝶々夫人﹄の三浦環〜今日はこんな日|work=児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ|publisher=[[いずみ書房]]|accessdate=2016-02-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160222084956/http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2014/05/post_1852.html|archivedate=2016年2月22日}}</ref>。ただし、少なくとも[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]︵現‥[[東京芸術大学]]音楽学部︶入学以降は東京市芝区に在住していた<ref name="emoto-book_2005">{{Cite book |和書 |author=江本弘志 |year=2005 |title=日本人歌手ここに在り!‥海外に雄飛した歌い手の先人たち |publisher=[[文芸社]] |page=10 |isbn=483558922X}}</ref>。}}。父親は[[静岡県]][[城東郡]][[朝比奈村 (静岡県小笠郡)|下朝比奈村]]︵現‥[[御前崎市]]︶出身で[[公証人]]である柴田孟甫︵本名‥熊太郎︶、母は城東郡[[六郷村 (静岡県)|小沢村]]︵現‥[[菊川市]]︶出身の永田登波で<ref name="sizuoka-compe" /><ref name="emoto-book_2005" />、3歳から[[日本舞踊]]を、6歳から[[長唄]]と[[箏]]を習い始める<ref name="human-record_27">{{Cite web |date=1997-06 |url=http://www.nihontosho.co.jp/1997/06/27.html |title=人間の記録27三浦環 |work=一般・図書館向け〜文芸・読みもの |publisher=[[日本図書センター]] |accessdate=2016-02-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160222085656/http://www.nihontosho.co.jp/1997/06/27.html |archivedate=2016年2月22日 }}︽︾</ref>。東京・虎ノ門の東京女学館へ入学後<ref name="mb-fund" /><ref name="human-record_27" />、[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]︵現‥[[東京芸術大学]]音楽学部︶出身の教師である杉浦チカから音楽家になることを勧められ、[[1900年]]︵明治33年︶に東京音楽学校へ入学する<ref>東京芝今入町より上野まで自転車通学をしていた。このコースについては、瀬戸内寂聴が一ツ橋、神田、本郷から切通しを過ぎて池之端に出たとする説に対し、﹁本の話﹂では神田橋を渡るまでは同じだが、真っ直ぐ進み靖国通りに出て淡路町を抜けて昌平橋を渡り現在の秋葉原のメインストリートを直進した方が時間と坂道が少ないと異論を出している。出典は﹃自転車の文化史:市民権のない5,500万台﹄、佐野裕二、文一総合出版、1985.1、P170-171</ref>。[[瀧廉太郎]]から[[ピアノ]]を、[[幸田延]]から[[声楽]]を学び、[[ヴァイオリン]]をアウグスト・ユンケルに師事するようになり<ref name="human-record_27" />{{refnest|group="注"|﹁ピアノを瀧廉太郎に、[[声楽]]をユンケルに習う﹂と記述しているものも存在する<ref name="mb-fund" />。}}、私生活では入学直前に父・孟甫の勧めで[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の三等軍医正である藤井善一と結婚︵7年後に離婚︶する<ref>[https://diamond.jp/articles/-/58001?page=3 ﹁蝶々夫人﹂を1910-30年代に欧米で歌ったソプラノ歌手・三浦環の数奇な音楽人生]坪井賢一、ダイヤモンド社、ダイヤモンドオンライン、2014.8.22</ref>。
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=== 日本人初のオペラ === |
=== 日本人初のオペラ === |
2023年6月24日 (土) 09:17時点における版
三浦 環 | |
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![]() | |
基本情報 | |
出生名 | 柴田 環 |
生誕 | 1884年2月22日 |
出身地 |
![]() (現:東京都中央区京橋) |
死没 |
1946年5月26日(62歳没)![]() (現:東京都文京区本郷) 東京帝国大学医学部附属病院 |
学歴 |
東京音楽学校 (現:東京芸術大学音楽学部)卒業 |
ジャンル | オペラ |
職業 | 歌手 |
活動期間 | 1911年 - 1946年 |
レーベル |
日本ビクター 日本コロムビア |
生涯
生い立ち
1884年︵明治17年︶2月22日に東京府東京市京橋区︵現‥東京都中央区京橋︶で生まれる[1][2][注 1]。父親は静岡県城東郡下朝比奈村︵現‥御前崎市︶出身で公証人である柴田孟甫︵本名‥熊太郎︶、母は城東郡小沢村︵現‥菊川市︶出身の永田登波で[2][4]、3歳から日本舞踊を、6歳から長唄と箏を習い始める[5]。東京・虎ノ門の東京女学館へ入学後[1][5]、東京音楽学校︵現‥東京芸術大学音楽学部︶出身の教師である杉浦チカから音楽家になることを勧められ、1900年︵明治33年︶に東京音楽学校へ入学する[6]。瀧廉太郎からピアノを、幸田延から声楽を学び、ヴァイオリンをアウグスト・ユンケルに師事するようになり[5][注 2]、私生活では入学直前に父・孟甫の勧めで陸軍の三等軍医正である藤井善一と結婚︵7年後に離婚︶する[7]。日本人初のオペラ
東京音楽学校在学中の1903年︵明治36年︶7月23日に旧東京音楽学校奏楽堂で、日本人の手によって初めて開催されたオペラ公演に出演して成功を収める[5][8][注 3]。1904年︵明治37年︶に東京音楽学校を卒業後は、奨学金を得て研究科へ進むと同時に﹁授業補助﹂の辞令を受けて声楽の講師を担当するようになる[9]。環はのちに助教授となり、この間に山田耕筰らを指導した[10]。1911年︵明治44年︶には帝国劇場に所属してレコードへの吹き込みを初めて行い、プリマドンナとして活躍する。このレコードでは日本で数多くの声楽家を育成したイタリア人テノール歌手で、環も師事していたアドルフォ・サルコリと共にオペラ﹁カヴァレリア・ルスティカ―﹂の一部も吹き込み、これが日本における本格的なクラシック音楽の最初のレコードとされている[11]。また、環が﹁蝶々夫人﹂の楽譜を最初に受け取ったのもサルコリである。欧米各国での活躍
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/51/Tamaki_Miura_1917.jpg/250px-Tamaki_Miura_1917.jpg)
永住帰国
シチリア島パレルモで﹁蝶々夫人﹂出演通算2000回を達成した環は永住帰国を決断し、1935年︵昭和10年︶11月に帰国する[2][13]。 1936年︵昭和11年︶6月26・27日に、東京・歌舞伎座において開催された原語︵イタリア語︶による﹁蝶々夫人﹂公演に出演し、これが自身通算2001回目の出演となった[14][注 4]。これ以降は日本国内の各地でオペラへの出演やリサイタルの開催、レコーディングを行っていった[13]。なお、﹁蝶々夫人﹂は自身による日本語訳の歌詞にて上演したこともあった[16][注 5]。 しかし、1941年︵昭和16年︶以降は太平洋戦争︵第二次世界大戦︶が勃発し、戦火が激しくなった1944年︵昭和19年︶からは山梨県中野村︵現‥山中湖村︶の山中湖へ疎開する[13]。環は同じく疎開した母・登波の看病を続けながら疎開先へピアノを持ち込み、地元の住民らと気さくに交流を楽しんだり、同じく疎開してきた多くの文化人らとの語らいを楽しんでいた[18]。また、子供好きであることから近所の子供たちに歌を教えるなど、充実した日々を送っていた[19]。終戦、死去
太平洋戦争の終戦から4ヶ月ほどが経過した1945年︵昭和20年︶12月1日と7日に日比谷公会堂で開催されたリサイタルでは、フランツ・シューベルト作曲の﹁冬の旅﹂全24曲を昼と夜の2回ずつ計4回開催した。この一連の公演では、自身が疎開中に翻訳した日本語の歌詞が用いられている[13]。 1946年︵昭和21年︶になると膀胱癌のために周囲から見ても明らかなほど衰弱し始め、同年3月には大東学園病院に入院した。既に一人では歩けない身体となっていた[5][13][20]が、同年3月21日に日比谷公会堂で行われたシューベルトの歌曲集﹁美しき水車小屋の娘﹂全20曲のリサイタルを開催した[5][13][20][注 6]ほか、4月にはNHKからの依頼を受けて計3回の録音を行った[注 7]。 NHKにおける3回目の録音から9日後の4月25日、大東学園病院から東京帝国大学︵現‥東京大学︶付属病院へ転院した[21]。手術の可能性を探りたいという医師側の意向によって転院が決まったもので、レントゲン検査を受けていたが5月22日に容態が急変して危篤状態に陥り、その4日後の5月26日午前5時20分に息を引き取った。62歳没。なお、死の2日前︵5月24日︶には昏睡状態の中、ドビュッシーの﹁バルコン︵露台︶﹂︵歌曲集﹁シャルル・ボードレールの5つの詩﹂から第1曲︶を口遊んでいたという[5][20][21]。 環の死去を受けて、5月28日に最初の入院先だった大東学園病院の母体である大東学園の講堂で告別式が行われたのち、6月7日には日比谷公会堂にて音楽葬が盛大に営まれ、かつて世界三大﹁蝶々夫人﹂歌手の一人であるジェラルディン・ファーラーや、共演者の一人であるテノール歌手のジョヴァンニ・マルティネッリから追悼メッセージが寄せられた[5][20]。環の亡骸は、生前に残した﹁富士山の見える湖畔で母と共に眠りたい﹂という遺言に基づき[18]、前年に亡くなった母・登波と共に山中湖東岸に近い平野部に所在する寿徳寺に葬られている。その裏手に建立された墓碑には﹁うたひめはつよき愛国心持たざれば 真の芸術家とはなり得まじ﹂と実筆の詩が刻まれている[22][23]。人物・エピソード
著書
●﹃世界のオペラ﹄共益商社、1912年5月。 NCID BA31820818。全国書誌番号:40073049。 ●﹃わが芸術の道﹄世界創造社︿スメラ民文庫﹀、1942年10月。全国書誌番号:44062767。 ●吉本明光 編﹃お蝶夫人﹄右文社、1947年5月。 NCID BN07090197。全国書誌番号:46023434。 ●吉本明光 編﹃お蝶夫人 伝記・三浦環﹄大空社︿伝記叢書 204﹀、1996年4月。ISBN 9784872365030。 NCID BN14386524。全国書誌番号:97026638。 ●吉本明光 編﹃三浦環 お蝶夫人﹄日本図書センター︿人間の記録27﹀、1997年6月。ISBN 9784820542681。 NCID BA31803819。全国書誌番号:98020745。翻訳
●ダビット・ベラスコ原作﹃歌劇 お蝶夫人﹄ルイージ・イッリカ、ジュゼッペ・ジャコーザ脚色、三浦環事務所、1937年。 NCID BA4701564X。全国書誌番号:44055388。 ●ダビット・ベラスコ﹃歌劇 お蝶夫人﹄音楽世界社、1937年。全国書誌番号:47034741。関連書籍
●吉本明光﹃三浦環のお蝶夫人﹄音楽之友社︿音楽文庫91﹀、1955年7月。 ●大林清﹃三浦環 永遠の歌姫﹄花房英樹絵、ポプラ社︿偉人伝文庫93﹀、1956年。 ●高橋巌夫﹃永遠の蝶々夫人三浦環﹄春秋社、1995年7月。ISBN 9784393934333。 ●田辺久之﹃考証三浦環﹄近代文藝社、1995年7月。ISBN 9784773343700。 ●田辺久之﹃考証三浦環﹄︵増補改訂版︶田辺久之、2018年4月。ISBN 9784901580403。 ●田辺久之﹃考証三浦環﹄︵新版︶幻冬舎メディアコンサルティング、2020年10月。ISBN 9784344930544。 ●大石みちこ﹃奇跡のプリマ・ドンナ オペラ歌手・三浦環の﹁声﹂を求めて﹄KADOKAWA、2022年10月。ISBN 9784046056221。フィクションにおける三浦環
小説 ●瀬戸内晴美﹃お蝶夫人 小説三浦環﹄講談社 1969 のち文庫 映画 ●わが愛の譜 滝廉太郎物語︵1993年 演‥佐藤しのぶ︶ - ﹁柴田環﹂として登場。 舞台 ●劇団静岡県史﹃マダム・バタフライ~三浦環ものがたり~﹄︵2022年3月 菊川文化会館アエル︶ テレビドラマ ●坂の上の雲 第2部︵2010年 演‥松田珠希︶ ●蝶々さん〜最後の武士の娘〜︵2011年 演‥佐藤康子︶ ●エール︵2020年 演‥柴咲コウ[31]︶ - ﹁双浦環﹂として登場。 ラジオドラマ ●忘れえぬ人々 川上貞奴︵1952年 演‥小夜福子︶脚注
- 注釈
- 出典
参考書籍
- New Grove Dictionary of Opera Vol.3, NY: Macmillan 1972.
- Michael Scott, The Record of Singing, Vol.2 1914-1925, London: Duckworth 1979.
関連項目
- 静岡国際オペラコンクール - 環の両親の出身地である静岡に於いて、1996年から3年おきに開催
外部リンク
- 『三浦環』 - コトバンク
- 『三浦 環』 - コトバンク
- 三浦 環:作家別作品リスト - 青空文庫
- 劇団静岡県史 音楽劇『マダム・バタフライ~三浦環ものがたり~』
- Find A Grave
- 港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (三浦 環)
- 千代田区地域ポータルサイト「川上貞奴vs三浦環」 ※ 現在はアーカイブサイト「archive.is」内に残存
- 「お蝶夫人(蝶々夫人)」三浦環 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
- 三浦環と古関裕而
- 三浦環 ※ 現在はアーカイブサイト「archive.is」内に残存
- 三浦環と自転車 ※ 現在はインターネットアーカイブ内に残存
- プッチーニ 《蝶々夫人》 「ある晴れた日に」三浦環音源 1917年録音