楠山正雄
生涯 編集
東京府京橋区新橋竹川町︵現在の銀座︶で、小売と卸売を兼業し、印刷業の写真画問屋も営む楠山秀太郎の子として生まれる。
祖父で幕臣の楠山孝一郎は、同じく幕臣で編集者の成島柳北の兄にあたる。俳優・森繁久弥とも縁戚にあたる。
しかし3歳になった1886年2月15日、父秀太郎が急死。後に母親が再婚するが、再婚相手の起こした不祥事から会社が倒産して苦しい家計に追われることになり、親戚の家を盥回しにされるなど、多難な少年時代を送る。
この幼少期、母方の祖母に歌舞伎の舞台を連れて行ってもらったことを機に演劇に関心を持ち始める。
12歳の時に叔父に引き取られ、彼を医学の道へ進ませたい叔父から強く勧められて獨逸学協会学校へ入学、ドイツの学問や外国語力を身に付ける。
しかし、かねてより文学を志していた正雄は医学に全く関心がなく、やがて進路上の相違から叔父との間に亀裂が生じ、当時既に再婚相手と縁を切っていた母親と再び一緒に暮らした[1]。
多磨霊園にある楠山家の墓
母親との暮らしを再開した後、國學院を経て、1902年に東京専門学校︵現早稲田大学︶に入学、1906年に英文科を卒業した後は、早稲田文学社、読売新聞社を経て、早大時代からの恩師であった坪内逍遥とのツテで1911年に冨山房に入社した。
大隈重信主催の総合雑誌﹃新日本﹄[2]の編集や、評論家としてのみならず、校訂や百科事典の編集など幅広い仕事を受け持ち、1938年まで正社員として在籍した。
当時は主に新聞や雑誌などで日本の演劇に関する評論を執筆、同じく恩師の島村抱月が設立した芸術座のメンバーとして幾つか台本を手掛けたほか、母校の早稲田大学でも近代演劇に関する授業を受け持つなどしていた。
しかし、抱月の死去と看板女優の松井須磨子の自殺で1919年に劇団が崩壊してからは、1937年に劇評を再開するまで演劇界からは長らく距離を置くようになる。
1915年に冨山房で児童書の杉谷代水のアラビヤンナイト翻訳の校訂を担当したことを機に、児童文学の編集・翻訳・再話を関わるようになり、﹃模範家庭文庫﹄﹃画とお話の本﹄などの全集シリーズやアンソロジーを編纂し、自らも創作に携わった。
その過程で、鈴木三重吉が立ち上げた﹃赤い鳥﹄にも参与し、日本のみならず様々な国の童話の邦訳・再話作品を掲載した。
第二次世界大戦が近づくと、主に日本国内のおとぎ話や神話・伝説の再話に専念していった。
戦後は、再び海外の児童文学の翻訳業に着手し始めたが、癌により66歳で息を引き取った。
長男は中国哲学者︵道教研究︶の楠山春樹、次男は成樹、三男は三香男。
翻訳をしたエドモン・ロスタンの﹁シラノ・ド・ベルジュラック﹂は、額田六福の脚色によって﹁白野弁十郎﹂となり島田正吾、緒形拳による一人芝居として演じられた。