「エディ・ジョーダン」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Bot作業依頼: 「中村良夫」の各記事の改名に伴うリンク修正依頼 (中村良夫 (技術者)) - log |
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
85行目: | 85行目: | ||
*1991年には[[鈴木亜久里]]とも交渉したが、亜久里サイドからは「お金の無いチームには行きたくない」と言う理由で断っていたものの、[[1994年ブラジルグランプリ]]においてエディ・アーバインが多重クラッシュの原因を引き起こして3戦出場停止処分が下ったため、亜久里は[[1994年パシフィックグランプリ]]でアーバインの代打としてスポット参戦している。 |
*1991年には[[鈴木亜久里]]とも交渉したが、亜久里サイドからは「お金の無いチームには行きたくない」と言う理由で断っていたものの、[[1994年ブラジルグランプリ]]においてエディ・アーバインが多重クラッシュの原因を引き起こして3戦出場停止処分が下ったため、亜久里は[[1994年パシフィックグランプリ]]でアーバインの代打としてスポット参戦している。 |
||
*トップギアマガジン内で現在の愛車は[[BMW・2シリーズ|BMW・M2]]を所有していると発言している。 |
*トップギアマガジン内で現在の愛車は[[BMW・2シリーズ|BMW・M2]]を所有していると発言している。 |
||
*マスメディアに対しては、「エディ・エディントン」という仮名で登場することがある。プロフィール紹介では「エディ・エディントン」は仮名であり、ジョーダンであるということは伏せられているが、「ドライバーからチームオーナーに転向」「ドライバーマネージメント業務(他チームに押し込んでライバルからも手数料を取ることもしばしばあり)」といった記述から、容易にジョーダンであると分かる記述になっている。 |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
2023年9月12日 (火) 08:20時点における版
エディ・ジョーダン Eddi Jordan | |
---|---|
![]() 2017年F1アメリカGPにて | |
基本情報 | |
国籍 |
![]() |
生年月日 | 1948年3月30日(76歳) |
出身地 | ダブリン県ダブリン |
引退 | 1981年 |
ル・マン24時間レースでの経歴 | |
活動時期 | 1981年 |
所属 | EMKA Racing |
シリーズ最高順位 | DNF (24位) |
過去参加シリーズ | |
1971年 1974年 - 75年 1977年 - 78年 1979年 1979年 |
アイルランド・カート選手権 Fフォード Fアトランティック イギリスF3 F2 |
受賞 | |
2012年 | 大英帝国勲章OBE |
エドムンド・パトリック・ジョーダン︵エディ・ジョーダン、Edmund Patrick "Eddie" Jordan OBE、1948年3月30日 - ︶は、アイルランド出身の元レーシングドライバーで、F1コンストラクター﹁ジョーダン・グランプリ﹂の創設者。
F1では新興の同チームを指揮しグランプリ通算4勝の実績を残した。2005年に経営者から勇退し、マスメディア業界に転身している。愛称は﹁EJ﹂。2012年3月、 大英帝国勲章を叙勲[1]。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/09/Eddie_Jordan_1996.jpg/130px-Eddie_Jordan_1996.jpg)
F1オーナー時代︵1996年︶
1979年の終わりに最初のプライベートチーム﹁エディ・ジョーダン・レーシング﹂︵EJR︶を設立。ドライバーはデヴィッド・レズリーとデヴィッド・シアーズで、1981年にイギリス近辺の複数のレースに参加した。1982年にはジェームズ・ウィーバーをエースドライバーとしたが、1983年にウィーバーがヨーロッパF3に参加したため、前年ランキング4位のマーティン・ブランドルを新たに起用[2]。ブランドルはイギリスF3でアイルトン・セナと選手権を争い、シリーズ2位を獲得するとF1に昇格した。チームは1987年にジョニー・ハーバートを採用し、イギリスF3を制覇した。
EJRはハーバート、マーティン・ドネリー、そしてシャーシーメーカーのレイナードとともに国際F3000へステップアップして参戦開始。その緒戦となる1988年開幕戦でハーバートがチームのF3000初レース・初勝利を飾った。これはレイナードシャーシにとってもF3000初戦での勝利という快挙であった。この勝利を交渉に生かしたジョーダンはR.J.レイノルズとの契約を成立させ、たばこブランド﹁キャメル﹂をタイトルスポンサーとして獲得する手腕を見せた。1989年にはジャン・アレジを擁して国際F3000チャンピオンを獲得した。1990年になるとジョーダンはF1進出の準備に動きはじめ、ゲイリー・アンダーソンやイアン・フィリップスなど後の主要スタッフにF1参戦構想を打ち明け、搭載エンジン獲得交渉などを開始していた[3]。
1991年に﹁ジョーダン・グランプリ﹂を設立してF1に参戦。交渉手腕を活かしてワークス︵型落ち︶のフォードHBエンジンを獲得し、初年度からコンストラクターズ5位を獲得した。その後ヤマハ、ハート、プジョー、無限ホンダとエンジンメーカーを乗り換えながらチーム力を拡充し、1998年にF1初優勝を達成した。1999年にはコンストラクターズ3位を獲得するが、これを頂点に成績は下降線を辿り、チーム組織も弱体化していった。この背景は2000年シーズン中のマイク・ガスコインの他チームへの移籍表明をきっかけにエンジニアが年々離脱していき、その穴埋めができず開発体制は弱体化。チーム規模を拡大してきたことによる相対的な資金不足にも見舞われた点が挙げられる
2004年末の資金難で翌年に、ロシア系カナダ人ビジネスマン、アレックス・シュナイダーにチームを売却。2006年からMF1レーシングと改名する。その後また人手に渡り、スパイカーF1→フォース・インディア→レーシング・ポイントと変遷を繰り返し、2022年現在はアストンマーティンF1となっている。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ac/Coulthard%2C_Perry_%26_Jordan_British_GP_2013_001.jpg/220px-Coulthard%2C_Perry_%26_Jordan_British_GP_2013_001.jpg)
右の男性がジョーダン。左はクルサード︵2013年︶
オーナー業から退いた後は﹃F1 Racing﹄誌にコラムを寄稿するなど、マスメディア側に転身する。2009年よりイギリスBBCのF1中継番組のコメンテーター陣に加わり、マーティン・ブランドル、デビッド・クルサードらと共に軽妙な解説を行っている。
慈善活動とモータースポーツへの貢献を認められ、2012年に大英帝国勲章OBEの叙勲を受けた[4]。2016年にはBBCの自動車番組﹃トップ・ギア﹄の司会者陣に加わったが[5]、短期間で降板した。
経歴
レーシングドライバー
1948年にアイルランド・ダブリンで生まれる。彼は歯科医になるつもりで学んだが、学校を卒業した後アイルランド銀行に就職した。ダブリンでストライキが行われている時にジャージー島を訪れ、そこで初めてカートレースを目撃しその虜となる。ダブリンへ戻るとレーシングカートを購入し、レースに参加し始める。最初のレースはジャージー島のボーレイ湾で1970年に行われたものであった。1971年のアイルランド・カート選手権に参加し優勝した。 1974年にはフォーミュラ・フォードにステップアップ。同クラスに2年間参加したが、事故で両脚を骨折し、1976年シーズンへの参加を断念する。傷が癒えるとフォーミュラ・アトランティックに参戦、1977年に3勝し、1978年にはアイルランド選手権を制する。ステファン・ヨハンソンと1979年のイギリスF3で戦い、彼らは自身を﹁チーム・アイルランド﹂と呼んだ。同年にはF2の1戦に参加し、マクラーレンのテストドライブも行った。チームオーナー
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/09/Eddie_Jordan_1996.jpg/130px-Eddie_Jordan_1996.jpg)
解説者
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ac/Coulthard%2C_Perry_%26_Jordan_British_GP_2013_001.jpg/220px-Coulthard%2C_Perry_%26_Jordan_British_GP_2013_001.jpg)
レース戦績
ル・マン24時間レース
年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | ![]() |
![]() ![]() |
BMW・M1 Gr.5 | Gr.5 | 236 | DNF | DNF |
エピソード
●チームのF3000参戦時までは所属する若いドライバーのマネージメントも行った。ジャン・アレジを起用した1989年のレース結果によってF1関係者からのアレジへの注目度が上昇し、ジョーダンはその窓口として交渉した。結果、1990年初夏にまずはウィリアムズにアレジとの契約を売った。しかしその後10月にフェラーリがその契約をさらに高額で買い取ることになった為、エディ・ジョーダンの手元にもマネージメント料として多額の移籍金が入った。これによって想定より大きな予算を確保出来たことがF1参戦の決意を決定的なものにさせたと自身で述べている[6]。F1参戦開始後はチーム業務に忙殺されて個人に目が行き届かないことを懸念しドライバーマネージメントからは手を引いた。 ●F1参戦開始後も策士として数々の商才を発揮した。代表例として、1991年にジョーダンでたった1戦しか在籍しなかったミハエル・シューマッハのベネトン移籍に対し、数年後シューマッハ側からジョーダンチームに違約金が支払われた。1995年10月には、エディ・アーバインとの翌年の契約延長をまとめた後にフェラーリからアーバインの獲得希望が届き、フェラーリがおよそ5億円の移籍金を提示したのを受けてあっさりと契約をリリースし大金を受け取った[7]。 ●新人ドライバーの発掘能力にも長けており、ミハエル・シューマッハ、ルーベンス・バリチェロ、エディ・アーバイン、ラルフ・シューマッハなど数々の逸材をF1に抜擢し後の活躍に繋がった(また、EJR時代も含めれば、F3の時期にアイルトン・セナ︵テスト走行︶やジョニー・ハーバート、国際F3000ではジャン・アレジを起用し、彼らのキャリアアップの一因となった︶。 ●ドライバー以外にも、エンジニアのジェームス・キーとサム・マイケルはキャリアの初期において在籍していたチームでもある。 ●ジョーダンはチームの所有権を2004年まで保持していたが、幾度も噂された買収アプローチ︵最も顕著な物はプジョーとホンダからによる物であった︶を最後まで拒絶。彼の手を離れた2005年から直近の3年はチームの転売が繰り返されたものの、フォース・インディアとなってからはチーム基盤が安定したこともあり、年を追うにつれ、有力チームの1つと称されるまでに至った。スポンサーやエンジンを安定的に獲得した彼の巧みな手腕やドライバーに関する契約や移籍の交渉術がなければ、ジョーダン・グランプリはアロウズのような形での破たん、あるいはプロスト・グランプリと似た道筋をたどって消滅していた可能性がある。 ●趣味はロックンロールと競馬であり、しばしばドラムを演奏する。 ●カツラを着用しているという話が枕言葉的に出るが、真相は定かではない。村山文夫原作の﹃グランプリ天国﹄ではカツラネタが非常に多かった。また、2013年に表彰台でのインタビューをした際、キミ・ライコネンがルイス・ハミルトンに向かってカツラを取るようにジェスチャーした幕もあった ●1991年には鈴木亜久里とも交渉したが、亜久里サイドからは﹁お金の無いチームには行きたくない﹂と言う理由で断っていたものの、1994年ブラジルグランプリにおいてエディ・アーバインが多重クラッシュの原因を引き起こして3戦出場停止処分が下ったため、亜久里は1994年パシフィックグランプリでアーバインの代打としてスポット参戦している。 ●トップギアマガジン内で現在の愛車はBMW・M2を所有していると発言している。 ●マスメディアに対しては、﹁エディ・エディントン﹂という仮名で登場することがある。プロフィール紹介では﹁エディ・エディントン﹂は仮名であり、ジョーダンであるということは伏せられているが、﹁ドライバーからチームオーナーに転向﹂﹁ドライバーマネージメント業務︵他チームに押し込んでライバルからも手数料を取ることもしばしばあり︶﹂といった記述から、容易にジョーダンであると分かる記述になっている。脚注
出典
- ^ Formula 1 analyst Eddie Jordan made honorary OBE by Queen
- ^ タイレル入りした"新時代のジャッキー・スチュワート" マーチン・ブランドル語録 オートスポーツ No.394 48-52頁 三栄書房 1984年5月1日発行
- ^ ナカさんのF1人間研究所 イアン・フィリップス グランプリ・エクスプレス1991年イタリアGP号 14-15頁 山海堂 1991年9月28日発行
- ^ エディ・ジョーダンが叙勲…チャリティ活動とモーターレーシング貢献に - レスポンス(2012年3月29日)
- ^ Meet your new Top Gear presenters! - TopGear.com・2016年2月11日
- ^ エディ・ジョーダン 成功するための「人・物・金」の使い方 F1グランプリ特集9月号 82-83頁 ソニーマガジンズ 1995年9月16日発行
- ^ エディ・アーバイン緊急インタビュー「この移籍は究極の挑戦であり、完璧なチャンス」 F1グランプリ特集11月号 24-25頁 ソニーマガジンズ 1995年11月16日発行