オリバー・クロムウェル
オリバー・クロムウェル Oliver Cromwell | |
サミュエル・クーパーによる肖像画(1656年)
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任期 | 1653年12月16日 – 1658年9月3日 |
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出生 | 1599年4月25日 イングランド王国、ハンティンドンシャーハンティンドン |
死去 | 1658年9月3日(59歳没) イングランド共和国、ホワイトホール |
政党 | 独立派 |
配偶者 | エリザベス・バウチャー |
署名 |
生涯
イングランド東部・ハンティンドンシャーのピューリタンでありジェントリ階級の地主の家庭に生まれる。高祖母キャサリンの兄︵または弟︶にヘンリー8世の元で﹁行政革命﹂を実施した政治家トマス・クロムウェルを持つ名家であった。 ケンブリッジ大学で学び、強い回心の経験を経た結果、生涯ピューリタンを貫いた[2]。1628年に庶民院議員となるも、翌1629年の議会解散後、また故郷に帰って治安判事となり、1631年に土地を売ってセント・アイヴスに移り牧場を経営したが、1638年にイーリーに移った。議会軍の鉄騎隊
国王軍と議会軍の比較
議会軍が劣勢だった理由は、その編成にあったといわれる。国王軍は正式に令状が出されて集められ、訓練・戦闘経験を積んだ者も多かったいっぽう、議会軍は民兵を主力とする混成部隊だった。民兵は地方意識が強く、国全体のこととなると士気を高くもてなかった。また、装備・訓練・実戦経験において貴族の率いる国王軍に及ばなかった。特にアドウォルトン・ムーアの戦いではその弱体さが際立った。後にクロムウェルは当時を顧みて、民兵の混成部隊だった議会軍を﹁よぼよぼの召使いや給仕やそんな連中﹂と述懐している。ニューモデル・アーミーの創設まで
1644年7月2日、マーストン・ムーアの戦いでカンバーランド公ルパートの騎兵と直面し、潰走させて武名をあげた。しかし議会軍全体はまだ弱く、全面攻勢をかけるほどの力はなかった。はかばかしくない戦況を見て、議会派は軍の再編を急いで進めた。東部の諸州が連合してつくられた東部連合軍をはじめ、西部連合軍なども編成され、議会軍の組織化が進んだ。これらの再編によってただちに議会軍が精強になったわけではなく、軍の内外で様々な問題をかかえていた。議会内の見解の一致がとれていないことや、革命の目指す方向がないことなどがその主な理由であった。クロムウェルは当時、東部連合軍の騎兵隊長であった。
1645年頃には、議会軍は辞退条例制定など軍隊の編成改革を行い、優柔不断な行動で戦略に悪影響を与え続けたマンチェスター伯とエセックス伯ロバート・デヴァルーなどの指揮官は排除され、東部連合軍・西部連合軍などを統合し、議会の統制下で一元的に再編成された新しい軍をニューモデル・アーミーとした。総司令官はフェアファクスが就任、クロムウェルはニューモデル軍結成にあたって副司令官となった。
1645年6月14日のネイズビーの戦いでは、議会軍は左翼にヘンリー・アイアトン少将、右翼にクロムウェル中将が布陣した。鉄騎隊は激しい攻撃によってじりじりと国王軍を押し返し、国王本隊に迫りつつある時、チャールズ1世は親衛隊を割いて鉄騎隊を追い払おうとした。ところがこの命令が誤って伝わり、親衛隊は後退してしまった。クロムウェルはこの隙を見逃さず、チャールズ1世の歩兵連隊を壊滅させた。いっぽう左翼でもアイアトンの部隊が攻め、国王軍は左右から挟撃され、国王軍は総崩れとなった。この戦いによって、国王軍は壊滅的な損害を被った。議会派はこの勝利をイングランド中に宣伝し、勝利を印象づけた。兵糧や大砲は議会軍に接収され、国王軍の再建は事実上不可能となった。内戦はさらに1年続いたが、国王軍は劣勢を逆転することはできず、チャールズ1世はスコットランドに亡命を余儀なくされた。だがスコットランドにも見捨てられ、議会の監視下でハンプトン・コート宮殿で軟禁状態に置かれた。
コモンウェルス成立
アイルランド併合とスコットランド侵攻
カトリックのアイルランドやスコットランドは1649年から1651年にかけて反議会派の拠点であった。クロムウェルはアイルランド遠征軍司令官兼アイルランド総督に任ぜられて侵攻を始め、1649年8月にダブリンに上陸、続いてドロヘダ、ウェックスフォードを攻め、ドロヘダ攻城戦・ウェックスフォードの略奪などの戦闘を始め各地で住民の虐殺を行う︵クロムウェルのアイルランド侵略︶。アイルランドはクロムウェルの征服により、以後はイングランドの植民地的性格が強い土地となる。 1650年5月に後事を副官のアイアトンに託して帰英し、チャールズ1世の皇太子チャールズ︵後のチャールズ2世︶がスコットランドに上陸したのを討つため、7月にフェアファックスに代わり総司令官としてスコットランドに遠征︵第三次イングランド内戦︶、1650年9月3日のダンバーの戦いで王党派を蹴散らし、翌1651年9月3日のウスターの戦いでチャールズ率いるスコットランド軍も撃破、チャールズを大陸に追いやった。 1651年の﹁クロムウェル航海法﹂とよばれる航海条例の制定には、クロムウェル自身は関わっていない。しかしこれが議会を通過したことによってオランダの中継貿易を制限することになり、1652年の第一次英蘭戦争︵英蘭戦争︶の引き金になった。護国卿として
死後・評価
家族
1620年、ロンドンでエリザベス・バウチャーと結婚、9人の子を儲けた。- ロバート(1621年 - 1639年)
- オリバー(1622年 - 1644年)
- ブリジット(1624年 - 1662年) - ヘンリー・アイアトンと結婚、次いでチャールズ・フリートウッドと再婚
- リチャード(1626年 - 1712年) - 国会議員、護国卿
- ヘンリー(1628年 - 1674年) - アイルランド軍最高司令官
- エリザベス(1629年 - 1658年) - ジョン・クレイポールと結婚
- ジェームズ(1632年)
- メアリー(1637年 - 1713年)- フォーコンバーグ伯トマス・ベラシスと結婚
- フランシス(1638年 - 1720年) - ウォリック伯ロバート・リッチの同名の長男ロバート・リッチと結婚、次いで準男爵ジョン・ラッセルと再婚
脚注
関連項目
- ジョージ・フォックス
- サミュエル・モーランド
- ロイヤルメール
- クロムウェル (映画) (1970年 監督:ケン・ヒューズ)
- クロムウェル〜英国王への挑戦〜 (2003年 監督:マイク・バーカー)
- アムステルダム銀行
- クロムウェル巡航戦車 - 1943年に英国で開発された戦車。名称はクロムウェルに由来する
イングランド議会 (en) | ||
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先代 アーサー・メインウォリング ジョン・ゴールズバラ |
ハンティンドン選挙区選出庶民院議員 1628年 - 1629年 同職:ジェームズ・モンタギュー |
空位 1640年まで議会停会 次代の在位者 ロバート・バーナードウィリアム・モンタギュー |
空位 1629年から議会停会 最後の在位者 トマス・パーチェス |
ケンブリッジ選挙区選出庶民院議員 1640年 - 1653年 同職:トマス・ミューティス:1640年 ジョン・ローリー:1640年 - 1653年 |
空位 ベアボーンズ議会で代表者選出されず 次代の在位者 リチャード・ティムズ |
軍職 | ||
先代 トーマス・フェアファクス |
陸軍総司令官 1650年 - 1653年 |
空位 クロムウェルが護国卿に選出 次代の在位者 ジョージ・マンク |
公職 | ||
先代 オーモンド侯 |
アイルランド総督 (ロード・レフテナント) 1649年 - 1650年 |
次代 ヘンリー・アイアトン (ロード・デピュティ) |
先代 国務会議 |
イングランド、スコットランド及びアイルランド護国卿 1653年12月16日 - 1658年9月3日 |
次代 リチャード・クロムウェル |
先代 チャールズ1世 |
元首 1653年 - 1658年 |
次代 リチャード・クロムウェル |
学職 | ||
先代 ペンブルック伯 |
オックスフォード大学学長 1650年 - 1653年 |
次代 リチャード・クロムウェル |