ジェームズ2世 (イングランド王)
ジェームズ2世 / ジェームズ7世 James II / James VII | |
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イングランド国王 スコットランド国王 | |
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在位 | 1685年2月6日 - 1688年12月1日 |
戴冠式 | 1685年4月23日 |
別号 |
アイルランド王 グレートブリテン王(非公式) ノルマンディー公[1] |
出生 |
1633年10月24日 イングランド王国、セント・ジェームズ宮殿 |
死去 |
1701年9月16日 フランス王国、サン=ジェルマン=アン=レー城 |
埋葬 | フランス王国、サン=ジェルマン=アン=レー城 |
配偶者 | アン・ハイド |
メアリー・オブ・モデナ | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ステュアート家 |
王朝 | ステュアート朝 |
父親 | チャールズ1世 |
母親 | ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス |
サイン |
生涯[編集]
少年期[編集]
1633年、チャールズ1世とフランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアとの間に生まれた。兄にチャールズ2世、弟にグロスター公ヘンリー、姉にオランダ総督・オラニエ公ウィレム2世妃メアリー・ヘンリエッタ、妹にエリザベス、オルレアン公フィリップ1世妃ヘンリエッタ・アンがいる。フランス王ルイ14世は母方の従弟で、イングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世は甥に当たる。 1640年、7歳の時に清教徒革命︵イングランド内戦︶が始まると、一家で王党派の拠点オックスフォードに移り、その最中の1644年、11歳でヨーク公に叙された。内戦は国王側の敗北に終わり、オックスフォードも1646年に陥落した。ジェームズはセント・ジェームズ宮殿に監視つきで幽閉されたが、幾度も脱出を試みた。1648年、15歳のジェームズは長老派の一人コロネル・バンプフィールドの助力を得て、女装してオランダのハーグへと逃れた。 1649年に父は議会派に処刑され、王党派はジェームズの兄チャールズ2世を次期国王に推した。チャールズはスコットランドとアイルランドでは王として認められ、スコットランドのスクーンで1651年に戴冠した。しかし共和政イングランドはステュアート家を敵視しており、イングランド王位を得ることはかなわなかった。さらにオリバー・クロムウェルによってスコットランドは制圧され、ステュアート一族はフランスに亡命した。亡命時代[編集]
フランスに渡った後、ステュアート一家はヨーロッパ各地を転々とした。チャールズとジェームズの兄弟は、まずフランスでテュレンヌ将軍のもとで軍人として生計を立て、ジェームズはフロンドの乱でテュレンヌの軍に合流して反乱軍と戦った。続いてジェームズ23歳の1656年、2人は生活のためスペイン軍指揮官のコンデ公ルイ2世について各地を転戦、フランス・スペイン戦争でジェームズはスペイン領ネーデルラントでフランス軍と交戦、1658年の砂丘の戦いでコンデ公の軍に加わり、テュレンヌ率いるフランス軍と交戦した。テュレンヌやコンデ公は、ジェームズの軍人としての才能を高く評価している。 兄弟は復位の可能性を求めて列強の国々を巡ったが、三十年戦争などで疲弊したヨーロッパ諸国に兄弟を助ける余力などなく、むしろ護国卿政イングランドと友好関係を築こうとさえしていた。カトリック信仰[編集]
17世紀のイングランドにおいて、王がカトリックを信仰することは、イングランド固有の法と伝統の破壊者、そして絶対王政を布く暴君といった烙印を押されることを意味した。元々イングランド人はカトリックを好んでいなかったが[注釈 3]、ルイ14世のカトリック寄りの政策は、カトリックが王につくと議会・法を無視して絶対王政に走るという偏見を助長した。ジェームズがカトリックを信仰したことは当時のイングランドにとって由々しき問題であった。 ヨーク公ジェームズがカトリック信仰になったのは1668年から1669年、35歳前後のころと考えられている。このことはしばらく伏せられていたが、ジェームズの信仰に対する疑惑は次第に広がり、特に宮廷にカトリックの影響が及ぶことを懸念する声が高まった。反カトリック感情に押されて議会は1673年改正審査法を成立させ、文官・武官の役職につく者に以下の手続きを求めた。 (一)化体説を否認すること。(化体説とはカトリックの教理のひとつで、ぶどう酒とパンがキリストの血と体になるとするもの。) (二)宣誓においてカトリック教会を﹁迷信深く怠惰﹂であると明言すること。 (三)イングランド国教会の聖餐を受けること。 ジェームズは海軍総司令官の職を続けるにあたって、これらの手続きを求められ、拒絶して職を辞した。これによってジェームズのカトリック信仰は公然の秘密となった。 兄であり王であったチャールズ2世はジェームズの転向に反対し、ジェームズの子らをプロテスタントとして育てるように命じた。しかし一方で1673年、先妻を亡くしたジェームズ︵当時40歳︶の再婚相手にカトリックのメアリー・オブ・モデナを選ぶことを許した。イングランドの人々の間で、この新しいヨーク公夫人はローマ教皇の手先ではないかという噂が立った。 1677年︵ジェームズ44歳︶、ジェームズは長女のメアリー︵後のメアリー2世︶をプロテスタントの甥オラニエ公ウィレム3世︵後のウィリアム3世︶に娶せたが、これは国内の反カトリック圧力を受けてのことであった。こうした妥協にもかかわらず、チャールズ2世妃キャサリンが流産してジェームズの王位継承が現実味を帯びてくると、カトリックへの敵意は収まらなかった。1678年には陰謀の捏造騒ぎ︵カトリック陰謀事件︶がおこり、ロンドンは反カトリックの集団ヒステリー状態に陥った。議会ではジェームズの王位継承を阻もうとする王位排除法案が3度にわたって提出され上下両院で紛糾したが、チャールズ2世の機転でこの法案は廃案となった[注釈 4]。スコットランド統治[編集]
チャールズ2世はジェームズを守るため、このヒステリーが鎮まるまで1679年にネーデルラントのブリュッセルに逃れさせた。更に騒ぎの伝播していないスコットランドに移し、そこでローダーデイル公ジョン・メイトランドに代えて国王名代の地位に据えた。ジェームズはスコットランドで王位継承の根回しを進めるとともに、スコットランドでのジェームズの人気を確保した。一方で宗教弾圧も決行、長老派教会のカヴェナンターを弾圧している︵殺戮時代︶。 排除法案などを提出したのは元閣僚で反カトリック・反ジェームズの中心的人物であるシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーである。彼ら急進派︵後にホイッグと呼ばれる︶は、カトリック陰謀事件の熱もおさまって政治的攻勢をかけられなくなり、合法的な手段でジェームズの王位継承を阻止することが不可能と判断した。この当時、カトリックではあっても血筋正しいジェームズが王であるべきだという保守派︵後にトーリーと呼ばれ、ホイッグと並び二大政党制の基礎となる︶も少なからず存在した。 排除法案に対抗してチャールズ2世は2度にわたり議会を解散し、その後チャールズ2世の治世に議会が召集されることはなかった。こうした状況で急進派が打った手段がライハウス陰謀事件︵1683年︶で、チャールズ2世とジェームズ兄弟を一挙に暗殺する計画を立てた。この暗殺計画は未遂のうちに露見しホイッグの指導者層は処刑、シャフツベリ伯は1682年に別の陰謀発覚でネーデルラントに亡命し翌1683年に死去、一方のジェームズは1682年に帰国、1684年に海軍総司令官に復職した。国王ジェームズ7世および2世[編集]
議会との対立[編集]
名誉革命[編集]
ジャコバイトの王として[編集]
フランスに逃れたジェームズ2世は捲土重来を図って1689年3月、フランス軍を伴ってアイルランドに上陸した。スコットランドでは親ジェームズ2世のダンディー子爵ジョン・グラハムが反乱を起こして戦死したが、アイルランドではジャコバイトのティアコネル伯リチャード・タルボットとパトリック・サースフィールドらがジェームズ2世に協力、アイルランド議会はウェストミンスターの決定に従わず、ジェームズ2世が王であることを確認し、﹁信仰の自由に関する法[注釈 14]﹂を成立させた。かくしてジェームズ2世=カトリック勢力とウィリアム3世=プロテスタント勢力の戦い︵ウィリアマイト戦争︶が始まったが、ボイン川の戦いで敗れたジェームズ2世は敗残の味方たちを置き去りにしてフランスに逃れた。捨てられた側の兵士たちから不満が噴出し﹁くそったれのジェームズ︵Séamus á Chaca、"James the Shit"︶﹂というニックネームがつけられた。 アイルランドは1691年までにイングランド軍に平定され、スコットランドの反乱も鎮圧され、名誉革命政権は足場を固めた。大陸で起こった大同盟戦争でイングランド・オランダ同盟軍を率いるウィリアム3世と戦っていたルイ14世もジェームズ2世の支援を行おうとしたが、1692年のバルフルール岬とラ・オーグの海戦でフランス海軍が壊滅、イングランド遠征は失敗に終わった。 戦後、ジェームズ2世はフランスのサン=ジェルマン=アン=レー城に住むことを許され、1696年には王位奪還を狙ってウィリアム3世暗殺計画を立てたが失敗に終わった。ルイ14世はジェームズ2世にポーランド王位を用意したが、これを受諾することはイングランド王位を諦めることを意味すると考えたジェームズ2世は辞退し、ルイ14世との関係も冷えていった[注釈 15]。以後、ジェームズ2世は禁欲的な告解者として生活し、1701年9月16日に脳出血で死亡した。67歳であった。遺体はサン=ジェルマン=アン=レーに埋葬されている。遺したもの[編集]
次女アンはプロテスタント信仰で、1702年のウィリアム3世の死後に王位を継いだ︵メアリー2世は1694年に死去︶。1701年に制定された王位継承法は、アン亡き後にジェームズ老僭王︵カトリック信仰、ジャコバイトの王︶が王位を継ぐのを防ぐための法だった。これによってジェームズ老僭王は王位継承権を失い、代わってプロテスタントでジェームズ1世の女系の曾孫のハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ︵ジョージ1世︶が迎えられてハノーヴァー朝が成立することになった。 ジャコバイトの間ではジェームズ8世及び3世として知られるジェームズ老僭王は、たびたびジャコバイト運動を起こした。特に大規模だったのは、スコットランドで起こした1715年の反乱である。王位がステュアート朝からハノーヴァー朝に移り、情勢が不安定になったのを見て軍を起こしたが、結局鎮圧された。ジェームズ老僭王の息子チャールズ・エドワード︵チャールズ3世、チャールズ若僭王︶は、1745年のジャコバイト反乱を主導してイングランドを震撼させたが、スコットランドの反乱軍との連絡の不備もあってカロドン・ミュアの戦いで鎮圧された。若僭王の弟ヘンリー・ベネディクトは枢機卿となった。ジェームズの嫡系の子孫はヘンリー・ベネディクトが最後で、ヘンリーの死後は王位を主張しなくなった。現在に伝わる推定相続者はバイエルン公フランツで、ジャコバイトの間では﹁フランシス2世﹂と呼ばれている。 一方、ジェームズ2世はアラベラ・チャーチル︵サー・ウィンストン・チャーチルの娘でマールバラ公ジョン・チャーチルの姉︶との間に庶子ヘンリエッタを残しており、その家系はスペンサー伯爵家と婚姻を行いダイアナ元妃に至ることになった。そして1981年のダイアナとチャールズ3世の結婚、翌年のウィリアム王子の誕生により294年振りにジェームズ2世の血筋はイギリス王室に甦った。もう1人の庶子でヘンリエッタの弟ジェームズ・フィッツジェームズもフランスに帰化して、子孫はスペイン貴族とフランス貴族に叙爵、アルバ公位を受け継ぎ、現在に至る。子女[編集]
最初の妃アン・ハイドとの間に8人の子を儲けたが、2人の娘を除いて夭折した。 (一)チャールズ︵1660年 - 1661年︶ - ケンブリッジ公 (二)メアリー2世︵1662年 - 1694年︶ - イングランド・スコットランド・アイルランド女王、オランダ総督ウィリアム3世と結婚 (三)ジェームズ︵1663年 - 1667年︶ - ケンブリッジ公 (四)アン︵1665年 - 1714年︶ - イングランド・スコットランド・アイルランド女王、のち初代グレートブリテン女王、デンマーク・ノルウェー王子ジョージと結婚 (五)チャールズ︵1666年 - 1667年︶ - ケンダル公 (六)エドガー︵1667年 - 1671年︶ - ケンブリッジ公 (七)ヘンリエッタ︵1669年︶ (八)キャサリン︵1671年︶ 2番目の妃メアリー・オブ・モデナとの間に7人の子を儲けたが、2人の子を除いて夭折した。 (一)キャサリン・ローラ︵1675年 - 1676年︶ (二)イザベラ︵1676年 - 1681年︶ (三)チャールズ︵1677年︶ - ケンブリッジ公 (四)エリザベス︵1678年︶ (五)シャーロット・メアリー︵1682年︶ (六)ジェームズ・フランシス・エドワード︵1688年 - 1766年︶ - イングランド王位僭称者、﹁老僭王﹂ (七)ルイーザ・マリア・テレーザ︵1692年 - 1712年︶ 愛妾アラベラ・チャーチルとの間に4人の子を儲けた。 (一)ヘンリエッタ・フィッツジェームズ︵1667年 - 1730年︶ - ウォルドグレイヴ男爵ヘンリー・ウォルドグレイヴと結婚、ガルモエ子爵ピアズ・バトラーと再婚 (二)ジェームズ・フィッツジェームズ︵1670年 - 1734年︶ - ベリック公 (三)ヘンリー・フィッツジェームズ︵1673年 - 1702年︶ - アルベマール公 (四)アラベラ・フィッツジェームズ︵1674年 - 1704年︶ - 修道女 愛妾キャサリン・シードリーとの間に3人の子を儲けたが、1人を残して夭折した。 (一)キャサリン・ダーンリー︵1681年 - 1743年︶ - アングルシー伯ジェームズ・アンズリーと結婚、バッキンガム公ジョン・シェフィールドと再婚 (二)ジェームズ・ダーンリー︵1684年 - 1685年︶ (三)チャールズ・ダーンリー︵生没年不詳︶ - 夭折人物像[編集]
系譜[編集]
ジェームズ2世 | 父: チャールズ1世 (イングランド王) |
祖父: ジェームズ1世 (イングランド王) ジェームズ6世 (スコットランド王) |
曽祖父: ヘンリー・ステュアート[1] |
曽祖母: メアリー (スコットランド女王)[2] | |||
祖母: アン・オブ・デンマーク |
曽祖父: フレゼリク2世 (デンマーク王) | ||
曽祖母: メクレンブルク公女ゾフィ― | |||
母: ヘンリエッタ・マリア |
祖父: アンリ4世 (フランス王) |
曽祖父: アントワーヌ (ヴァンドーム公) | |
曽祖母: フアナ3世 (ナバラ女王)[3] | |||
祖母: マリー・ド・メディシス |
曽祖父: フランチェスコ1世・デ・メディチ | ||
曽祖母: ジョヴァンナ・ダズブルゴ |
系図[編集]
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| ウォルター・ステュアート |
| マージョリー・ブルース |
| デイヴィッド2世 |
| マーガレット・ドラモンド |
| ジョン・ドラモンド | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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エリザベス・ミュア |
| (1)ロバート2世 |
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| (2)ロバート3世 |
| アナベラ・ドラモンド |
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| (3)ジェームズ1世 |
| ジョーン・ボーフォート |
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| メアリー・オブ・グエルダース |
| (4)ジェームズ2世 |
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マーガレット・オブ・デンマーク |
| (5)ジェームズ3世 |
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| ヘンリー7世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| (6)ジェームズ4世 |
| マーガレット・テューダー |
| アーチボルド・ダグラス |
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| ヘンリー8世 |
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メアリー・オブ・ギーズ |
| (7)ジェームズ5世 |
| マーガレット・ダグラス |
| マシュー・ステュアート |
| メアリー1世 |
| エリザベス1世 |
| エドワード6世 |
| フランセス・ブランドン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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フランス王 フランソワ2世 |
| (8)メアリー1世 |
| ヘンリー・ステュアート |
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| ジェーン・グレイ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| (9,I)ジェームズ6世/1世 |
| アン・オブ・デンマーク | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス |
| (10,II)チャールズ1世 |
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| エリザベス (プファルツ選帝侯妃) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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キャサリン・オブ・ブラガンザ |
| (11,III)チャールズ2世 |
| メアリー・ヘンリエッタ |
| オラニエ公ウィレム2世 (オランダ総督) |
| アン・ハイド |
| (12,IV)ジェームズ7世/2世 |
| メアリー・オブ・モデナ |
| ヘンリエッタ・アン |
| オルレアン公 フィリップ1世 |
| ゾフィー (ハノーファー選帝侯妃) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| (庶子多数) |
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| (13,V)ウィリアム2世/3世 |
| (13,V)メアリー2世 | (14,VI)アン |
| ジョージ・オブ・デンマーク | ジェームズ (老僭王) |
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| (夭逝) |
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| チャールズ (若僭王) |
| ヘンリー・ベネディクト |
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- 凡例
歴史的評価[編集]
悪役としての250年[編集]
修正主義とミラーの伝記[編集]
1970年代に起こった歴史修正主義の隆盛は、歴史学を物語から学問に押し上げようとする動きでもあった。修正主義は、歴史の物語性や因果律を批判的に検討し、進歩史観の否定や歴史的偶発性の指摘を行った[注釈 16]。その流れの中で、名誉革命研究も新たな展開を見せることになった。次第にウィリアム3世の戦略的利己心やホイッグ急進派の実態などが明らかにされ、名誉革命は歴史的偉業から単なる宮廷クーデターに格下げされた。ジェームズ2世については﹁カトリック絶対王政を目指した専制君主﹂という像が真実だとすれば、カトリック陰謀事件などの騒動やジェームズ2世が国王に即位できた理由が説明できなくなる点などが指摘された。ジェームズ2世を支持した層が存在したことが明らかになり、歴史的悪役の枠内では捉えきれなくなりつつあった。そうした潮流のなかでジョン・ミラーが著した﹁James II﹂︵初版1978年︶は、現在もっとも評価の高い伝記である。 ミラーは、ジェームズ2世は絶対王政に憧れている面があったものの、それを実現する計画も努力もほとんどなく、むしろイングランドで信仰の自由──カトリックも含めて──を実現しようとしたにすぎない、と指摘した。論争[編集]
ミラーの伝記は従来のジェームズ2世観からすれば革命的な変化であり、ネオ=ホイッグとよばれる保守的な歴史家から批判が集中した。同様に伝記を出版したウィリアム・スペックは、ミラーの指摘を﹁まったく信用に値しない︵ultimately unconvincing︶﹂とこき下ろし、一方ミラーも﹁ビル・スペックは300年前と同じようなことをいまだに主張している﹂と応じている。ことジェームズ2世の評価に関する限り、ミラーの研究のほうが比較的広く受け入れられているが、ジェームズ2世の宗教観や政治思想などを詳細かつ広範にカバーした研究が望まれている。 日本のイギリス史研究でもミラーやスペックらの研究が受け入れられているが、ジェームズ2世についての新しい日本語文献はほとんど存在しない。これは日本の17~18世紀イギリス研究が、浜林正夫による名誉革命に関する著作が出て以降、経済史・社会史・民衆史およびイギリス帝国研究などに重点が移ってきていること、国王といえども個人の伝記は日本語訳されることがほとんどなかったこと、および英語で出版されたものを読めば足りるとされてきたこと、などの理由による。研究界の外では旧来のジェームズ2世=専制君主という構図が根強く残り、世界史の教科書などではホイッグ史観に基づく悪役像が反映されている。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ Weir, Alison (1996). 258. Britain's Royal Families: The Complete Genealogy. Revised Edition. Random House, London. ISBN 0-7126-7448-9
参考文献[編集]
関連項目[編集]
●ホリールード宮殿 ●セント・ジャイルズ大聖堂 ●シッスル勲章 ●ボストン暴動外部リンク[編集]
イングランド王室 | ||
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先代 チャールズ2世 |
イングランド王 スコットランド王 アイルランド王 1685年–1688年 |
空位 次代の在位者 ウィリアム3世・メアリー2世 |
請求称号 | ||
称号喪失 (名誉革命) |
— 名目上 — イングランド王(ジャコバイト) スコットランド王(ジャコバイト) アイルランド王(ジャコバイト) 1688年–1701年 |
次代 ジェームズ3世&ジェームズ8世(ジャコバイト) |
名誉職 | ||
先代 第3代ウィンチルシー伯爵 |
五港長官 1660年–1673年 |
次代 ジョン・ボーモント |
公職 | ||
空席 (最後の在任者) 初代コディントン男爵 |
イングランド海軍卿 1660年–1673年 |
次代 チャールズ2世 |
先代 第6代レノックス公爵 |
スコットランド海軍卿 1673年–1688年 |
空席 (次の在任者) ハミルトン公爵 |
先代 初代ローダーデイル公爵 |
スコットランド議会国王代理 1680年–1685年 |
次代 初代クイーンズベリー公爵 |
先代 チャールズ2世 |
海軍卿 1685年–1688年 |
次代 ウィリアム3世 |