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'''カール・フォン・エスターライヒ'''('''{{lang|de|Erzherzog Karl von Österreich, Herzog von Teschen}}''', [[1771年]][[9月5日]] - [[1847年]][[4月30日]])は、[[フランス革命戦争]]、[[ナポレオン戦争]]期に活躍した[[オーストリア帝国]]の軍人、皇族。[[チェシン公国|テシェン(チェシン)公]]。[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]とその皇后[[マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン|マリア・ルドヴィカ]]の三男。神聖ローマ皇帝[[フランツ2世]](オーストリア皇帝としてはフランツ1世)の弟。'''カール大公'''として知られる。
'''カール・フォン・エスターライヒ'''('''{{lang|de|Erzherzog Karl von Österreich, Herzog von Teschen}}''', [[1771年]][[9月5日]] - [[1847年]][[4月30日]])は、[[フランス革命戦争]]、[[ナポレオン戦争]]期に活躍した[[オーストリア帝国]]の軍人、皇族。[[チェシン公国|テシェン(チェシン)公]]。[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]とその皇后[[マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン|マリア・ルドヴィカ]]の三男。神聖ローマ皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)| フランツ2世]](オーストリア皇帝としてはフランツ1世)の弟。'''カール大公'''として知られる。
== 生い立ち ==
== 生い立ち ==
2022年5月28日 (土) 13:11時点における版
カ ー ル ・ フ ォ ン ・ エ ス タ ー ラ イ ヒ ︵ E r z h e r z o g K a r l v o n Ö s t e r r e i c h , H e r z o g v o n T e s c h e n , 1 7 7 1 年 9 月 5 日 - 1 8 4 7 年 4 月 30 日 ︶ は 、 フ ラ ン ス 革 命 戦 争 、 ナ ポ レ オ ン 戦 争 期 に 活 躍 し た オ ー ス ト リ ア 帝 国 の 軍 人 、 皇 族 。 テ シ ェ ン ︵ チ ェ シ ン ︶ 公 。 ハ プ ス ブ ル ク 家 の 神 聖 ロ ー マ 皇 帝 レ オ ポ ル ト 2 世 と そ の 皇 后 マ リ ア ・ ル ド ヴ ィ カ の 三 男 。 神 聖 ロ ー マ 皇 帝 フ ラ ン ツ 2 世 ︵ オ ー ス ト リ ア 皇 帝 と し て は フ ラ ン ツ 1 世 ︶ の 弟 。 カ ー ル 大 公 と し て 知 ら れ る 。
生 い 立 ち
青 年 期
父 レ オ ポ ル ト が 大 公 で あ っ た ト ス カ ー ナ 大 公 国 の フ ィ レ ン ツ ェ に 生 ま れ る 。 父 の は か ら い で カ ー ル は 子 供 の い な か っ た 伯 母 夫 婦 、 テ シ ェ ン ︵ チ ェ シ ン ︶ 女 公 マ リ ア ・ ク リ ス テ ィ ー ナ と テ シ ェ ン 公 ア ル ベ ル ト ・ カ ジ ミ ー ル の 養 子 と し て 、 ウ ィ ー ン で 育 て ら れ た 。 テ シ ェ ン 公 の 称 号 は の ち に 養 父 か ら 継 承 し た も の で あ る 。
幼 少 時 は 華 奢 な 体 格 で か つ 病 気 が ち だ っ た た め 、 あ ま り 将 来 を 見 込 ま れ て い な か っ た が 、 早 い う ち か ら 軍 事 に 関 心 を 示 し 、 幾 何 学 な ど の 本 格 的 な 学 問 に 親 し ん だ [ 1 ] 。
養 父 母 の 総 督 就 任 に 伴 い オ ー ス ト リ ア 領 ネ ー デ ル ラ ン ト へ 移 り 、 養 母 が 死 ん だ 1 7 9 3 年 か ら 後 任 の 総 督 を 務 め た 。
軍 歴
1 7 9 2 年 、 カ ー ル が 20 歳 の 時 に フ ラ ン ス と の 戦 い に 従 軍 す る 。 ホ ー エ ン ロ ー エ の 指 揮 下 で ジ ャ マ ッ プ の 戦 い に 参 加 し 、 デ ュ ム ー リ エ 将 軍 率 い る フ ラ ン ス 軍 と 戦 っ た 。 そ の 後 、 ザ ク セ ン = コ ー ブ ル ク 公 子 フ リ ー ド リ ヒ ・ ヨ シ ア ス の 軍 の 先 陣 と な り 、 フ ラ ン ス 軍 を 破 っ た ア ル デ ン ホ ー フ ェ ン と ネ ー ル ウ ィ ン デ ン の 戦 い で は 際 立 っ た 働 き を 見 せ た 。 ベ ル ギ ー を 再 度 フ ラ ン ス か ら 取 り 戻 し た 後 、 1 7 9 3 年 3 月 25 日 、 そ の 地 の 総 督 に 任 じ ら れ る 。 1 7 9 4 年 、 ラ ン ド ル シ ー 、 ト ゥ ル ネ 、 コ ル ト レ イ ク そ し て フ リ ュ ー ル ス の 戦 い で は 、 オ ー ス ト リ ア 軍 の 指 揮 の 一 部 を 担 っ た 。 フ ラ ン ス に オ ー ス ト リ ア 領 ネ ー デ ル ラ ン ト を 奪 わ れ た 後 、 彼 は 健 康 を 回 復 す る た め 軍 を 退 き ウ ィ ー ン へ 戻 っ た [ 2 ] 。
シ ュ ト ッ ク ア ハ の 戦 い
1 7 9 6 年 、 神 聖 ロ ー マ 帝 国 陸 軍 元 帥 の 肩 書 き の も と 、 ラ イ ン 方 面 軍 司 令 官 と し て 戦 場 に 復 帰 す る 。 そ し て ジ ュ ー ル ダ ン 将 軍 率 い る フ ラ ン ス 軍 に 対 し ノ イ マ ル ク ト 、 ダ イ ニ ン グ 、 ア ン ベ ル ク に て 連 勝 を 重 ね 、 さ ら に は ミ ュ ン ヘ ン ま で 進 軍 し て 来 た モ ロ ー 将 軍 を も 撤 退 に 追 い 込 ん だ 。 フ ラ ン ス 軍 は ラ イ ン 川 の 西 岸 ま で 押 し や ら れ 、 か ろ う じ て ユ ナ ン グ と ケ ー ル の 間 の 橋 を 保 持 す る の み だ っ た が 、 そ れ さ え も 翌 年 冬 に は カ ー ル 大 公 に よ っ て 攻 撃 さ れ 奪 わ れ る 。 こ の よ う に 彼 の 働 き に よ っ て オ ー ス ト リ ア 軍 の ド イ ツ 方 面 で の 戦 況 は 優 位 だ っ た が 、 イ タ リ ア で は ナ ポ レ オ ン 率 い る フ ラ ン ス 軍 が あ ら ゆ る 場 所 で 戦 勝 を 重 ね て お り 、 首 都 ウ ィ ー ン に も 迫 る 勢 い だ っ た 。 そ れ を 食 い 止 め る た め に カ ー ル 大 公 が 派 遣 さ れ る と 、 ナ ポ レ オ ン は カ エ サ ル の 言 葉 を 模 し て 、 ﹁ こ れ ま で 私 は 指 揮 官 の い な い 軍 隊 と 戦 っ て き た が 、 こ れ か ら は 軍 隊 の い な い 指 揮 官 と 戦 わ ね ば な ら な い ﹂ と 述 べ た と い う 。 1 7 9 7 年 4 月 18 日 、 カ ー ル 大 公 は 後 の カ ン ポ ・ フ ォ ル ミ オ の 和 約 の 前 提 と な る レ オ ー ベ ン 条 約 の 締 結 を 余 儀 な く さ れ る 。 そ の 後 し ば ら く の 間 、 ボ ヘ ミ ア 王 国 の 総 督 を 務 め た が 、 ラ シ ュ タ ッ ト 会 議 が 決 裂 し た た め 再 び 戦 場 へ 復 帰 す る と 、 ラ イ ン 川 を 渡 っ て 進 軍 し て き た ジ ュ ー ル ダ ン 率 い る フ ラ ン ス 軍 を オ ス ラ ッ ハ と シ ュ ト ッ ク ア ハ で 破 っ た 。 し か し 同 盟 国 ロ シ ア の 指 揮 官 た ち と の 意 見 対 立 は 、 彼 の 軍 事 作 戦 の 成 功 を 妨 げ た 。 ロ シ ア の コ ル サ コ フ 将 軍 が チ ュ ー リ ッ ヒ の 戦 い で マ ッ セ ナ 将 軍 の フ ラ ン ス 軍 に 敗 北 す る と 、 カ ー ル 大 公 は 再 度 ラ イ ン 川 方 面 を 防 衛 せ ね ば な ら な か っ た [ 3 ] 。
1 8 0 0 年 3 月 、 再 び 健 康 状 態 が 悪 化 し 、 カ ー ル 大 公 は 指 揮 権 を ク レ イ に 委 譲 す る と ボ ヘ ミ ア へ 帰 還 し た 。 ナ ポ レ オ ン が マ レ ン ゴ に 向 け ア ル プ ス を 越 え 、 モ ロ ー が ド イ ツ 方 面 に 進 軍 し て お り 、 帝 国 に と っ て 脅 威 が 迫 り つ つ あ っ た た め 、 カ ー ル 大 公 は 十 分 に 健 康 を 回 復 で き て い な か っ た が 軍 務 に 復 帰 す る 。 彼 が 結 ん だ シ ュ タ イ ア ー の 停 戦 は 、 後 の リ ュ ネ ヴ ィ ル の 和 約 の 前 提 と な る 。 カ ー ル 大 公 の 偉 大 な る 戦 果 は 大 い に 賞 賛 さ れ 、 神 聖 ロ ー マ 帝 国 宮 廷 顧 問 会 議 の 軍 事 首 席 に 任 命 さ れ る 。 ま た ド イ ツ 諸 邦 か ら な る 帝 国 会 議 は 彼 に ﹁ ド イ ツ の 救 世 主 ﹂ の 称 号 を 授 け よ う と し た が 、 彼 は そ れ ら の 栄 典 を 受 理 し な か っ た [ 4 ] 。
1 8 0 5 年 、 イ タ リ ア で オ ー ス ト リ ア 軍 を 率 い て マ ッ セ ナ と 対 峙 し 、 カ ル デ ィ エ ロ の 戦 い ︵ 10 月 29 日 - 3 0 日 ︶ で 勝 利 す る が 大 勢 は 変 わ ら ず 、 ナ ポ レ オ ン は ウ ル ム 戦 役 で 勝 利 す る と ウ ィ ー ン に 急 進 す る 。 ト ス カ ー ナ 大 公 フ ェ ル デ ィ ナ ン ド が ボ ヘ ミ ア へ 早 々 に 撤 退 し 、 ま た ア ウ ス テ ル リ ッ ツ の 戦 い で フ ラ ン ス 軍 に 敗 北 し た た め 、 皇 帝 フ ラ ン ツ 2 世 は プ レ ス ブ ル ク の 和 約 ︵ 12 月 25 日 ︶ の 締 結 を 強 い ら れ た [ 5 ] 。
カ ー ル 大 公 は 全 オ ー ス ト リ ア 軍 総 帥 な ら び に 陸 軍 大 臣 に 任 命 さ れ 、 そ の 大 権 を も っ て し て 、 帝 国 軍 の 再 組 織 と 予 備 軍 な ら び に 国 民 軍 の 強 化 に 取 り 組 む 。 1 8 0 8 年 、 ス ペ イ ン 国 王 カ ル ロ ス 4 世 が 退 位 さ せ ら れ た 後 、 カ タ ル ー ニ ャ と ア ラ ゴ ン の 両 地 方 は カ ー ル 大 公 を ス ペ イ ン と 西 イ ン ド の 王 座 に 招 請 し 、 移 送 の た め に イ ギ リ ス 軍 艦 さ え も ト リ エ ス テ へ 派 遣 さ れ た が 、 彼 は 謝 意 と 共 に そ れ を 断 っ た [ 6 ] 。
ワ グ ラ ム の カ ー ル 大 公
1 8 0 9 年 の 戦 役 で は 、 カ ー ル 大 公 は バ イ エ ル ン で 、 弟 の ヨ ハ ン 大 公 と 兄 の フ ェ ル デ ィ ナ ン ト 大 公 は そ れ ぞ れ イ タ リ ア と ポ ー ラ ン ド で 軍 を 指 揮 し た 。 カ ー ル は ラ テ ィ ス ボ ン に 急 進 し た が 、 ナ ポ レ オ ン が タ ン 、 ア ー ベ ン ス ベ ル ク 、 ラ ン ツ フ ー ト 、 エ ッ ク ミ ュ ー ル 、 そ し て ラ テ ィ ス ボ ン で 連 勝 し た た め 、 後 退 を 強 い ら れ る 。 し か し 新 た に 補 強 を 得 た こ と で 、 ウ ィ ー ン を 征 圧 し て い た ナ ポ レ オ ン を 5 月 21 日 か ら 22 日 に か け て の ア ス ペ ル ン ・ エ ス リ ン ク の 戦 い で 打 ち 破 っ た 。 勝 利 の 栄 光 は 長 く 続 か ず 、 7 月 5 日 か ら 6 日 か け て の ワ グ ラ ム の 戦 い で 敗 北 し 、 そ の 後 ズ ノ イ モ ま で 撤 退 戦 を 強 い ら れ る 。 シ ェ ー ン ブ ル ン の 和 約 後 の 休 戦 に よ っ て こ の 戦 役 は 終 わ り を 告 げ た 。 カ ー ル 大 公 は 傷 を 負 い 、 ま た 個 人 的 に 屈 辱 を 感 じ た こ と か ら 、 7 月 30 日 に 軍 隊 の 指 揮 と す べ て の 役 職 を 辞 す る と 、 チ ェ シ ン へ と 引 退 し 、 そ の 後 ウ ィ ー ン へ 帰 還 し た [ 7 ] 。
退 役 後
カ ー ル 大 公 の 騎 馬 像 ︵ ウ ィ ー ン ︶
ナ ポ レ オ ン が エ ル バ 島 を 脱 出 し た 際 に は 、 わ ず か な 期 間 に メ ン ツ の 総 督 を 務 め た が 、 そ れ を 最 後 に あ ら ゆ る 公 職 か ら 退 い た 。 引 退 後 は 軍 事 論 を 著 し て お り 、 主 な 著 作 に は 下 記 が 挙 げ ら れ る [ 8 ] 。
● G r u n d s ä t z e d e r S t r a t e g i e , e r l ä u t e r t d u r c h d i e D a r s t e l l u n g d e s F e l d z u g s v o n 1 7 9 6 i n D e u t s c h l a n d ︵ 全 3 巻 、 1 8 1 4 年 刊 行 ︶
● G e s c h i c h t e d e s F e l d z u g s v o n 1 7 9 9 i n D e u t s c h l a n d u n d d e r S c h w e i z ︵ 全 2 巻 、 1 8 1 9 年 刊 行 ︶
1 8 4 7 年 4 月 30 日 、 ウ ィ ー ン に て 死 去 す る 。 死 後 の 1 8 6 0 年 に 騎 馬 像 が ウ ィ ー ン に 建 立 さ れ た [ 9 ] 。
評 価
カ ー ル は 将 帥 と し て は ナ ポ レ オ ン に 一 歩 及 ば な か っ た 観 は あ る も の の 、 当 時 の ヨ ー ロ ッ パ に お け る 有 能 な 軍 人 の 一 人 と し て 評 価 さ れ て い る 。 ま た ク ラ ウ ゼ ヴ ィ ッ ツ 、 ジ ョ ミ ニ ら と 並 び 、 当 時 を 代 表 す る 軍 事 思 想 家 と し て も 知 ら れ て お り 、 多 く の 著 作 を 残 し て い る 。 系 統 的 に は 前 世 代 の 古 い 思 想 の 影 響 を 受 け て い る が 、 そ の 影 響 を 脱 し つ つ あ る 側 面 も あ り 、 古 い 戦 略 思 想 と 新 し い 戦 略 思 想 の 架 け 橋 的 な 存 在 と 位 置 づ け ら れ て い る 。 ア メ リ カ の マ ハ ン の 海 軍 戦 略 思 想 に 影 響 を 与 え た の は 、 ク ラ ウ ゼ ヴ ィ ッ ツ よ り も ジ ョ ミ ニ や カ ー ル 大 公 の 方 で あ っ た 。
カ ー ル 大 公
カ ー ル 大 公 の 戦 略 論 で は 慎 重 で あ る こ と を 重 大 事 と し て 説 い て お り 、 万 難 を 排 し て 守 備 に 努 め る 傾 向 は 、 受 け て 来 た 教 育 に よ る 偏 向 と も 言 え る が 、 彼 は 然 る べ き 状 況 が 来 た と 見 て と れ る ま で は 実 行 に 移 さ な か っ た 。 そ れ と 同 時 に 、 極 め て 攻 撃 的 な 戦 略 を 練 っ て 実 現 す る こ と も 可 能 で あ り 、 用 兵 の 戦 術 的 ス キ ル ︵ 例 え ば ヴ ュ ル ツ ブ ル ク や チ ュ ー リ ッ ヒ で 見 せ た よ う な 広 い 範 囲 で の 反 攻 作 戦 や ア ス ペ ル ン ・ エ ス リ ン ク や ワ グ ラ ム に お け る 大 軍 の 指 揮 ︶ は 、 確 実 に 彼 が 生 き た 時 代 の 上 位 の 指 揮 官 た ち に 引 け を 取 る こ と は な い 。 1 7 9 6 年 の 戦 役 は 申 し 分 の な い 出 来 と 見 な さ れ る 。 1 8 0 9 年 に 敗 北 を 喫 し た 要 因 の 一 部 は フ ラ ン ス と そ の 同 盟 軍 の 圧 倒 的 な 兵 力 の 優 位 性 で あ り 、 ま た 一 部 は 新 た に 再 組 織 さ れ た ば か り の オ ー ス ト リ ア 軍 の 状 態 に よ る 。 し か し 一 方 で 、 彼 が ア ス ペ ル ン ・ エ ス リ ン ク の 戦 い の 後 、 6 週 間 も 不 活 発 で い た こ と は 批 判 の 的 と な っ て き た [ 1 0 ] 。
軍 事 理 論 家 と し て の カ ー ル は 、 兵 法 の 進 化 の 過 程 の 中 で 重 要 な 存 在 と 位 置 づ け ら れ て お り 、 そ の 教 え の 重 み は 当 然 の ご と く 大 き い 。 し か し そ の 教 義 は 、 1 8 0 6 年 時 点 に お い て さ え 古 風 で あ る と 見 な さ れ て い た 。 慎 重 さ と ﹁ 戦 略 拠 点 ﹂ の 重 要 性 は 彼 の 学 説 に お い て 主 眼 を 置 か れ て い る 。 彼 の 地 理 的 戦 略 の 堅 実 さ は ﹁ 原 則 か ら 決 し て 離 れ な い ﹂ と い う 規 範 意 識 か ら く る も の だ ろ う 。 彼 は 軍 が 完 全 に 安 全 な 状 況 に 置 か れ て い る な ら ば 危 険 を 冒 す こ と は な い と 繰 り 返 し 助 言 し て い る が 、 こ の ル ー ル を 無 視 し て 1 7 9 6 年 の 戦 役 で は 輝 か し い 戦 果 を 挙 げ て い る [ 1 1 ] 。 ﹁ 戦 略 拠 点 は そ の 者 の 国 の 運 命 を 決 す る も の で 、 将 帥 は 常 に 主 に 神 経 を 配 ら ね ば な ら な い ﹂ と 彼 は ︵ 敵 軍 を 打 ち 負 か す こ と よ り も ︶ 重 視 し て 述 べ て い る 。 カ ー ル 大 公 の 著 作 の 編 集 者 た ち は 良 い 仕 事 を し て い る が 、 ク ラ ウ ゼ ヴ ィ ッ ツ の ﹁ カ ー ル 大 公 は 敵 の 殲 滅 よ り も 保 全 に 価 値 を 置 い て い る ﹂ と の 非 難 に 対 し て 説 得 力 の あ る 抗 弁 が で き て い な い 。 戦 術 に 関 す る 著 作 に お い て も こ の 精 神 は 顕 著 に 見 え る 。 彼 に と っ て 予 備 兵 の 存 在 は ﹁ 退 却 を 援 護 す る ﹂ も の と し て 意 図 さ れ て い る [ 1 2 ] 。
こ れ ら の 古 風 な 原 則 が も た ら す 弊 害 は 、 1 8 6 6 年 の 普 墺 戦 争 中 の ケ ー ニ ヒ グ レ ー ツ ・ ヨ ー ゼ フ シ ュ タ ッ ト の 戦 い で オ ー ス ト リ ア 軍 が ﹁ 戦 略 拠 点 ﹂ を 堅 持 し て 、 自 軍 を 分 割 し て プ ロ イ セ ン 軍 に 攻 撃 を 仕 掛 け 、 結 果 敗 北 し た こ と に 明 示 さ れ る 。 こ の 奇 妙 な 作 戦 は ウ ィ ー ン の 中 枢 に て 1 8 5 9 年 の 戦 役 の た め に 考 案 さ れ 、 同 年 の ﹁ 全 く も っ て 理 解 し が た い ﹂ モ ン テ ベ ロ の 戦 い で も 実 行 さ れ た [ 1 3 ] 。
カ ー ル 大 公 の 理 論 と 実 践 は 、 軍 事 史 の 中 で 最 も 不 思 議 な コ ン ト ラ ス ト を 描 い て い る 。 時 に は 非 現 実 的 、 時 に は 勇 壮 、 卓 越 し た ス キ ル と 鮮 や か な 動 き で も っ て し て 、 彼 は 長 き に わ た っ て ナ ポ レ オ ン の 最 も 強 固 な 対 抗 者 と な っ た [ 1 4 ] 。
家 族
カ ー ル 大 公 一 家 ︵ 1 8 3 2 年 画 、 軍 事 博 物 館 収 蔵 ︶
長 女 マ リ ア ・ テ レ ジ ア が カ ー ル に 寄 り 添 い 、 妃 ヘ ン リ エ ッ テ ︵ 故 人 ︶ は 左 奥 の 胸 像
ウ ィ ー ン 会 議 が 終 わ っ た 後 の 1 8 1 5 年 9 月 、 ナ ッ サ ウ = ヴ ァ イ ル ブ ル ク 侯 フ リ ー ド リ ヒ ・ ヴ ィ ル ヘ ル ム の 娘 ヘ ン リ エ ッ テ ・ ア レ ク サ ン ド リ ー ネ と ウ ィ ー ン で 結 婚 し た 。 2 人 の 間 に は 5 男 2 女 が 生 ま れ た 。
脚注
出典
^ Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308
^ Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308
^ Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308
^ Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308
^ Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308
^ Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308
^ Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308
^ Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308
^ Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308
^ Chisholm, H.(Eds)(1911).pp.935
^ Chisholm, H.(Eds)(1911).pp.935
^ Chisholm, H.(Eds)(1911).pp.936
^ Chisholm, H.(Eds)(1911).pp.936
^ Chisholm, H.(Eds)(1911).pp.936
参考文献
Chisholm, H.(Eds)(1911).The Encyclopædia Britannica Eleventh Edition /Charles (Archduke of Austria), Cambridge University Press, Cambridge.pp.935-936
Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879). The American Cyclopædia /Charles (Archduke) ,D. Appleton and Company, New York.pp.308-309