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| Occupation = [[指揮者]]・ピアニスト

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''''''''George Szell'' ''Széll György'' ''György Endre Szél''''Georg Szell''[[1897]][[67]] - [[1970]][[730]][[]][[]][[]][[ ()|]][[]]

''''''George Szell[[1897]][[67]] - [[1970]][[730]][[]][[]][[]][[ ()|]][[]]Széll GyörgyGyörgy Endre SzélGeorg Szell


== 生涯 ==

== 生涯 ==


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1960年代には[[ウィーン]]、[[ベルリン]]、[[ロンドン]]などでも客演指揮を行なった。[[1970年]][[5月13日]]から[[5月27日]]にかけてクリーヴランド管弦楽団とともに[[日本万国博覧会]]を記念した企画の一環として来日公演を行い、日本でも極めて高い評価を受け、多くの聴衆に感銘を与えたが、帰国後まもなく[[多発性骨髄腫]]のため急逝した。

1960年代には[[ウィーン]]、[[ベルリン]]、[[ロンドン]]などでも客演指揮を行なった。[[1970年]][[5月13日]]から[[5月27日]]にかけてクリーヴランド管弦楽団とともに[[日本万国博覧会]]を記念した企画の一環として来日公演を行い、日本でも極めて高い評価を受け、多くの聴衆に感銘を与えたが、帰国後まもなく[[多発性骨髄腫]]のため急逝した。



== 芸風 ==

== 芸風 ==


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反面、あまりに精密な演奏と禁欲的で客観的な演奏はしばしば冷たいと評されることもあり、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]や[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]などの演奏でそうした批判も聴かれた。は良くも悪くも「完璧主義者」と評されることがしばしばある。

反面、あまりに精密な演奏と禁欲的で客観的な演奏はしばしば冷たいと評されることもあり、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]や[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]などの演奏でそうした批判も聴かれた。セルは良くも悪くも「完璧主義者」と評されることがしばしばある。



== レコーディング ==

== 録音 ==

セルは戦前から没年まで幅広くレコーディング活動を行った。

セルは戦前から没年まで幅広くレコーディング活動を行った。



=== 戦前期 ===

=== 戦前期 ===

戦前に行われた主な録音は以下のとおりである。

戦前に行われた主な録音は以下のとおりである。

*[[ヨハン・シュトラウス]]:「[[皇帝円舞曲]]」(ウィーン・フィル)

*[[ヨハン・シュトラウス2世]]:「[[皇帝円舞曲]]」(ウィーン・フィル)

*ドヴォルザーク:[[チェロ協奏曲 (ドヴォルザーク)|チェロ協奏曲]]([[パブロ・カザルス]]、[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団|チェコ・フィル]])

*[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]:[[チェロ協奏曲 (ドヴォルザーク)|チェロ協奏曲]]([[パブロ・カザルス]]、[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団|チェコ・フィル]])

*[[エドゥアール・ラロ|ラロ]]:「[[スペイン交響曲]]」:([[ブロニスワフ・フーベルマン]]、ウィーン・フィル)

*[[エドゥアール・ラロ|ラロ]]:「[[スペイン交響曲]]」:([[ブロニスワフ・フーベルマン]]、ウィーン・フィル)

*ドヴォルザーク:[[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|交響曲第9番「新世界」]](チェコ・フィル)

*ドヴォルザーク:[[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|交響曲第9番「新世界」]](チェコ・フィル)

しかし、戦前期においては往年の巨匠がひしめき合っており、新進の若手であったセルの評価は必ずしも高くはなかった。「新世界」については、雑誌『ディスク』昭和14年1月号で次のように評価されている。<br>

しかし、戦前期においては往年の巨匠がひしめき合っており、新進の若手であったセルの評価は必ずしも高くはなかった。「新世界」については、雑誌『ディスク』昭和14年(1939年)1月号で次のように評価されている。

:''今回のものはその指揮に於て何の特色も、また、洗練された仕上げもなく、甚だ平凡であり、オーケストラも欧米に於ては二流どころもしくは第三流に下るかも知れない程度の素質で、甚だふるはない。唯、生真面目な演奏と素朴なる指揮を多とするにすぎない。''

{{Quote|今回のものはその指揮に於て何の特色も、また、洗練された仕上げもなく、甚だ平凡であり、オーケストラも欧米に於ては二流どころもしくは第三流に下るかも知れない程度の素質で、甚だふるはない。唯、生真面目な演奏と素朴なる指揮を多とするにすぎない。}}



=== 戦後期 ===

=== 戦後期 ===


[[]]EMI[[8 ()|8調88]][[8 ()|9調]][[ ()|]][[]][[]][[|]][[|R.]][[|]][[|]][[]][[]][[1 ()|1]][[1949]]<br>

[[]]EMI[[8 ()|8]][[8 ()|調]][[ ()|]][[ ()|]][[]][[]][[|]][[|R.]][[|]][[|]]44

ちなみに、手兵のクリーヴランド管とのレコーディングは[[ステレオ]]時代のものは数多くリリースされているが、モノラル時代のものは意外と少ない。しかし、その数少ないクリーヴランド管のモノラル録音に、セルの管弦楽編曲による[[ベドルジハ・スメタナ]]の[[弦楽四重奏曲第1番 (スメタナ)|弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」]]([[1949年]])が残されている。


一般に、「セルの演奏=完璧だが冷たい」のイメージが定着したのはこの時期である。

一般に、「セルの演奏=完璧だが冷たい」のイメージが定着したのはこの時期である。



=== ライヴ録音 ===

=== ライヴ録音 ===


[[]]CD[[1954]][[617]]ORFEO[[1958]][[88]][[|]]ORFEO

[[]]CD[[1954]][[617]][[1958]][[88]][[|]]


== ザルツブルク音楽祭とセル ==

== ザルツブルク音楽祭とセル ==

前述のように、第二次世界大戦後はアメリカを本拠としたセルであったが、それでも毎シーズンヨーロッパに戻って客演指揮活動を行っていた。その中でも、[[1949年]]に初出演したザルツブルク音楽祭とは亡くなる前年の[[1969年]]までほぼ密接な関係を続けた。1949年は恩師であるリヒャルト・シュトラウスの「[[ばらの騎士]]」などを指揮した。リヒャルト・シュトラウスはこの時、ウィーン・フィルを通じてセルにプライヴェートな手紙を託していたが、音楽祭終了後の[[9月8日]]に死去した。その後もオペラ、オーケストラ双方で活躍した。<br>


[[1949]][[1969]]1949[[]][[98]]

なお、ザルツブルク音楽祭での一連のオペラ指揮が、セルにとってオペラを指揮する最後となった。

なお、ザルツブルク音楽祭での一連のオペラ指揮が、セルにとってオペラを指揮する最後となった。



;ザルツブルク音楽祭でのセルの演奏曲目(1995年発売のCD『ザルツブルク音楽祭のセル』などに基づく)

;ザルツブルク音楽祭でのセルの演奏曲目

:(1995年発売のCD『ザルツブルク音楽祭のセル』などに基づく)

*1949年

*1949年

:リヒャルト・シュトラウス:「ばらの騎士」

*:リヒャルト・シュトラウス:「ばらの騎士」

:ウィーン・フィル:ハイドン/[[交響曲第92番 (ハイドン)|交響曲第92番「オックスフォード」]]、R・シュトラウス/「[[ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら]]」、シューベルト/[[交響曲第7番 (シューベルト)|交響曲第8番「未完成」]]

*:ウィーン・フィル:ハイドン/[[交響曲第92番 (ハイドン)|交響曲第92番「オックスフォード」]]、R・シュトラウス/「[[ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら]]」、シューベルト/[[交響曲第7番 (シューベルト)|交響曲第8番「未完成」]]

*1952年

*1952年

:ウィーン・フィル:ベートーヴェン/[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番「田園」]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]/[[交響曲第1番 (ブラームス)|交響曲第1番]]

*:ウィーン・フィル:ベートーヴェン/[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番「田園」]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]/[[交響曲第1番 (ブラームス)|交響曲第1番]]

*1954年

*1954年

:[[ロルフ・リーバーマン]]:「ペネロペ」(世界初演)

*:[[ロルフ・リーバーマン]]:「ペネロペ」(世界初演)

:ウィーン・フィル:ハイドン/[[交響曲第93番 (ハイドン)|交響曲第93番]]、[[ボリス・ブラッハー|ブラッハー]]/パガニーニの主題による変奏曲、ブラームス/[[交響曲第4番 (ブラームス)|交響曲第4番]]

*:ウィーン・フィル:ハイドン/[[交響曲第93番 (ハイドン)|交響曲第93番]]、[[ボリス・ブラッハー|ブラッハー]]/パガニーニの主題による変奏曲、ブラームス/[[交響曲第4番 (ブラームス)|交響曲第4番]]

*1955年

*1955年

:[[ヴェルナー・エック]]:「アイルランドの伝説」(世界初演)

*:[[ヴェルナー・エック]]:「アイルランドの伝説」(世界初演)

*1956年

*1956年

:モーツァルト:「[[後宮からの誘拐]]」

*:モーツァルト:「[[後宮からの誘拐]]」

:ウィーン・フィル:モーツァルト/[[交響曲第40番 (モーツァルト)|交響曲第40番]]、[[ピアノ協奏曲第23番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第23番]](セル)、[[交響曲第41番 (モーツァルト)|交響曲第41番「ジュピター」]]

*:ウィーン・フィル:モーツァルト/[[交響曲第40番 (モーツァルト)|交響曲第40番]]、[[ピアノ協奏曲第23番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第23番]](セル)、[[交響曲第41番 (モーツァルト)|交響曲第41番「ジュピター」]]

*1957年

*1957年

:リーバーマン:「女の学校」(ドイツ語版初演)

*:リーバーマン:「女の学校」(ドイツ語版初演)

:ベルリン・フィル:モーツァルト/[[交響曲第29番 (モーツァルト)|交響曲第29番]]、[[ピアノ協奏曲第25番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第25番]]([[レオン・フライシャー]])、交響曲第40番

*:ベルリン・フィル:モーツァルト/[[交響曲第29番 (モーツァルト)|交響曲第29番]]、[[ピアノ協奏曲第25番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第25番]]([[レオン・フライシャー]])、交響曲第40番

*1958年

*1958年

:8月6日/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団:モーツァルト/[[交響曲第33番 (モーツァルト)|交響曲第33番]]、[[ピアノ協奏曲第9番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第9番「ジュノーム」]]([[ルドルフ・フィルクスニー]])、交響曲第41番「ジュピター」

*:8月6日/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団:モーツァルト/[[交響曲第33番 (モーツァルト)|交響曲第33番]]、[[ピアノ協奏曲第9番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第9番「ジュノーム」]]([[ルドルフ・フィルクスニー]])、交響曲第41番「ジュピター」

:8月8日/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団:[[ゴットフリート・フォン・アイネム|アイネム]]/バラード(ヨーロッパ初演)、[[ウィリアム・ウォルトン|ウォルトン]]/パルティータ(ヨーロッパ初演)、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]/[[交響曲第5番 (プロコフィエフ)|交響曲第5番]]

*:8月8日/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団:[[ゴットフリート・フォン・アイネム|アイネム]]/バラード(ヨーロッパ初演)、[[ウィリアム・ウォルトン|ウォルトン]]/パルティータ(ヨーロッパ初演)、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]/[[交響曲第5番 (プロコフィエフ)|交響曲第5番]]

*1959年

*1959年

:モーツァルト:「[[魔笛]]」

*:モーツァルト:「[[魔笛]]」

:8月3日/[[フランス国立管弦楽団|フランス国立放送管弦楽団]]:モーツァルト/[[交響曲第35番 (モーツァルト)|交響曲第35番「ハフナー」]]、[[ヴァイオリン協奏曲第5番 (モーツァルト)|ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」]]([[エリカ・モリーニ]])、ハイドン/交響曲第92番「オックスフォード」

*:8月3日/[[フランス国立管弦楽団|フランス国立放送管弦楽団]]:モーツァルト/[[交響曲第35番 (モーツァルト)|交響曲第35番「ハフナー」]]、[[ヴァイオリン協奏曲第5番 (モーツァルト)|ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」]]([[エリカ・モリーニ]])、ハイドン/交響曲第92番「オックスフォード」

*1961年

*1961年

:[[シュターツカペレ・ドレスデン]]:ベートーヴェン/「[[コリオラン]]」序曲、[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番「皇帝」]]([[ニキタ・マガロフ]])、[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]

*:[[シュターツカペレ・ドレスデン]]:ベートーヴェン/「[[コリオラン]]」序曲、[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番「皇帝」]]([[ニキタ・マガロフ]])、[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]

*1963年

*1963年

:8月4日/チェコ・フィル:ベートーヴェン/「[[エグモント (劇音楽)|エグモント]]序曲、[[ピアノ協奏曲第3番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第3番]](フィルクスニー)、[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番「英雄」]]

*:8月4日/チェコ・フィル:ベートーヴェン/「[[エグモント (劇音楽)|エグモント]]序曲、[[ピアノ協奏曲第3番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第3番]](フィルクスニー)、[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番「英雄」]]

*1964年

*1964年

:8月10日/ベルリン・フィル:[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]/「アルチェステ」序曲、モーツァルト/[[ピアノ協奏曲第27番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第27番]]([[クリフォード・カーゾン]])、R・シュトラウス/「[[家庭交響曲]]」

*:8月10日/ベルリン・フィル:[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]/「アルチェステ」序曲、モーツァルト/[[ピアノ協奏曲第27番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第27番]]([[クリフォード・カーゾン]])、R・シュトラウス/「[[家庭交響曲]]」

*1965年

*1965年

:8月2日/シュターツカペレ・ドレスデン:ベートーヴェン/「エグモント」序曲、[[ピアノ協奏曲第4番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第4番]](カーゾン)、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]/[[交響曲第3番 (ブルックナー)|交響曲第3番(1889年稿)]]<ref>セルはこの演奏では基本的に1889年稿に基づいた楽譜を使用しているが、藤田由之の指摘では「エーザー版からも示唆を得、さらにまた、一部で独自のオーケストラ処理も見せている」としている。</ref>

*:8月2日/シュターツカペレ・ドレスデン:ベートーヴェン/「エグモント」序曲、[[ピアノ協奏曲第4番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第4番]](カーゾン)、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]/[[交響曲第3番 (ブルックナー)|交響曲第3番(1889年稿)]]<ref>セルはこの演奏では基本的に1889年稿に基づいた楽譜を使用しているが、藤田由之の指摘では「エーザー版からも示唆を得、さらにまた、一部で独自のオーケストラ処理も見せている」としている。</ref>

*1966年

*1966年

:ベルリン・フィル:[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]/「[[魔弾の射手]]」序曲、モーツァルト/[[ピアノ協奏曲第24番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第24番]]([[ロベール・カサドシュ]])、ベートーヴェン/交響曲第6番「田園」

*:ベルリン・フィル:[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]/「[[魔弾の射手]]」序曲、モーツァルト/[[ピアノ協奏曲第24番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第24番]]([[ロベール・カサドシュ]])、ベートーヴェン/交響曲第6番「田園」

*1967年

*1967年

:クリーヴランド管弦楽団:ウェーバー/「オベロン」序曲、R・シュトラウス/交響詩「[[ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン]]」、ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」

*:クリーヴランド管弦楽団:ウェーバー/「[[オベロン (オペラ)|オベロン]]」序曲、R・シュトラウス/交響詩「[[ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン]]」、ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」

:クリーヴランド管弦楽団:ブラームス/[[交響曲第2番 (ブラームス)|交響曲第2番]]、モーツァルト/交響曲第40番、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]/「[[ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ第2組曲]]」

*:クリーヴランド管弦楽団:ブラームス/[[交響曲第2番 (ブラームス)|交響曲第2番]]、モーツァルト/交響曲第40番、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]/「[[ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ第2組曲]]」

*1968年

*1968年

:ベルリン・フィル:ハイドン/交響曲第93番、モーツァルト/交響曲第29番、ベートーヴェン/[[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|交響曲第8番]]

*:ベルリン・フィル:ハイドン/交響曲第93番、モーツァルト/交響曲第29番、ベートーヴェン/[[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|交響曲第8番]]

:8月21日/ウィーン・フィル:ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(カーゾン)、ブルックナー/[[交響曲第7番 (ブルックナー)|交響曲第7番]]

*:8月21日/ウィーン・フィル:ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(カーゾン)、ブルックナー/[[交響曲第7番 (ブルックナー)|交響曲第7番]]

*1969年

*1969年

:8月24日/ウィーン・フィル:ベートーヴェン/「エグモント」序曲、ピアノ協奏曲第3番([[エミール・ギレリス]])、交響曲第5番

*:8月24日/ウィーン・フィル:ベートーヴェン/「[[エグモント (劇音楽)|エグモント]]」序曲、ピアノ協奏曲第3番([[エミール・ギレリス]])、交響曲第5番



== 作曲 ==

== 作曲 ==

若いころは作曲家としても活躍していたが、現在はほとんどの作品が忘れ去られている。

若いころは作曲家としても活躍していたが、現在はほとんどの作品が忘れ去られている。日本のピアニスト[[白石光隆]]によって、『3つの小品』という作品のみが録音されている。



渡米して間もないころ、自作の交響曲を指揮したことがある。

日本のピアニスト[[白石光隆]]によって、『3つの小品』という作品のみが録音されている。


渡米して間もないころ、自作の交響曲を自ら指揮したことがある。



== 逸話 ==

== 逸話 ==


* 12/3

* 12/3

*[[]][[NBC]]

*[[NBC]]!

*[[リヒャルト・シュトラウス]]の曲の録音に際して、作曲者が遅刻したためセルが替わりにタクトをふった。後半部にシュトラウスが来て振ったが、できあがった音は全くの破たんがなく、シュトラウスは「このままでよい」と感心した。

*[[リヒャルト・シュトラウス]]の曲の録音に際して、作曲者が遅刻したためセルが替わりに指揮した。後半部にシュトラウスが来て振ったが、できあがった音は全くの破がなく、シュトラウスは「このままでよい」と感心した。

*セルの厳しいトレーニングはプラハ時代から行われていて、名歌手[[キルステン・フラグスタート]]は来演の際、あまりのスパルタぶりに舞台に上がるのが怖くなったという。

*セルの厳しいトレーニングはプラハ時代から行われていて、名歌手[[キルステン・フラグスタート]]は来演の際、あまりのスパルタぶりに舞台に上がるのが怖くなったという。

* 来日公演には作曲家の[[ピエール・ブーレーズ]]が同行し、回公演を受け持った。病状の進行を知っていた(とされる)セルも同意して、いざとなれば代役も務めるりであった可能性もある。ブーレーズはクリーヴランドでストラヴィンスキーの[[春の祭典]]などの録音を行っており、馴染みの指揮者であったばかりか、完璧主義者という点でも価値観をともにしていたという。


* [[]]3[[|]][[]]

* セルはピアニストの[[ルドルフ・ゼルキン]]と音楽院時代の学友で、クリーヴランド時代も何度か共演を行った。レコードでもブラームスの2曲のピアノ協奏曲の録音がある。しかし、[[1968年]]に行われたブラームスの[[ピアノ協奏曲第1番 (ブラームス)|ピアノ協奏曲第1番]]のレコーディングでは意見が合わず、そのレコーディングが2人の最後の顔合わせとなってしまった。

* セルはピアニストの[[ルドルフ・ゼルキン]]と音楽院時代の学友で、クリーヴランド時代も何度か共演を行った。レコードでもブラームスの2曲のピアノ協奏曲の録音がある。しかし、[[1968年]]に行われたブラームスの[[ピアノ協奏曲第1番 (ブラームス)|協奏曲第1番]]のレコーディングでは意見が合わず、そのレコーディングが2人の最後の顔合わせとなった。

* セル自身優れたピアニストでもあり、[[ブダペスト弦楽四重奏団]]員(ヴァイオリン:ジョゼフ・ロイスマン、ヴィオラ:ボリス・クロイト、チェロ:ミッシャ・シュナイダー)とモーツァルトの[[ピアノ四重奏曲]]2曲(ピアノ四重奏曲第1番ト単調K.478、ピアノ四重奏曲第2変ホ長調K.493)の録音があった。その演奏は彼の指揮スタイルを彷彿とさせるものだった。


* [[]]:::[[]]2[[1 ()|K.478]][[1 ()|K.493]]彿

* [[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]はセルを非常に尊敬していた。しかし実際に顔をあわせると身長の差(セルは10cm以上身長が高く182cmあった)もあって緊張し、セルがカラヤンに意見を求めてもカラヤンは「はい、マエストロ」と小声で言うのが精一杯だったという。また、1967年のザルツブルク音楽祭にクリーヴランド管を引き連れて出演した際、カラヤンにもクリーヴランド管を指揮させている(この組み合わせは、同年の[[ルツェルン音楽祭]]でも公演している)。

* [[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]はセルを非常に尊敬していた。しかし実際に顔をあわせると身長の差(セルは10cm以上身長が高く182cmあった)もあって緊張し、セルがカラヤンに意見を求めてもカラヤンは「はい、マエストロ」と小声で言うのが精一杯だったという。また、1967年のザルツブルク音楽祭にクリーヴランド管を引き連れて出演した際、カラヤンにもクリーヴランド管を指揮させている(この組み合わせは、同年の[[ルツェルン音楽祭]]でも公演している)。

*相当な美食家でもあり、特に[[ワイン]]に関する知識についてはウォルトンが舌を巻くほどだったという。

*相当な美食家でもあり、特に[[ワイン]]に関する知識については[[ウィリアム・ウォルトン]]が舌を巻くほどだったという。

*ニューヨークの[[マネス音楽大学]]で教鞭を執ったこともある。教え子には[[ジョージ・ロックバーグ]]、[[ジェームズ・レヴァイン]]、マイケル・チャリーなどがいる。

*ニューヨークの[[マネス音楽大学]]で教鞭を執ったこともある。教え子には[[ジョージ・ロックバーグ]]、[[ジェームズ・レヴァイン]]、マイケル・チャリーなどがいる。

*音楽だけでなく、良い環境を求めて、プログラムの書き方やコンサート案内のやり方、果ては舞台のワックスのかけ方にまで注文を出した。とくに演奏会場のセヴェランスホールの音響の改善には力を入れ、理事会に働きかけるや、建築の専門家や同じ音響にうるさい[[ストコフスキー]]などと論議し、分厚いカーペットや豪華な内装を実用本位のそれに替えてしまった。こうして1958年に改装されたホールは見た目は無機質なものになったが、その分最高の音響が醸し出され第一級のスタジオとしても使用できるほど面目を一新した。


*[[|]]1958使


== 脚注 ==

== 脚注 ==

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== 参考文献 ==

== 参考文献 ==

*三浦淳史「ジョージ・セル 完全主義者であり無用の装飾をかなぐり捨てた古典主義者」『クラシック 不滅の巨匠たち』音楽之友社、1993年

*[[三浦淳史]]「ジョージ・セル 完全主義者であり無用の装飾をかなぐり捨てた古典主義者」『クラシック 不滅の巨匠たち』音楽之友社、1993年

*浅里公三「ザルツブルク音楽祭のジョージ・セル」『モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*[[浅里公三]]「ザルツブルク音楽祭のジョージ・セル」『モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*藤田由之「このディスクによせて」『ブルックナー:交響曲第3番ニ短調 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*[[藤田由之]]「このディスクによせて」『ブルックナー:交響曲第3番ニ短調 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*吉井亜彦「セルのモーツァルトについて」『モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*[[吉井亜彦]]「セルのモーツァルトについて」『モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*柴田龍一「このアルバムのこと」『ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*[[柴田龍一]]「このアルバムのこと」『ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*歌崎和彦『証言/日本洋楽レコード史(戦前編)』音楽之友社、1998年。

*[[歌崎和彦]]『証言/日本洋楽レコード史(戦前編)』音楽之友社、1998年。

*満津岡信育「海外盤試聴記 比類のないバランス感覚 セルのザルツブルク音楽祭ライヴ」『レコード芸術2007年12月号音楽之友社、2007年

*[[満津岡信育]]「海外盤試聴記 比類のないバランス感覚 セルのザルツブルク音楽祭ライヴ」『レコード芸術2007年12月号 音楽之友社、2007年

*山田真一「オーケストラ大国アメリカ」集英社文庫0589F 集英社 2011年

*[[山田真一]]「オーケストラ大国アメリカ」集英社文庫0589F 集英社 2011年



{{ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団首席指揮者|1937-1939}}

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{{クリーヴランド管弦楽団指揮者}}

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{{ニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督}}

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[[Category:ハンガリーの指揮者]]

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[[Category:アメリカ合衆国の指揮者]]

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2016年1月16日 (土) 12:40時点における版

ジョージ・セル
基本情報
生誕 1897年6月7日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ブダペスト
死没 (1970-07-30) 1970年7月30日(73歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国クリーヴランド
学歴 ウィーン音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者・ピアニスト
担当楽器 指揮・ピアノ
活動期間 1913年 - 1970年
レーベル EPICCOLOMBIAEMI

George Szell189767 - 1970730Széll GyörgyGyörgy Endre SzélGeorg Szell


3311161917192411939NBC

19461945-46[1]

19601970513527


R.







2





9

1419391



EMI8調R.44

11949



CD1954617195888


19491969194998





1995CD

1949


92R8

1952
61

1954


934

1955


1956


402341

1957


292540

1958
8633941

885

1959


8335592

1961
55

1963
8433

1964
81027R

1965
82431889稿[2]

1966
246

1967
R3

2402

1968
93298

82157

1969
82435


3



12/3

NBC!





3

2196812

:::2K.478K.493彿

10cm182cm1967





1958使

  1. ^ ちなみに他の4楽団は、ニューヨーク・フィルハーモニックレナード・バーンスタイン)、フィラデルフィア管弦楽団ユージン・オーマンディ)、ボストン交響楽団シャルル・ミュンシュおよびエーリッヒ・ラインスドルフ)、そしてシカゴ交響楽団フリッツ・ライナーおよびジャン・マルティノンゲオルグ・ショルティ)である(括弧内は1960年代の常任指揮者)。
  2. ^ セルはこの演奏では基本的に1889年稿に基づいた楽譜を使用しているが、藤田由之の指摘では「エーザー版からも示唆を得、さらにまた、一部で独自のオーケストラ処理も見せている」としている。

参考文献

  • 三浦淳史「ジョージ・セル 完全主義者であり無用の装飾をかなぐり捨てた古典主義者」『クラシック 不滅の巨匠たち』音楽之友社、1993年
  • 浅里公三「ザルツブルク音楽祭のジョージ・セル」『モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年
  • 藤田由之「このディスクによせて」『ブルックナー:交響曲第3番ニ短調 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年
  • 吉井亜彦「セルのモーツァルトについて」『モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年
  • 柴田龍一「このアルバムのこと」『ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年
  • 歌崎和彦『証言/日本洋楽レコード史(戦前編)』音楽之友社、1998年。
  • 満津岡信育「海外盤試聴記 比類のないバランス感覚 セルのザルツブルク音楽祭ライヴ」『レコード芸術』2007年12月号 音楽之友社、2007年
  • 山田真一「オーケストラ大国アメリカ」集英社文庫0589F 集英社 2011年