「乾和三」の版間の差分
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| 妻 = [[野中良平]]の女 |
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[[1578年]]︵[[天正]]6年︶、[[織田氏]]の家臣であった[[山内一豊]]の[[播磨国]][[三木城]]出陣の際に、兄・[[乾和信]]とともに一豊に仕える。[[1585年]]︵天正13年︶、主君・一豊が[[近江国]][[長浜城 (近江国)|長浜城主]]となると、これに従った。
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[[1578年]]︵[[天正]]6年︶、[[織田氏]]の家臣であった[[山内一豊]]の[[播磨国]][[三木城]]出陣の際に、兄・[[乾和信]]とともに一豊に仕える。[[1585年]]︵天正13年︶、主君・一豊が[[近江国]][[長浜城 (近江国)|長浜城主]]となると、これに従った。
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[[1586年]]1月18日(天正13年11月29日)、[[天正大地震]]によって兄・和信が死去すると、幼少であった兄の遺児・乾勝益、乾勝次に代わり、兄の家老職を継いで近江[[長浜城 (近江国)|長浜藩]]の家老となり、[[1586年]]10月14日(天正14年9月2日)近江国[[坂田郡]]榎木村に采地300石を賜った。なお、この家老職の継承は乾勝益らが成年するまでの一時的なものになる予定であったが、その後の和三の活躍が著しく、のち[[関ヶ原の戦い]]以降には[[徳川家康]]からも一目を置かれる存在となったため、和三の子孫が代々家老職を相続することになった。[[1590年]](天正18年)、主君・一豊の[[遠江国]][[掛川]]移封に伴い、11月4日(旧暦10月7日)遠江国[[榛原郡]]・[[佐野郡]]・[[磐田郡]]の内に采地1,300石を賜った。 |
[[1586年]]1月18日︵天正13年11月29日︶、[[天正大地震]]によって兄・和信が死去すると、幼少であった兄の遺児・[[乾勝益]]、[[乾勝次]]に代わり、兄の家老職を継いで近江[[長浜城 (近江国)|長浜藩]]の家老となり、[[1586年]]10月14日︵天正14年9月2日︶近江国[[坂田郡]]榎木村に采地300石を賜った。なお、この家老職の継承は乾勝益らが成年するまでの一時的なものになる予定であったが、その後の和三の活躍が著しく、のち[[関ヶ原の戦い]]以降には[[徳川家康]]からも一目を置かれる存在となったため、和三の子孫が代々家老職を相続することになった。[[1590年]]︵天正18年︶、主君・一豊の[[遠江国]][[掛川]]移封に伴い、11月4日︵旧暦10月7日︶遠江国[[榛原郡]]・[[佐野郡]]・[[磐田郡]]の内に采地1,300石を賜った。
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[[1600年]]︵[[慶長]]5年︶、[[奥州]][[会津]]の[[上杉景勝]]征伐に出陣し、そのまま関ヶ原の戦いに参陣する。戦後、その功績により主君・一豊が土佐国へ封入されると、[[1601年]]︵慶長6年︶に土佐国で4,500石︵[[長岡郡]]国分村360余石、此江村250余石、植田村400余石など︶を賜い、﹁山内﹂の称号と与力11人を付与せられ、侍組付支配︵侍組頭︶を仰せ付けられる。この時、御本陣左一番中老・御簱母衣支配などを仰せ付けられる。
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[[1600年]]︵[[慶長]]5年︶、[[奥州]][[会津]]の[[上杉景勝]]征伐に出陣し、そのまま関ヶ原の戦いに参陣する。戦後、その功績により主君・一豊が土佐国へ封入されると、[[1601年]]︵慶長6年︶に土佐国で4,500石︵[[長岡郡]]国分村360余石、此江村250余石、植田村400余石など︶を賜い、﹁山内﹂の称号と与力11人を付与せられ、侍組付支配︵侍組頭︶を仰せ付けられる。この時、御本陣左一番中老・御簱母衣支配などを仰せ付けられる。
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=== 乾の大墓 === |
=== 乾の大墓 === |
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和三・和成・信勝・信和の4代に亘る墓は巨大で「乾の大墓」と呼ばれ、土佐藩主の墓より大きい。わざわざ[[摂津国]]から船で取り寄せられた巨石が使われている。 |
和三・[[乾和成]]・[[山内信勝]]・[[乾信和]]の4代に亘る墓は巨大で「乾の大墓」と呼ばれ、土佐藩主の墓より大きい。わざわざ[[摂津国]]から船で取り寄せられた巨石が使われている。 |
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== 家族 == |
== 家族 == |
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*祖父:乾重頼 |
*祖父:[[乾重頼]] |
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*父:[[乾和宣]]、[[織田信長]]家臣 |
*父:[[乾和宣]]、[[織田信長]]家臣 |
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**長兄:[[乾和信]] |
**長兄:[[乾和信]] |
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***甥:乾勝益 |
***甥:[[乾勝益]] |
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***甥:乾勝次 |
***甥:[[乾勝次]] |
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**次兄:[[乾宣光]] |
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**本人:乾和三 |
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**妻:野中権之進良平<ref>[[野中兼山]]の祖父にあたる。</ref>の女<ref>山内一豊の妹「お合」の娘にあたる。</ref>(俗名 通宇)、法名智相院圓光妙徳大姉 |
**妻:[[野中良平|野中権之進良平]]<ref>[[野中兼山]]の祖父にあたる。</ref>の女<ref>[[山内一豊]]の妹「お合」の娘にあたる。</ref>(俗名 通宇)、法名智相院圓光妙徳大姉 |
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***長男:[[山内和成]] |
***長男:[[乾和成|山内和成]] |
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***長男の妻:[[深尾重忠]]の三女 |
***長男の妻:[[深尾重忠]]の三女 |
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****孫(長男):[[山内信勝]] |
****孫(長男):[[山内信勝]] |
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****孫の妻:土佐藩主[[山内忠義]]の二女(俗名 さよ) |
****孫の妻:土佐藩主[[山内忠義]]の二女(俗名 さよ) |
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*****曾孫:乾信和 |
*****曾孫:[[乾信和]] |
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******玄孫:乾和好 |
******玄孫:[[乾和好]] |
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****孫(二男):[[乾和充]](中老職) |
****孫(二男):[[乾和充]](中老職) |
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***二男:板坂永政、板坂馬左衛門利正の養子となる |
***二男:[[板坂永政]]、[[板坂利正|板坂馬左衛門利正]]の養子となる |
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***三男:乾三蔵 |
***三男:[[乾三蔵]] |
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== 補註 == |
== 補註 == |
2015年11月30日 (月) 10:21時点における版
乾 和三 | |
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時代 | 安土桃山時代-江戸時代前期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 1633年2月20日(寛永10年1月12日) |
改名 | 乾猪助、乾又左衛門、乾将監、山内備後 |
墓所 | 古峯山 乾流寺(現 永源寺) |
官位 | 将監、備後守 |
主君 | 山内一豊、山内忠義 |
藩 | 土佐藩 |
氏族 | 清和源氏頼光流 美濃土岐氏支流乾氏 |
父母 | 父:乾和宣 |
兄弟 | 長兄:乾和信、次兄:乾宣光、乾和三 |
妻 | 野中良平の女 |
子 | 山内和成、板坂永政、乾三蔵 |
生涯
逸話
幼名
和三の幼名「猪助(いのすけ)」は、山内一豊の通称「猪右衛門」より一字を賜ったもので、「猪」は「猪突猛進」や「猪武者」などに通じる勇猛な武者の意で、和三は一豊の膝下にて常に扈従し「殿(猪右衛門)の助けとなるよう」働くようにとの言葉によるもの。※幕末の板垣退助は、乾和三家とは別流であるが、退助の分家の乾市郎兵衛家が、乾和三家と姻族関係にあり、同姓の誼によって幕末頃には親族のように遇せられていたため、和三の幼名を賜って板垣退助は幼少の頃「乾猪之助」と名乗っていた。
乾の大墓
和三・乾和成・山内信勝・乾信和の4代に亘る墓は巨大で「乾の大墓」と呼ばれ、土佐藩主の墓より大きい。わざわざ摂津国から船で取り寄せられた巨石が使われている。
家族
補註
参考文献
- 『皆山集』
- 『南路志』
- 『御侍中先祖書系圖牒』
- 『南国市史』
- 『三百藩家臣人名事典』
- 『土佐藩家老物語』
外部リンク
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