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三木城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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三木城
兵庫県
模擬城壁
模擬城壁
別名 釜山城・別所城
城郭構造 平山城、丘城
天守構造 不明(天守と称される土地あり)
築城主 別所則治
築城年 長享2年(1492年)前後
主な改修者 前野長康中川秀政
主な城主 別所氏豊臣秀吉配下武将
廃城年 元和元年(1615年
遺構 曲輪、土塁、空堀、井戸、天守台等
指定文化財 国の史跡[1]
再建造物 模擬城壁
位置 北緯34度47分59.537秒 東経134度59分16.307秒 / 北緯34.79987139度 東経134.98786306度 / 34.79987139; 134.98786306
地図
三木城の位置(兵庫県内)
三木城

三木城

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19km31km-

61578220



55

沿[]


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526宿31615

退使

略年表[編集]

和暦 西暦 主な出来事
明応元年 1492年 別所則治によって築城。
享禄3年 1530年 浦上村宗により落城。城主の別所就治は落ち延びる。
享禄4年 1531年 大物崩れで浦上村宗の死に伴い就治が三木城を奪還。
天正6年 1578年 羽柴秀吉による三木合戦が始まる。
天正8年 1580年 羽柴秀吉の「三木の干し殺し」により落城。
天正年間 1581年-
1592年
天守が増築される。
元和3年 1617年 一国一城令により廃城となる。
元和5年 1619年 三木城の遺材も用いられた明石城が完成。

歴代城主[編集]

歴代12代城主
何代城主 初代城主 2代城主 3代城主 4代城主 5代城主 6代城主
城主名 別所則治 別所則定 別所就治 別所安治 別所長治 杉原家次
何代城主 7代城主 8代城主 9代城主 10代城主 11代城主 12代城主
城主名 前野長康 中川秀政 中川秀成 杉原長房
豊岡城城主が領有
伊木忠次
池田輝政家老
伊木忠繁

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60
/

400西

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58.2m20m3.6m25m使殿殿殿

西の丸(二の丸)[編集]


57m23.5m調21使調

新城[編集]

宅地化された新城曲輪跡

新城曲輪は、その名が示すとおり比較的後世(三木合戦以後ではないかと思われている)になって築かれたものと思われている。昭和35年(1960年)迄にはほぼ原形を留めていたが、堀を埋め土塁を崩し道路とし宅地化された。土塁の高さは2間で東側と南側に築き、その周りには空堀をめぐらしている。特に南側の土塁は鷹の尾曲輪を意識し、堀底から土塁の最長部は9mあったようである。虎口は南西にあり土塁が切れる場所には「蔀土居」が設けられていた。

雲龍寺[編集]

雲龍寺は三木城の城郭の一部だったと思われている。三木合戦で開城の際には別所長治が雲龍寺の和尚に後事を託し、日ごろ愛用していた品々を贈り、それが現在も寺宝として残されている。また、この寺の南側には別所長治と照子夫人の首塚が残されている。別所長治は当時の慣わしに従い、照子夫人と3歳になるわが子を刺殺し、その後切腹の場にのぞんだと伝わっている。