乾和三
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乾 和三 | |
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時代 | 安土桃山時代-江戸時代前期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 1633年2月20日(寛永10年1月12日) |
改名 | 乾猪助、乾又左衛門、乾将監、山内備後 |
墓所 | 古峯山 乾流寺(現 永源寺) |
官位 | 将監、備後守 |
主君 | 山内一豊、山内忠義 |
藩 | 土佐藩 |
氏族 | 清和源氏頼光流 美濃土岐氏支流乾氏 |
父母 | 父:乾和宣 |
兄弟 | 長兄:乾和信、次兄:乾宣光、乾和三 |
妻 | 野中良平の女 |
子 | 山内和成、板坂永政、乾三蔵 |
生涯
織田信長の家臣・乾和宣の三男として美濃国に生まれる。幼名は猪助︵いのすけ︶。字は又左衛門、また将監と称し、のちに山内備後と改めた。
1578年︵天正6年︶、織田氏の家臣であった山内一豊の播磨国三木城出陣の際に、兄・乾和信とともに一豊に仕える。1585年︵天正13年︶、主君・一豊が近江国長浜城主となると、これに従った。
1586年1月18日︵天正13年11月29日︶、天正大地震によって兄・和信が死去すると、幼少であった兄の遺児・乾勝益、乾勝次に代わり、兄の家老職を継いで近江長浜藩の家老となり、1586年10月14日︵天正14年9月2日︶近江国坂田郡榎木村に采地300石を賜った。なお、この家老職の継承は乾勝益らが成年するまでの一時的なものになる予定であったが、その後の和三の活躍が著しく、のち関ヶ原の戦い以降には徳川家康からも一目を置かれる存在となったため、和三の子孫が代々家老職を相続することになった。1590年︵天正18年︶、主君・一豊の遠江国掛川移封に伴い、11月4日︵旧暦10月7日︶遠江国榛原郡・佐野郡・磐田郡の内に采地1,300石を賜った。
1600年︵慶長5年︶、奥州会津の上杉景勝征伐に出陣し、そのまま関ヶ原の戦いに参陣する。戦後、その功績により主君・一豊が土佐国へ封入されると、1601年︵慶長6年︶に土佐国で4,500石︵長岡郡国分村360余石、此江村250余石、植田村400余石など︶を賜い、﹁山内﹂の称号と与力11人を付与せられ、侍組付支配︵侍組頭︶を仰せ付けられる。この時、御本陣左一番中老・御簱母衣支配などを仰せ付けられる。
その後、江戸幕府による天下普請の御用︵江戸城、駿府城、丹波篠山城︶を勤め、特に1606年︵慶長11年︶の江戸城の普請の際に徳川家康より羽織を賜っている。1613年︵慶長18年︶には江戸勤め仰せ付けられ、1614年4月1日︵慶長19年2月22日︶、2代将軍・徳川秀忠への御目見えを仰せ付けられる。同年の大坂の陣の際には、主君・山内忠義より江戸表の御勤めを仰せ付けられる。1616年︵元和2年︶、徳川家康死去にあたり、使者を仰せ付けられたが、病気につき上方にて役儀を免除された。
一方で、土佐国の統治にも活躍した。幕府による元和の一国一城令に際して土佐領内の城郭破却を行う。1621年︵元和7年︶、江戸表にて主君・忠義の諮問に答えて奉行職として藩政の刷新を図り、1622年︵元和8年︶、山内忠義の命を奉じて、野中直継[1]、寺村淡路、深尾重忠らと共に土佐領内の仕置を定めた。また、和三は知行地の長岡郡此江にある真言宗の寺院・観音寺を1625年︵寛永2年︶に禅宗に改めさせ、曹洞宗・古峯山乾流寺︵現・永源寺︶として開基し、乾氏の菩提寺とした。なお、この寺は1708年︵宝永5年︶焼失した後に復興に際して永源寺に改名し、1871年︵明治4年︶に廃藩置県により一時廃寺となるが、1873年︵明治6年︶に再興された。
1625年9月︵寛永2年8月︶、病気に付き山内忠義の御尋の御書を下し置かれ、同5年病気に依って隠居仰せ付けられる。1633年2月20日︵寛永10年1月12日︶に死去。法名は乾流寺殿古峯永源大居士。自ら建立した乾流寺に葬られる。
逸話
幼名
和三の幼名﹁猪助︵いのすけ︶﹂は、山内一豊の通称﹁猪右衛門﹂より一字を賜ったもので、﹁猪﹂は﹁猪突猛進﹂や﹁猪武者﹂などに通じる勇猛な武者の意で、和三は一豊の膝下にて常に扈従し﹁殿︵猪右衛門︶の助けとなるよう﹂働くようにとの言葉によるもの。※幕末の板垣退助は、乾和三家とは別流であるが、退助の分家の乾市郎兵衛家が、乾和三家と姻族関係にあり、同姓の誼によって幕末頃には親族のように遇せられていたため、和三の幼名を賜って板垣退助は幼少の頃﹁乾猪之助﹂と名乗っていた。
乾の大墓
和三・乾和成・山内信勝・乾信和の4代に亘る墓は巨大で「乾の大墓」と呼ばれ、土佐藩主の墓より大きい。わざわざ摂津国から船で取り寄せられた巨石が使われている。
家族
補註
参考文献
- 『皆山集』
- 『南路志』
- 『御侍中先祖書系圖牒』
- 『南国市史』
- 『三百藩家臣人名事典』
- 『土佐藩家老物語』
外部リンク
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