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[[治承]]4年︵[[1180年]]︶[[源頼朝]]が伊豆で打倒[[平氏]]の兵を挙げると、異母兄である[[佐々木定綱|定綱]]・[[佐々木経高|経高]]・[[佐々木盛綱|盛綱]]・[[佐々木高綱|高綱]]らは頼朝の元に参陣したが、義清は母方の祖父・[[渋谷重国]]とともに、平氏方の大将で舅である[[大庭景親]]のもとに参陣し、8月23日癸卯︵1180年[[9月14日]]︶の[[石橋山の戦い]]では頼朝の敵方として戦った。その後、10月には[[黄瀬川]]の合戦で頼朝方に転じたが、義清が当初敵方であったため、頼朝から信頼されておらず、同年12月26日甲辰︵[[1181年]][[1月13日]]︶、義清は兄・盛綱の元に身柄を預けられた<ref name="adzumakagami">﹃吾妻鏡﹄</ref><ref name="chiba takuho 1990" />。しかしまもなく許され、[[近江国|近江]][[守護]]となった父・秀義に従って行動した<ref name="adzumakagami" />。
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[[治承]]4年︵[[1180年]]︶[[源頼朝]]が伊豆で打倒[[平氏]]の兵を挙げると、異母兄である[[佐々木定綱|定綱]]・[[佐々木経高|経高]]・[[佐々木盛綱|盛綱]]・[[佐々木高綱|高綱]]らは頼朝の元に参陣したが、義清は母方の祖父・[[渋谷重国]]とともに、平氏方の大将で舅である[[大庭景親]]のもとに参陣し、8月23日癸卯︵1180年[[9月14日]]︶の[[石橋山の戦い]]では頼朝の敵方として戦った。その後、10月には[[黄瀬川]]の合戦で頼朝方に転じたが、義清が当初敵方であったため、頼朝から信頼されておらず、同年12月26日甲辰︵[[1181年]][[1月13日]]︶、義清は兄・盛綱の元に身柄を預けられた<ref name="adzumakagami">﹃吾妻鏡﹄</ref><ref name="chiba takuho 1990" />。しかしまもなく許され、[[近江国|近江]][[守護]]となった父・秀義に従って行動した<ref name="adzumakagami" />。
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=== 合戦と忠勇 === |
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[[元暦]]元年8月2日戊午︵[[1184年]][[9月8日]]︶、伊賀[[平氏]]残党による[[三日平氏の乱 (平安時代)|三日平氏の乱]]に際し、[[伊賀国]][[守護]]・[[大内惟義]]が敗れると、秀義・義清父子は直ちに[[甲賀郡]]の軍勢を率いて出陣した。この時、秀義は流れ矢に当り戦死している<ref name="adzumakagami" /><ref name="chiba takuho 1990" />。
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[[元暦]]元年8月2日戊午︵[[1184年]][[9月8日]]︶、伊賀[[平氏]]残党による[[三日平氏の乱 (平安時代)|三日平氏の乱]]に際し、[[伊賀国]][[守護]]・[[大内惟義]]が敗れると、秀義・義清父子は直ちに[[甲賀郡]]の軍勢を率いて出陣した。この時、秀義は流れ矢に当り戦死している<ref name="adzumakagami" /><ref name="chiba takuho 1990" />。
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[[文治]]5年7月19日丁丑︵[[1189年]][[9月1日]]︶、[[源頼朝]]は奥州の[[藤原泰衡]]を征伐するために鎌倉を進発すると、義清は兄・[[佐々木盛綱]]とともに従軍︵[[奥州合戦]]︶<ref name="adzumakagami" /><ref name="chiba takuho 1990" />。この合戦での働きにより、[[鎌倉幕府]]の有力御家人の一人ととして認められることとなった。
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=== 幕府の御家人として === |
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建暦2年6月7日 |
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[[建久]]元年11月7日丁巳([[1190年]][[12月5日]])の頼朝の入洛に際しては「先陣四十一番」を務めた<ref name="adzumakagami" /><ref name="chiba takuho 1990" />。その後、建久3年11月25日甲午([[1192年]][[12月31日]])には、将軍家の[[永福寺]]供養の後陣随兵を務めた<ref name="adzumakagami" />。 |
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建久4年5月8日︵[[1193年]][[6月8日]]︶、頼朝は[[富士野]]・藍沢の夏狩をご覧になる為、[[駿河国]]に赴かれた。この時、義清は兄・[[佐々木盛綱]]、祖父・[[渋谷重国]]らと共にこれに供奉した<ref>﹃吾妻鏡﹄建久4年5月8日癸酉條</ref>。建久5年8月8日︵[[1194年]][[8月25日]]︶、頼朝が相模国の[[日向薬師]]に参詣した。その時、先陣の随兵は[[畠山重忠]]以下、[[八田知重]]、[[足立遠元]]、[[小山朝政]]らが務め、御後は[[葛西清重]]、[[八田知家]]、[[佐々木経高]]ら、後陣の随兵は[[武田信光]]、[[小山宗政]]、[[新田忠常]]、佐々木義清らが務めている<ref>﹃吾妻鏡﹄建久5年8月8日丙申條</ref>。さらに、11月21日︵[[1195年]][[1月4日]]︶、御霊社︵現・御霊神社<ref>御霊神社、所在地‥[[神奈川]][[鎌倉市]]坂ノ下</ref>︶前浜で{{ruby-ja|[[小笠懸]]|こかさがけ}}が行われた。射手は[[武田信義]]以下、[[武田信光]]、[[小山宗政]]、[[小山朝光]]、[[三浦義村]]、[[佐々木盛綱]]、佐々木義清らが務めた<ref>﹃吾妻鏡﹄建久5年11月21日戊申條</ref>。
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建久6年3月10日︵[[1195年]][[4月21日]]︶、頼朝が東大寺供養のため、南都の東南院︵現・[[東大寺]]本坊︶に参列した時、供奉<ref>﹃吾妻鏡﹄建久6年3月10日乙未條</ref>。正治2年10月10日︵[[1200年]][[11月18日]]︶、[[源頼家]]が貢金五百両・馬二十疋を京都に奉られた時、義清がこの使者を務めた<ref>﹃吾妻鏡﹄正治2年10月10日癸巳條</ref>。また、[[建永]]元年11月20日︵[[1206年]][[12月21日]]︶には[[征夷大将軍|将軍]]・[[源実朝]]の御出の事を奉行するよう命ぜられた<ref>﹃吾妻鏡﹄建永元年11月20日丁酉條</ref>。
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建暦2年6月7日︵[[1212年]][[7月6日]]︶丑の刻、鎌倉御所の侍所の{{ruby-ja|宿直|とのい}}の侍らが乱闘を起し、伊達為家<ref>[[伊達朝宗]]の男</ref>と萩生右馬允が負傷し、その二人の郎党がそれぞれ死亡した。鎌倉中が騒然として御家人らが馳せ参じたが、義清は犯人を捕えて身柄を引き渡した<ref>﹃吾妻鏡﹄建暦2年6月7日辛巳條</ref>。翌日、伊達は[[佐渡国]]へ、萩生は[[日向国]]へ配流されている<ref>﹃吾妻鏡﹄建暦2年6月8日條</ref>。この事件の結果、翌7月には御所の侍所を造り替えるよう[[北條義時]]、[[中原広元]]らが沙汰を下し、千葉介成胤に命じて造り替えた<ref>﹃吾妻鏡﹄建暦2年7月2日條</ref>。
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=== 和田義盛の乱 === |
=== 和田義盛の乱 === |
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[[建暦]]3年5月2日 |
[[建暦]]3年5月2日︵[[1213年]][[5月23日]]︶、[[執権]]・[[北条義時]]の度重なる挑発に対し、[[和田義盛]]は謀叛を起して[[北條氏]]を討たんと、和田一族150騎を率いて鎌倉の将軍御所を急襲︵[[和田合戦]]︶。御家人らが防いで乱戦となり、義盛の三男・[[朝比奈義秀|朝夷名義秀]]が御所に火を放ったため、御所内の建物は一宇残らず焼け落ちた<ref name="adumakagami 12130523">﹃吾妻鏡﹄建暦3年5月2日壬寅條</ref>。将軍・[[源実朝]]は[[白旗神社 (鎌倉市西御門)|頼朝の法華堂]]に避難。合戦は続いたが、明け方になり、義盛らは矢もなくなり疲労したため一旦退却した<ref name="adumakagami 12130523" />。翌3日︵[[1213年]][[5月24日]]︶、[[横山党]]の来援を得た[[和田義盛|和田勢]]は、再び御所を襲おうと進軍したが、[[若宮大路幕府|若宮大路御所]]を[[北条泰時|北條泰時]]と[[北条時房|時房]]が守りを固めて防ぎ、町大路は[[足利義氏]]、名越は[[源頼茂]]、[[大倉御所]]︵現・[[神奈川県]][[鎌倉市]]二階堂、西御門、雪ノ下3丁目の地域︶は佐々木義清と[[結城朝光]]が陣を張って防いだため、和田勢はこれを破ることができなかった<ref>﹃吾妻鏡﹄建暦3年5月3日癸卯條</ref>。そこで、[[由比ヶ浜]]と若宮大路で合戦が起きた。義清は、手傷を負いながらも敵方数輩を討取っている<ref name="chiba takuho 1990" />。
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建保7年1月27日 |
建保7年1月27日︵[[1219年]][[2月13日]]︶、将軍・[[源実朝]]が右大臣拝賀のため[[鶴岡八幡宮]]にお参りになられる時、義清が将軍の調度{{ruby-ja|懸|かかり}}として供奉した<ref name="adumakagami 12190213">﹃吾妻鏡﹄建保7年1月27日甲午條</ref>。この時﹁佐々木五郎左衛門尉義清﹂として名が見え、[[建暦]]3年︵[[1213年]]︶から建保7年︵[[1219年]]︶の間において﹁[[左衛門尉]]﹂に補任されたとみられる<ref name="adumakagami 12190213" />。
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=== 承久の変以降 === |
=== 承久の変以降 === |
2023年12月23日 (土) 02:00時点における版
佐々木義清 | |
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
生誕 | 不詳、永暦元年(1160年)以降 |
死没 | 不詳 |
別名 | 五郎、隠岐前司、隠岐入道 |
官位 | 左衛門尉、出雲守、隠岐守 |
幕府 | 鎌倉幕府 出雲・隠岐守護 |
主君 | 源頼朝、頼家、実朝 |
氏族 | 宇多源氏(佐々木氏) |
父母 | 佐々木秀義、渋谷重国の娘 |
兄弟 | 定綱、経高、盛綱、高綱、義清、厳秀 |
妻 | 大庭景親の娘 |
子 | 政義、泰清、女子(野木光綱の妻)、野木光綱[1] |
佐々木 義清︵ささき よしきよ︶は、平安時代末期から鎌倉時代初期の佐々木一族の武将。鎌倉幕府御家人。佐々木秀義の五男。出雲源氏の祖。
生涯
生い立ち
父・佐々木秀義が平治元年︵1159年︶の平治の乱に敗れ、奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受け、渋谷重国の娘を娶って生まれたのが義清とその弟・厳秀である。義清は渋谷荘で生まれ育ち、大庭景親の娘と婚した後は、相模国大庭に住した[2]。頼朝の治承挙兵の頃
治承4年︵1180年︶源頼朝が伊豆で打倒平氏の兵を挙げると、異母兄である定綱・経高・盛綱・高綱らは頼朝の元に参陣したが、義清は母方の祖父・渋谷重国とともに、平氏方の大将で舅である大庭景親のもとに参陣し、8月23日癸卯︵1180年9月14日︶の石橋山の戦いでは頼朝の敵方として戦った。その後、10月には黄瀬川の合戦で頼朝方に転じたが、義清が当初敵方であったため、頼朝から信頼されておらず、同年12月26日甲辰︵1181年1月13日︶、義清は兄・盛綱の元に身柄を預けられた[3][2]。しかしまもなく許され、近江守護となった父・秀義に従って行動した[3]。合戦と忠勇
元暦元年8月2日戊午︵1184年9月8日︶、伊賀平氏残党による三日平氏の乱に際し、伊賀国守護・大内惟義が敗れると、秀義・義清父子は直ちに甲賀郡の軍勢を率いて出陣した。この時、秀義は流れ矢に当り戦死している[3][2]。 文治5年7月19日丁丑︵1189年9月1日︶、源頼朝は奥州の藤原泰衡を征伐するために鎌倉を進発すると、義清は兄・佐々木盛綱とともに従軍︵奥州合戦︶[3][2]。この合戦での働きにより、鎌倉幕府の有力御家人の一人ととして認められることとなった。幕府の御家人として
建久元年11月7日丁巳︵1190年12月5日︶の頼朝の入洛に際しては﹁先陣四十一番﹂を務めた[3][2]。その後、建久3年11月25日甲午︵1192年12月31日︶には、将軍家の永福寺供養の後陣随兵を務めた[3]。 建久4年5月8日︵1193年6月8日︶、頼朝は富士野・藍沢の夏狩をご覧になる為、駿河国に赴かれた。この時、義清は兄・佐々木盛綱、祖父・渋谷重国らと共にこれに供奉した[4]。建久5年8月8日︵1194年8月25日︶、頼朝が相模国の日向薬師に参詣した。その時、先陣の随兵は畠山重忠以下、八田知重、足立遠元、小山朝政らが務め、御後は葛西清重、八田知家、佐々木経高ら、後陣の随兵は武田信光、小山宗政、新田忠常、佐々木義清らが務めている[5]。さらに、11月21日︵1195年1月4日︶、御霊社︵現・御霊神社[6]︶前浜で小こか笠さ懸がが行われた。射手は武田信義以下、武田信光、小山宗政、小山朝光、三浦義村、佐々木盛綱、佐々木義清らが務めた[7]。 建久6年3月10日︵1195年4月21日︶、頼朝が東大寺供養のため、南都の東南院︵現・東大寺本坊︶に参列した時、供奉[8]。正治2年10月10日︵1200年11月18日︶、源頼家が貢金五百両・馬二十疋を京都に奉られた時、義清がこの使者を務めた[9]。また、建永元年11月20日︵1206年12月21日︶には将軍・源実朝の御出の事を奉行するよう命ぜられた[10]。 建暦2年6月7日︵1212年7月6日︶丑の刻、鎌倉御所の侍所の宿との直いの侍らが乱闘を起し、伊達為家[11]と萩生右馬允が負傷し、その二人の郎党がそれぞれ死亡した。鎌倉中が騒然として御家人らが馳せ参じたが、義清は犯人を捕えて身柄を引き渡した[12]。翌日、伊達は佐渡国へ、萩生は日向国へ配流されている[13]。この事件の結果、翌7月には御所の侍所を造り替えるよう北條義時、中原広元らが沙汰を下し、千葉介成胤に命じて造り替えた[14]。和田義盛の乱
建暦3年5月2日︵1213年5月23日︶、執権・北条義時の度重なる挑発に対し、和田義盛は謀叛を起して北條氏を討たんと、和田一族150騎を率いて鎌倉の将軍御所を急襲︵和田合戦︶。御家人らが防いで乱戦となり、義盛の三男・朝夷名義秀が御所に火を放ったため、御所内の建物は一宇残らず焼け落ちた[15]。将軍・源実朝は頼朝の法華堂に避難。合戦は続いたが、明け方になり、義盛らは矢もなくなり疲労したため一旦退却した[15]。翌3日︵1213年5月24日︶、横山党の来援を得た和田勢は、再び御所を襲おうと進軍したが、若宮大路御所を北條泰時と時房が守りを固めて防ぎ、町大路は足利義氏、名越は源頼茂、大倉御所︵現・神奈川県鎌倉市二階堂、西御門、雪ノ下3丁目の地域︶は佐々木義清と結城朝光が陣を張って防いだため、和田勢はこれを破ることができなかった[16]。そこで、由比ヶ浜と若宮大路で合戦が起きた。義清は、手傷を負いながらも敵方数輩を討取っている[2]。 建保7年1月27日︵1219年2月13日︶、将軍・源実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮にお参りになられる時、義清が将軍の調度懸かかりとして供奉した[17]。この時﹁佐々木五郎左衛門尉義清﹂として名が見え、建暦3年︵1213年︶から建保7年︵1219年︶の間において﹁左衛門尉﹂に補任されたとみられる[17]。承久の変以降
承久の変の後、承久3年7月13日︵1221年8月2日︶、後鳥羽上皇が隠岐国に移られる時、これに供奉して下向[18]。この時、積年の功により、隠岐・出雲両国の守護職に任ぜられた。さらに国司として、元仁2年1月28日︵1225年3月8日︶、出雲守[19]に補任され、嘉禄3年3月21日︵1227年4月8日︶には、隠岐守[20]にも補任された[21]。安貞2年10月15日乙卯︵1228年11月13日︶、将軍・藤原頼経が小山朝政邸を方違した時、騎馬にて供奉[3]。 晩年、義清は﹁隠岐入道﹂と名乗り、武蔵大路に邸を構えていたが、延応元年12月29日甲子︵1240年1月24日︶火災により周辺の数十軒とともに焼失している[3]。 宝治元年12月29日戊申︵1248年1月26日︶、京都大番役の交替が三ケ月と改められた時、義清は﹁隠岐前司﹂として﹁十三番勤﹂を命ぜられた[3]。所領と子孫
義清の出雲・隠岐守護職は、初め長男政義が相続したが、幕府に無断で出家したため没収され、政義の弟・泰清に改めて下し置かれた。泰清の子孫は隠岐・出雲の各地に分封されて土着し、塩冶氏、富田氏、高岡氏などの出雲源氏と称される勢力となった[22]。ゆかりの寺
- 浮浪山鰐淵寺 - 義清の菩提寺 - 島根県出雲市別所町148番地
- 天応山神門寺 - 義清の位牌所[23] - 島根県出雲市塩冶町821番地
- 解脱山光触寺 - 義清の開基と伝わる寺 兵庫県明石市大久保町大窪1213番地
補註
(一)^ 義清の娘婿で、出雲に住し義清の猶子となる。︵﹃佐々木系図﹄︶
(二)^ abcdef﹃宇多源氏佐々木氏系図︵第1観︶﹄千葉琢穂編、展望社、1990年、59-60頁
(三)^ abcdefghi﹃吾妻鏡﹄
(四)^ ﹃吾妻鏡﹄建久4年5月8日癸酉條
(五)^ ﹃吾妻鏡﹄建久5年8月8日丙申條
(六)^ 御霊神社、所在地‥神奈川鎌倉市坂ノ下
(七)^ ﹃吾妻鏡﹄建久5年11月21日戊申條
(八)^ ﹃吾妻鏡﹄建久6年3月10日乙未條
(九)^ ﹃吾妻鏡﹄正治2年10月10日癸巳條
(十)^ ﹃吾妻鏡﹄建永元年11月20日丁酉條
(11)^ 伊達朝宗の男
(12)^ ﹃吾妻鏡﹄建暦2年6月7日辛巳條
(13)^ ﹃吾妻鏡﹄建暦2年6月8日條
(14)^ ﹃吾妻鏡﹄建暦2年7月2日條
(15)^ ab﹃吾妻鏡﹄建暦3年5月2日壬寅條
(16)^ ﹃吾妻鏡﹄建暦3年5月3日癸卯條
(17)^ ab﹃吾妻鏡﹄建保7年1月27日甲午條
(18)^ ﹃皇代暦﹄承久3年7月13日條
(19)^ ﹃明月記﹄元仁2年正月28日條
(20)^ ﹃明月記﹄嘉禄3年3月21日條
(21)^ 国司兼守護となっている。
(22)^ ﹃群書類従﹄による。
(23)^ 塩冶頼泰、塩冶貞清、塩冶高貞ら塩冶氏三代の墓と、義清の位牌がある。
参考文献
- 『尊卑分脈』洞院公定撰
- 『群書類従』塙保己一編、1819年
- 『島根県歴史人物事典』山陰中央新報社、1997年
- 『現代語訳吾妻鏡』第7巻、五味文彦・本郷和人編、吉川弘文館、2009年
- 『講談社 日本人名大辞典』上田正昭、西澤潤一、平山郁夫、三浦朱門監修、講談社、2001年
関連項目
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