「児玉氏」の版間の差分
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==== 鎌倉時代から戦国時代末期 ==== |
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[[児玉遠岩]] |
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2016年3月22日 (火) 12:58時点における版
児玉氏 | |
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![]() 唐団扇に五枚笹 | |
本姓 | 有道氏 |
家祖 | 児玉惟行[1] |
種別 | 武家 |
出身地 | 武蔵国児玉郡 |
主な根拠地 | 武蔵国児玉郡 |
支流、分家 |
庄氏(武家) 塩谷氏(武家) 富田氏(武家) 安芸児玉氏(武家)など 分流非常に多し |
凡例 / Category:日本の氏族 |
児玉氏︵こだまし︶は、日本の氏族の一つ。発祥地は武蔵国児玉郡で出自は有道氏。武蔵国で割拠した武蔵七党の一つ、児玉党の中でも中心的な旗頭である。
児玉氏祖について
児玉党の氏族に関連した系図は複数あり、児玉氏の祖を遠岩に求めるものも複数あるが、遠岩は、西日本に移住した児玉氏達が後世に創作した、系図上にのみ存在する氏祖と考えられており、実質的な氏祖は惟行である。その真の父は有道惟能と研究者の間では考えられている。なお、関東に残る系図で児玉氏祖を遠岩に求める物はなく、西日本の特色である。児玉氏の本宗家
児玉氏の嫡流は多くの氏族︵支族︶に分かれていった。特に直系の嫡流、児玉氏の本宗家4代目である家弘は、現在の児玉から本庄の地に土着し、庄氏を名乗った。源平合戦時の児玉党の党首も本庄の出︵庄氏︶である。従って、その後も児玉氏を称している一族は全て分家格に当たり、実質的に庄氏の後を継いで本宗家となった本庄氏が児玉氏にとっての本宗家格に当たる。なお児玉家行︵児玉氏の本宗家3代目︶の次男は塩谷氏を名乗り、三男は富田氏を名乗った。 児玉氏に関連する文書に、所領として、﹁児玉郡池屋﹂とあり、﹃新編武蔵風土記稿﹄の金屋村の項に、﹁池ノ谷﹂の字名がある事から、おそらく児玉郡の金屋村︵大字金屋の字池ノ谷︶を児玉氏︵の分家︶は本貫地としていたものと見られている︵本宗家の方は河内守と記述されている為、児玉郡の河内村か︶。 分家である児玉氏の一族は、戦国時代になると、武蔵国北東部から勢力を拡大してきた成田氏によって滅ぼされる事となる。厳密には伝承で、成田親泰が児玉重行を殺害し、その所領を奪い、延徳3年︵1491年︶に忍城を築いたとされる。ただ築城年に関しては別説があり、近年ではそちらの方が有力視されている。児玉氏が忍の領地を所領する様になったのは11世紀末からであり、その支配が15世紀末に終わった事を示している。安芸児玉氏
児玉氏 (安芸児玉氏) | |
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![]() | |
本姓 | 有道氏 |
家祖 | 児玉遠岩 |
種別 |
武家 華族(伯爵) |
出身地 | 武蔵国児玉郡 |
主な根拠地 | 安芸国豊田郡竹仁村 |
著名な人物 |
児玉就方 児玉就英 児玉源太郎 児玉秀雄 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
有道氏の族で、武蔵七党での有力な一族である児玉氏を先祖とし、1221年︵承久3年︶の承久の乱で戦功を挙げ、安芸国豊田郡竹仁村の地頭職を与えられた。文永・弘安の役において、武蔵国より一族が下向して、在地領主となった。
南北朝時代には足利直冬に属するも、後に大内氏側に転じ、後に毛利時親に従って安芸国に下向して、譜代重臣として仕えた。
戦国時代となり、毛利元就が当主の頃には、児玉就忠が元就の側近として、桂就忠とともに奉行人となった。1550年︵天文19年︶には、新たに当主となった毛利隆元の行政組織・五奉行制にも参画した。また就忠弟の児玉就方やその子の児玉就英は水軍の将として活躍し、毛利水軍の創設と発展に尽力した。また、一族の児玉元良の娘は毛利輝元に嫁いで、萩藩主・毛利秀就、徳山藩主・毛利就隆を産んだ。
幕末期の末裔・児玉源太郎は、華族の伯爵爵位を与えられた児玉家であり児玉秀雄は長男にあたる。
系譜
鎌倉時代以前
可美真手命 ┃ 彦湯支命 ┃ 意富禰命 ┃ 出石心大臣命 ┃ 大矢口宿禰 ┃ 大綜麻杵命 ┃ 伊香色雄命 ┃ 大咩布命 ┃ 大部豊日 ┃ 船瀬足尼 ┃ 由岐古 ┃ 押目 ┃ 石敷 ┃ 稲敷 ┃ 赤利古 ┃ 阿佐古 ┃ 金古 ┃ 真塩 ┃ 磐麿 ┃ 久比 ┃ 小牧万呂 ┃ 稲足 ┃ 有道氏道 ┃ 雄継 ┃ 氏継 ┃ 雄材 ┃ 維広 ┃ 惟能
鎌倉時代から戦国時代末期
児玉遠岩 ┃ 惟行 ┣━━┳━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┓ 弘行 経行(経行系始祖) 貞行(貞行系始祖) 惟親(惟親系始祖) ┣━━━┳━━━━┓ ┃ ┃ 保義 秩父行重 秩父行高 泰行 泰親 ┣━━━┳━━━━┓ ┃ 行家 吉島行遠 富野行義 重蓮 ┃ ┃ 重行 繁行 ┃ ┃ 朝行 家親 ┣━━━┓ ┃ 為行 忠行 親満 ┃ ┃ ┃ 延行 氏行 光行 ┃ ┃ ┃ 高行 吉行 家氏 ┃ ┣━━┳━━┓ ┃ 行春 幹行 行広 盛行 元行 ┃ ┃ ┃ 盛行 守行 益行 ┃ ┃ 宗行 国行 ┃ ┃ 持行 隆行 ┃ ┃ 広家 家行 ┣━━━┓ | 行忠 繁次 就忠(児玉元実次男) ┃ ┣━━┳━━┓ 弘家 元良 春種 元輔 ┣━━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━┓ ┃ 元実 元保 元為 就近 就秋 二ノ丸殿=毛利輝元 ┣━━┳━━┓ ┃ │ ┣━━━━━━━━━┓ 就兼 就忠 就方 元茂 就秋 毛利秀就(長州藩主) 毛利就隆(徳山藩主) ┣━━┓ ┃ 就光 就安 就英 ┣━━┓ 元村 元房
系譜未分類
- 児玉時国:13世紀頃の人物。
伯爵児玉家
児玉半九郎 ┃ 児玉源太郎(源太郞) ┣━━━━━┳━━━━━┓ 児玉秀雄 児玉友雄 児玉九一 ┃ 児玉忠康 ┣━━━┳━━━┳━━━┓ 児玉健 児玉進 児玉實 児玉博
史跡
脚注
- ^ 『武蔵武士 そのロマンと栄光』 1990年、『児玉の民話と伝説 (後編)』1992年、『ビジュアルヒストリー 本庄歴史館』 1997年、『本庄人物事典』 2003年、その他、1990年代から2000年代における児玉町及び本庄市発刊の書物において、児玉氏祖は惟行とし、遠岩の名は採用(支持)されていない。児玉郡域に遠岩の伝承がない上に、没年月日が惟行とほぼ重なるなど、不自然であり、創作と考えられる。
参考文献
- 「兒玉黨」笹川種郎著
- 「武蔵武士」渡辺世祐・八代国治共著
- 「戦前期日本官僚制の制度・組織・人事」 秦郁彦 東京大学出版会
- 「現代日本人名録 物故者編1901-2000」
- 「家紋を読む」ベスト新書 ISBN 4584120773