コンテンツにスキップ

「劉聡」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 言った → と言った
Telelen (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
40行目: 40行目:

10[[]][[]]

10[[]][[]]


[[309年]]、[[征夷大将軍]]の[[王弥]]、前鋒都督の[[石勒]]と[[壺関]]を攻めた。[[并州]][[刺史]]の[[劉琨]]は[[黄粛]]と[[韓述]]を派遣したが、劉聡は石勒と共にこれを撃破し、皆殺しにした。東海王[[司馬越]]は、[[淮南]][[内史]]の[[王曠]]と将軍の[[施融]]、[[曹超]]を派遣して劉聡軍を防がせた。劉聡は長平で敵軍と戦い、王曠を撃退し、施融、曹超を戦死させた。劉聡は[[屯留]]、[[長子県|長子]]を占領し、晋軍1万9000人余りを斬首又は捕縛した。[[上党郡|上党]][[太守]][[龐淳]]は壺関ごと漢に降伏した。


[[309]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[|]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]退[[]][[|]]19000[[|]][[]][[]]



[[8]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]退[[]][[]]

[[8]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]退[[]][[]]
58行目: 58行目:


=== 皇帝即位 ===

=== 皇帝即位 ===


[[]][[]][[]][[ ()|]][[ ()|]][[]][[]][[]][[ ()|]][[]]使[[]][[]][[]]

[[]][[]][[]][[ ()|]][[ ()|]][[]][[]][[]][[ ()|]][[]]使[[]][[]][[ ()|]]


[[9月]]、劉淵を永光陵へ葬り、諡号を光文皇帝、廟号を高祖とした。

[[9月]]、劉淵を永光陵へ葬り、諡号を光文皇帝、廟号を高祖とした。

69行目: 69行目:


=== 洛陽攻略 ===

=== 洛陽攻略 ===


104[[|]][[|]][[|]][[]][[]]退

104[[]][[|]][[|]][[|]][[]][[]]退



[[]][[]][[ ()|]][[]][[]]

[[]][[]][[ ()|]][[]][[]]


[[311年]][[4月]]、病死した東海王司馬越の棺を守り、[[山東]]に向かっていた[[王衍]]率いる晋軍10万余りを、石勒が壊滅させた。趙固と[[王桑]]は[[彭城]]を攻めて[[徐州]]刺史の[[裴盾]]を殺した。

[[311年]][[4月]]、病死した東海王司馬越の棺を守り、[[山東]]に向かっていた[[王衍]]率いる晋軍10万余りを、石勒が壊滅させた。[[趙固]]と[[王桑]]は[[彭城]]を攻めて[[徐州]]刺史の[[裴盾]]を殺した。




[[5]][[]][[]]使270003[[]][[]]

[[5]][[]][[]]使270003[[]][[ (西)|]]



6殿[[ (西)|]][[|]][[|]][[]]

6殿[[ (西)|]][[|]][[|]][[]]
88行目: 88行目:

10使[[]]

10使[[]]



[[]][[]][[ ()|]][[]][[]][[]][[|]][[]][[]][[]][[]][[]][[|]][[]][[|]]5[[]]10[[]][[]]退[[禿]][[]][[]]1

[[]][[]][[ ()|]][[]][[]][[]][[|]][[]][[]][[]][[]][[]][[|]][[]][[|]]5[[]]10[[]][[]]退[[]][[禿]][[]][[]]1


[[12月]]、豫州刺史の[[閻鼎]]らは晋の秦王[[愍帝 (西晋)|司馬鄴]]を皇太子に奉り、雍城に入ると[[関中]]の民は晋・[[胡|胡族]]関係なく皆これに応じた。

[[12月]]、豫州刺史の[[閻鼎]]らは晋の秦王[[愍帝 (西晋)|司馬鄴]]を皇太子に奉り、雍城に入ると[[関中]]の民は晋・[[胡|胡族]]関係なく皆これに応じた。



=== 暴政の兆し ===

=== 暴政の兆し ===

[[312年]][[1月]]、呼延皇后が亡くなると、劉聡は王育・[[任凱]]・[[朱紀]]・馬景ら国家の重鎮の娘6人を[[後宮]]に入れた。太保[[劉殷]]の娘まで後宮に入れようとしたが、同じ劉姓であったことから劉乂が固く諫めた。劉聡は年老いた伯父の太宰[[劉延年]]・太傅劉景にこのことを問うと、劉景らは「臣は太保の劉殷が[[周]]王室系の劉の康公(姫季子)の子孫であると聞いております。陛下の家系とは違っておりますので、何の問題もないでしょう」と答えた。劉聡は大いに喜び、[[大鴻臚]]の[[李弘 (前趙)|李弘]]を遣わして劉殷の娘2人([[劉英 (前趙)|劉英]]と[[劉娥 (前趙)|劉娥]])を左右の貴嬪とし、[[昭儀]]より上位に置いた。また、劉殷の孫娘4人を貴人とし、貴嬪に次ぐ位とした。劉聡が劉弘へ「この女たちは皆、容姿が絶世のものである上に徳も世に冠たるものである。朕と太保劉殷とは別の家系であるから彼女らを娶ったのだが、卿はどう思う」と問うと、劉弘は「陛下とは姓が同じであるだけですので何も問題ないでしょう。魏の司空であった[[王基]]は当時における大儒で礼にも通じていましたが、同姓ながら家系の異なる太原の[[王沈]]の娘を子のために妻に迎えました」と言った。劉聡は大いに喜び、李弘に黄金六十斤を下賜して「卿はこの事を朕の子弟に伝えるように」と言った。6人の劉氏への寵愛は後宮を傾ける程であり、劉聡はめったに外へ出なくなり、政務を顧みなくなった。国事は全て中黄門が上奏して、左貴嬪の劉英がこれを認可した。


[[312]][[1]][[]][[]]6[[]][[]][[]][[]]{{| ()|label=|zh|}}[[]][[ ()|]]2[[ ()|]][[ ()|]][[]]4姿[[]][[]]6


この頃から劉聡に暴虐な振る舞いが増えた。左都水使者である襄陵王の[[劉攄]]は食膳に魚蟹を供出しなかったという理由で死罪となった。将作大匠である望都公の[[靳陵]]は温明殿と徽光殿を完成が遅かったという理由で斬られた。

この頃から劉聡に暴虐な振る舞いが増えた。左都水使者である襄陵王の[[劉攄]]は食膳に魚蟹を供出しなかったという理由で死罪となった。将作大匠である望都公の[[靳陵]]は温明殿と徽光殿を完成が遅かったという理由で斬られた。

99行目: 99行目:

[[]][[]][[]][[]][[]]

[[]][[]][[]][[]][[]]


3月、代公拓跋猗盧が兵を率いて晋陽救援に向かった。漢軍は敗れて晋陽から撤退した<ref>『晋書』卜珝伝では「卜珝の兵が先に撤退したために、靳沖は卜珝を捕らえて処刑した。劉聡は激怒して、使者を送って靳沖を処刑した」と記載されている。しかし、劉聡載記ではこれより後の、太原攻撃中に靳沖は卜珝を斬り、劉聡が靳沖を処刑することになっている。</ref>。

3月、代公[[拓跋猗盧]]が兵を率いて晋陽救援に向かった。漢軍は敗れて晋陽から撤退した<ref>『晋書』卜珝伝では「卜珝の兵が先に撤退したために、靳沖は卜珝を捕らえて処刑した。劉聡は激怒して、使者を送って靳沖を処刑した」と記載されている。しかし、劉聡載記ではこれより後の、太原攻撃中に靳沖は卜珝を斬り、劉聡が靳沖を処刑することになっている。</ref>。



劉聡の遊猟には節度がなく、朝早くに出かけて夜に帰った。汾水で漁の見物を行い、夜になっても灯りをともし続けた。中軍の[[王彰]]は「大難は未だ鎮まっておらず、晋の残党が長安におります。しかしながら、陛下は白竜魚服の災いを忘れ、いつも夜遅くまで帰られません。陛下は先帝の苦労をよく考え、これを受け継ぐべきです。そうすれば、自然と天下の民は情を寄せてきます。にもかかわらず、なぜ自ら成功の道を閉ざすのでしょうか。なぜ堕落の道を選ぶのでしょうか。最近の陛下の振る舞いを観ますに、臣はひどく心を痛めております。人々の心はまだ漢だけに傾いておらず、晋を懐かしむ者もおります。そのうえ、劉琨は遠からぬ地にあり、すぐにでも刺客を送り込むことができます。帝王であろうともひとたび身辺を手薄にして外出すれば、一夫の者でも敵となり得ます。どうか陛下には今までの行いを改め、善行を積んで民の幸いに助力されますように」と諫めた。これを聞いた劉聡は激怒して彼を処刑するよう命じた。だが、上夫人の王氏が叩頭して助命を嘆願したため、命だけは助け、獄に繋ぐよう命じた。母の張氏は劉聡が怒りに任せて刑を乱発するので、大いに心を痛めて三日に渡って食事を取らなかった。また、弟の劉乂や子の劉粲も、劉聡を厳しく諫めた。劉聡はまた怒り「朕が[[夏 (三代)|夏]]の[[桀|桀王]]、[[殷]]の[[紂王]]、[[周]]の[[幽王 (周)|幽王]]や[[レイ王 (周)|厲王]]のような暴君だというのか。汝らはなぜこのようなやつのために涙を流すのだ」と言った。太宰の劉延年を始め諸公卿列侯100人余りが劉聡の前に赴き、みな冠を外して涙を流しながら「光文帝(劉淵)は、聖なる武をもってよって期を見定めて大業を興しました。だが、天下はいまだ定まらず、陛下はその徳によって事業を受け継ぎ、東に洛陽を、南に長安を平定しました。その功績は周の成王に匹敵し、徳は夏の啓王を超越しております。さながら唐・虞([[堯]]と[[舜]])を見ているようです。しかし近年は、僅かな誤りで王公を処刑し、直言をしたことで大将を獄に繋ぎました。また、遊猟にも節度がなく、朝政を顧みようとなさりません。臣らにはその意味を理解することができず、心を痛めて寝食を忘れるほどであります」と固く諫めて言った。ここに至って、ようやく劉聡は怒りを収めて王彰を許した。


[[]][[ ()|]][[|]][[]][[]][[]][[ ()|]][[ ()|]]100[[ ()|]][[|]][[]][[]]


劉聡は「あの発言は酔っての事であり、本心ではない。卿らの諫言がなければ、朕は過失に気がつかなかっただろうな」と言い、それぞれに帛百匹を下賜し、王彰は釈放された。侍中が劉聡の言葉を王彰に伝え「先帝は君を左右の手の如く頼ってきた。朕は君の功績を忘れたことがない。今回の事は気にせず、今後も国のために直言してほしい。君を[[驃騎将軍]]に任じ、定襄郡公に封じることにする」と述べた。

劉聡は「あの発言は酔っての事であり、本心ではない。卿らの諫言がなければ、朕は過失に気がつかなかっただろうな」と言い、それぞれに帛百匹を下賜し、王彰は釈放された。侍中が劉聡の言葉を王彰に伝え「先帝は君を左右の手の如く頼ってきた。朕は君の功績を忘れたことがない。今回の事は気にせず、今後も国のために直言してほしい。君を[[驃騎将軍]]に任じ、定襄郡公に封じることにする」と述べた。






[[]]


=== 懐帝殺害 ===

=== 懐帝殺害 ===


[[|]][[|]]退

[[|]]{{| (西)|label=|zh| ()}}[[|]]退


4月、賈疋・麹特らが長安を数か月に渡って包囲すると、劉曜は幾度も破れ、士女8万家余りを引き連れて平陽に戻った。漢軍が撤退すると、司馬鄴は長安に入った。

4月、賈疋・麹特らが長安を数か月に渡って包囲すると、劉曜は幾度も破れ、士女8万家余りを引き連れて平陽に戻った。漢軍が撤退すると、司馬鄴は長安に入った。

118行目: 118行目:

6

6



[[ ()|]][[ ()|]]西西西[[]][[]]

[[ ()|]]西西西[[]][[]]



[[]][[]][[]]1西[[]]

[[]][[]]1西[[]][[]]



8[[]][[|]][[]][[]][[]][[]]退[[]]

8[[]][[]][[]][[]][[]]退



[[]]

[[]][[]][[]][[]][[ ()|]]



9

9[[]]



10

10[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[ ()|]][[ ()|]]{{||label=|zh|}}



[[]][[]]20[[|]][[]]退11[[]][[]][[]][[]][[ ()|]][[]][[]][[]][[]]

[[]][[]]20[[|]][[]]退11[[]][[]][[]][[ ()|]][[]][[]][[]]


12月、張氏を皇后に立て、父の張寔を左光禄大夫に任じた。

12月、張氏を皇后に立て、父の[[張寔 (前趙)|張寔]]を左光禄大夫に任じた。



彭天護が少数民族を率いて賈疋を攻撃した。彭天護はわざと途中で撤退し、賈疋は追撃するも夜の山路で谷に落ちた。彭天護は賈疋を捕えて殺害し、功績により劉聡は涼州刺史に任じた。

[[彭天護]]が少数民族を率いて賈疋を攻撃した。彭天護はわざと途中で撤退し、賈疋は追撃するも夜の山路で谷に落ちた。彭天護は賈疋を捕えて殺害し、功績により劉聡は涼州刺史に任じた。



[[313年]]1月、関中の司馬鄴政権が活発となると、劉聡は次第に懐帝を疎ましく思うようになった。劉聡は光極前殿において懐帝に命じ、人々に酒を注がせた。光禄大夫の庾珉・[[王儁]]らは立ち上がって慟哭したために、劉聡はこれを不快に思った。この時期、王儁らが平陽で劉琨に呼応しようと謀っていると密告する者がおり、劉聡は懐帝を毒殺し、王儁を始め晋の旧臣10人余りを誅殺した。また懐帝に賜った劉夫人を自らの貴人に戻し、境内の死罪以下に大赦を施行した。

[[313年]]1月、関中の司馬鄴政権が活発となると、劉聡は次第に懐帝を疎ましく思うようになった。劉聡は光極前殿において懐帝に命じ、人々に酒を注がせた。光禄大夫の庾珉・[[王儁]]らは立ち上がって慟哭したために、劉聡はこれを不快に思った。この時期、王儁らが平陽で劉琨に呼応しようと謀っていると密告する者がおり、劉聡は懐帝を毒殺し、王儁を始め晋の旧臣10人余りを誅殺した。また懐帝に賜った劉夫人を自らの貴人に戻し、境内の死罪以下に大赦を施行した。

143行目: 143行目:

[[3月]]、[[劉娥 (前趙)|劉娥]]を皇后に立てると、彼女のために皇儀殿を建造すると宣言した。

[[3月]]、[[劉娥 (前趙)|劉娥]]を皇后に立てると、彼女のために皇儀殿を建造すると宣言した。




[[]] 殿殿西[[]][[]]殿[[]][[ ()|]][[]]

[[]] 殿殿西[[ ()|]][[]][[]][[]]殿[[]][[ ()|]][[]]


これを聞いた劉聡は激怒して「朕は万事の主となって一宮殿の造営をするのに、どうして汝のような鼠子に問うことがあろうか。この男を殺さねば朕の心は乱れたままで、朕の宮殿も完成などするまい。その妻子とともに引き出して斬り、東市にさらしてから鼠と一緒に穴に埋めてしまえ」と汚く罵り、陳元達の妻子とともにこれを処刑しようとした。この時、逍遙園に李中堂があったが、陳元達は李中堂下の樹にしがみつくと「臣の申し上げるところは社稷の計であるのにも関わらず、陛下が臣を殺されるならば、上は天に訴え、下は先帝に訴えます。朱雲はかつて『臣は地下において龍逢や比干と知り合うことができれば満足です』と言いましたが、陛下は誰と知り合うことになるのでしょうか」と叫んだ。


殿殿[[]]{{||label=|zh|}}[[]]



[[]][[]][[]][[ ()|]]殿殿  

[[]][[]][[]][[ ()|]]殿殿  
153行目: 153行目:

4月、晋の愍帝が長安に即位した。劉聡は劉曜と[[司隷校尉]]の[[喬智明]]・武牙将軍の[[李景年]]らを派遣して長安を攻撃させ、趙染にも軍を率いて続かせた。

4月、晋の愍帝が長安に即位した。劉聡は劉曜と[[司隷校尉]]の[[喬智明]]・武牙将軍の[[李景年]]らを派遣して長安を攻撃させ、趙染にも軍を率いて続かせた。




67西西 西退

67西西 [[]]西退



9105000[[]]100011 

9105000[[]]1000[[]]11 



[[]][[]]

[[]][[]]
164行目: 164行目:

同月、丞相始め七公を設置し、嫡男の劉粲を[[丞相]]・領大将軍・録尚書事に任じ、晋王に進封して五郡を食ませた。江都王劉延年を録尚書六條事、汝陰王劉景を太師、王育を太傅、任凱を太保、馬景を大司徒、朱紀を大司空、劉曜を大司馬にそれぞれ任じた。輔漢・都護・中軍・上軍・輔軍・鎮衛・鎮京・前軍・後軍・左軍・右軍・下軍・輔国・冠軍・龍驤・武牙の十六大将軍を設置し、各々2000の兵卒を配備し、全て諸子を任命した。また、左右の[[司隷]]を置き、各々に20万戸の領民を領させ、1万戸毎に内史を一人置いた。単于左右輔を置き、各々に夷狄10万落を領させ、1万落毎に都尉を1人置いた。左右選曹尚書を置き、選挙を掌握させた。以上の司隷以下6官について、その位は[[僕射]]に準じることにした。 また、劉易を太尉に任じ、始めて[[相国]]の位を設置し、七公で勲徳のあった者が亡くなった際に贈ることとした。さらに、[[御史大夫]]及び[[州牧]]を置き、位は公に等しいものとした。

同月、丞相始め七公を設置し、嫡男の劉粲を[[丞相]]・領大将軍・録尚書事に任じ、晋王に進封して五郡を食ませた。江都王劉延年を録尚書六條事、汝陰王劉景を太師、王育を太傅、任凱を太保、馬景を大司徒、朱紀を大司空、劉曜を大司馬にそれぞれ任じた。輔漢・都護・中軍・上軍・輔軍・鎮衛・鎮京・前軍・後軍・左軍・右軍・下軍・輔国・冠軍・龍驤・武牙の十六大将軍を設置し、各々2000の兵卒を配備し、全て諸子を任命した。また、左右の[[司隷]]を置き、各々に20万戸の領民を領させ、1万戸毎に内史を一人置いた。単于左右輔を置き、各々に夷狄10万落を領させ、1万落毎に都尉を1人置いた。左右選曹尚書を置き、選挙を掌握させた。以上の司隷以下6官について、その位は[[僕射]]に準じることにした。 また、劉易を太尉に任じ、始めて[[相国]]の位を設置し、七公で勲徳のあった者が亡くなった際に贈ることとした。さらに、[[御史大夫]]及び[[州牧]]を置き、位は公に等しいものとした。




56100

56[[]]100


劉曜と趙染が将軍の殷凱と共に数万の兵を率いて長安に向かうと、雍州刺史の麹允が馮翊で迎撃したが、敗れて撤退した。しかしその夜、麹允が殷凱の陣営に夜襲を掛け、殷凱は敗死した。劉曜は軍を戻して懐城の郭黙を攻め、米粟八十万石を収めてから三屯を連ねて包囲した。郭黙は食糧が尽きると妻子を人質に送って投降する旨を伝え、食糧を求めた。漢軍が郭黙に食糧を提供すると、郭黙は再び城門を閉じて城を守った。激怒した劉曜は郭黙の妻子を黄河に沈めると、攻撃を再開した。だが、劉琨が派遣した参軍張肇が鮮卑500騎余りを率いて到来した。また、劉聡が使者を派遣して劉曜へ「長安はひとまず置いておくのだ。晋陽の劉琨こそ国家にとって先に除くべきものである。郭黙などは小醜に過ぎず公の神略を労する必要はないので、征虜将軍・貝丘王の翼光を留めて包囲させ、公は帰還するように」と伝えたために、劉曜は[[蒲坂]]に兵を戻したが、劉聡はこれを招集して輔政させた。趙染が北地を攻めたが、城を攻める最中、矢に当たって戦死した。


[[]]退[[]]500使[[]][[]]


[[11月]]、劉粲を相国に任じて百揆を監督させ、丞相の位を撤廃して相国と統合した。

[[11月]]、劉粲を相国に任じて百揆を監督させ、丞相の位を撤廃して相国と統合した。

173行目: 173行目:


=== 佞臣の暗躍 ===

=== 佞臣の暗躍 ===

[[315年]]、劉聡は中護軍靳準の娘である[[靳月光]]と靳月華が共に殊色があることから、左右の貴嬪に立てた。数か月、靳月光を皇后に立てた。さらに後、靳月光を[[上皇后]]に立て、貴妃劉氏を左皇后に、右貴妃靳氏を右皇后に立てた。陳元達はこの立后について言葉を尽くして諫めたが、劉聡はこれを不快に思い、陳元達を右光禄大夫に任じ、表向きは賢人を優遇することを示しながら、実際にはその権限を奪った。[[太尉]]の范隆・[[大司馬]]の劉丹・[[大司空]]の[[呼延晏]]・[[尚書令]]の王鑒らが皆上表し、自らの地位を陳元達に譲ってでも、この人事を止めるよう懇願した。これを受けた劉聡は、仕方なく陳元達を[[御史大夫]]、儀同三司に任じた。


[[315]][[|]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]{{| ()|label=|zh| ()}}[[]]



3[[]][[]][[]][[]]

3[[]][[]]


青州刺史の曹嶷が斉の地一帯を攻略し、その兵が10万余りを数えるようになると石勒は曹嶷が二心を抱いているとして、これを討つことを請うた。劉聡は石勒が斉の地を併呑することを恐れ、これを許さなかった。

青州刺史の曹嶷が斉の地一帯を攻略し、その兵が10万余りを数えるようになると石勒は曹嶷が二心を抱いているとして、これを討つことを請うた。劉聡は石勒が斉の地を併呑することを恐れ、これを許さなかった。



8月、劉曜が盟津を渡って河南を攻撃すると、晋の将軍[[魏該]]は逃亡した。劉曜は進んで滎陽の[[李矩]]を攻め、李矩は将軍李平を成皋に派遣したが劉曜はこれを滅ぼした。李矩は恐れを抱き、人質を送って降伏を請うた。劉曜はその後長安を攻めたが、幾度も晋軍に敗れ、軍を引いて帰還した。劉曜は[[上党]]に軍を進めて陽曲を攻めようとすると、劉聡が使者を遣わして劉曜へ「長安がいまだに余命を保っていることは、国家の深く恥じるところである。公は長安を先にして、陽曲は驃騎将軍に任せるように。」と述べた。劉曜は軍を転進して[[郭邁]]を討つと、劉聡のもとへ帰還した後に[[蒲阪]]へ赴いた。

8月、劉曜が盟津を渡って河南を攻撃すると、晋の将軍[[魏該]]は逃亡した。劉曜は進んで滎陽の[[李矩]]を攻め、李矩は将軍[[李平]]を成皋に派遣したが劉曜はこれを滅ぼした。李矩は恐れを抱き、人質を送って降伏を請うた。劉曜はその後長安を攻めたが、幾度も晋軍に敗れ、軍を引いて帰還した。劉曜は[[上党]]に軍を進めて陽曲を攻めようとすると、劉聡が使者を遣わして劉曜へ「長安がいまだに余命を保っていることは、国家の深く恥じるところである。公は長安を先にして、陽曲は驃騎将軍に任せるように。」と述べた。劉曜は軍を転進して[[郭邁]]を討つと、劉聡のもとへ帰還した後に[[蒲阪]]へ赴いた。




9[[]][[]]

9[[]][[]]



10[[]][[]]

10[[]][[]][[]][[]]



姿[[|]]

姿



[[ ()|]][[]][[]][[]][[]]30 

[[ ()|]][[]][[]][[]][[]]30 


[[316年]]1月、郭猗は劉乂に対して怨みがあり、劉粲に向かって、劉乂が大将軍らと共に3月に大宴会を開き、それをきっかけに造反するつもりであると、嘘の発言をした。また、大将軍従事中郎の[[王皮]]・衛軍司馬の[[劉惇]]もこれに加担し、劉粲へ偽りの進言をしたので、劉粲はそれを信用した。

[[316年]]1月、郭猗は劉乂に対して怨みがあり、劉粲に向かって、劉乂が大将軍らと共に3月に大宴会を開き、それをきっかけに造反するつもりであると、嘘の発言をした。また、大将軍従事中郎の[[王皮]]・衛軍司馬の[[劉惇 (前趙)|劉惇]]もこれに加担し、劉粲へ偽りの進言をしたので、劉粲はそれを信用した。




[[]]




劉聡は[[315年]]の冬より朝政に出席しなくなり、軍事・政務に関しては全て[[劉粲]]に任せ、刑事の執行と官爵の授与については王沈・郭猗らを通して行わせた。しかし、王沈はほとんど奏上せず、独断で決した。   

劉聡は[[315年]]の冬より朝政に出席しなくなり、軍事・政務に関しては全て[[劉粲]]に任せ、刑事の執行と官爵の授与については王沈・郭猗らを通して行わせた。しかし、王沈はほとんど奏上せず、独断で決した。   



[[2月]]、劉聡は少府の[[陳休]]と左衛将軍の[[ト崇]]を始め、[[特進]]の[[綦毋達]]・太中大夫の[[公師彧]]・[[尚書]]の[[王琰]]・[[田歆]]・[[大司農]]の朱誕らをみな誅殺した。彼らは、王沈を始めとした宦官が忌み嫌っていた者達であった。[[侍中]]の[[卜幹]]は泣いて劉聡を諫め「陛下は今まで賢人を求めて側近に侍らせてきましたが、今、一度に七人もの卿大夫を殺戮なされます。陛下は忠良な者を先に誅して後はどうされるのでしょうか。仮に彼等が有罪だとしても、陛下は裁判という正式な手順を踏まずに処罰なさるのです。天下の人々がどうして靡くでしょうか。それに、詔は臣の職務ですが、今回の件では何の相談にも預かっておりません。昔、秦が三人の臣下を殺したとき、君子は秦の穆公が覇者になれないことを知ったのです。どうか陛下、よくお考え直しくださいませ」と言い、叩頭して流血した。王沈は卜幹を叱責し「卜侍中は詔を拒むというのか」と言った。劉聡はその諫言を聞き入れず、衣を引いて奥へ入ると、卜幹を免官して庶人に落とした。


[[2]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[ ()|]]



[[]][[]][[]][[]][[]][[ ()|]][[]][[]][[]][[]]

[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[ ()|]][[]][[]][[]][[]]


劉聡はこの上表文を王沈らに見せると、笑って「陳元達が言うには、汝(王沈)らは痴れ者だそうだ」と言い、そのまま対応することなく横になった。王沈は頓首して涙を流し「臣らは小人であって陛下の抜擢を受けましたが、王公朝士は臣らを仇のように憎んでおり、また深く陛下を恨んでおります。どうか臣らを廃して廷内の上下の和を結ばれますように」と言った。劉聡は「この文は偽りであり、卿はどうして恨まれることがあるというのか」と答えた。さらに嫡子の劉粲に問うと、劉粲は王沈らが王室に忠誠を尽くしていると盛んに称賛した。劉聡は大いによろこび、王沈らを封じて列侯とした。

劉聡はこの上表文を王沈らに見せると、笑って「陳元達が言うには、汝(王沈)らは痴れ者だそうだ」と言い、そのまま対応することなく横になった。王沈は頓首して涙を流し「臣らは小人であって陛下の抜擢を受けましたが、王公朝士は臣らを仇のように憎んでおり、また深く陛下を恨んでおります。どうか臣らを廃して廷内の上下の和を結ばれますように」と言った。劉聡は「この文は偽りであり、卿はどうして恨まれることがあるというのか」と答えた。さらに嫡子の劉粲に問うと、劉粲は王沈らが王室に忠誠を尽くしていると盛んに称賛した。劉聡は大いによろこび、王沈らを封じて列侯とした。

204行目: 204行目:


=== 西晋の滅亡 ===

=== 西晋の滅亡 ===

7月、[[北地郡|北地]]での飢饉が悪化して人々は互いに食い合うまでとなった。劉曜が北地太守の麹昌を包囲すると、羌酋軍須は軍糧を麹昌に供給したが、劉雅がこれを破った。麹允は歩騎3万を率いて北地に向かうも。劉曜が破った。劉曜が追撃を掛けると、磻石谷で再び破り、麹允は霊武に撤退し、劉曜は北地を占領した。北地を占領した劉曜は[[涇陽]]に進み、渭北の諸城が壊滅した。劉曜は建威将軍[[魯充]]、散騎常侍[[梁緯]]、少府[[皇甫陽]]を捕虜にした。

7月、[[北地郡|北地]]での飢饉が悪化して人々は互いに食い合うまでとなった。劉曜が北地太守の[[麹昌]]を包囲すると、羌酋軍須は軍糧を麹昌に供給したが、劉雅がこれを破った。麹允は歩騎3万を率いて北地に向かうも。劉曜が破った。劉曜が追撃を掛けると、磻石谷で再び破り、麹允は霊武に撤退し、劉曜は北地を占領した。北地を占領した劉曜は[[涇陽]]に進み、渭北の諸城が壊滅した。劉曜は建威将軍[[魯充]]、散騎常侍[[梁緯]]、少府[[皇甫陽]]を捕虜にした。




1056[[]]220

1056[[]]220[[]]



471000

471000
249行目: 249行目:


=== 最期 ===

=== 最期 ===

318年3月、李矩が郭黙・郭誦に命じて趙固を救援させ、耿稚・張皮を密かに渡河させて劉粲を襲った。貝丘王の劉翼光がこれを察知して劉粲に告げたが、劉粲は備えなかった。この夜、耿稚らが劉粲の軍を襲って破り、劉粲は陽郷に撤退し、耿稚は劉粲の砦に軍糧を集めて拠った。劉雅生はこれを聞いて駆けつけ、砦外に陣営を設けて耿稚と対峙した。劉聡が劉粲の敗北を聞いて太尉范隆に騎兵を率いて赴かせると、耿稚らは恐れて5000の兵を率いて包囲を突破し、北山に逃走して南へ向かった。劉勲がこれを追撃し、河陽で戦って耿稚を大破して3500人を殺害し、また河に投じて死亡した晋兵も1000人余りに及んだ。


3183[[]][[]]退500035001000


平陽の螽斯則百堂で火災が発生し、劉聡の子である会稽王劉衷以下21人が焼死した。劉聡はこれを聞いて悲しみのあまり気絶し、しばらくしてようやく意識を回復した。

平陽の螽斯則百堂で火災が発生し、劉聡の子である会稽王[[劉衷]]以下21人が焼死した。劉聡はこれを聞いて悲しみのあまり気絶し、しばらくしてようやく意識を回復した。



驃騎大将軍・済南王の劉驥を大将軍・都督中外諸軍事・録尚書に任じ、衛大将軍・斉王の劉勱を大司徒に任じた。

驃騎大将軍・済南王の劉驥を大将軍・都督中外諸軍事・録尚書に任じ、衛大将軍・斉王の[[劉勱]]を大司徒に任じた。




14[[]][[]][[ ()|]][[ ()|]][[ ()|]]

14[[]][[]][[]][[]][[ ()|]][[ ()|]][[ ()|]]



姿

姿


7月、劉虎が朔方から代王拓跋鬱律の西部を攻撃するも、返り討ちに遭った。劉虎は逃走し、従弟の劉路孤は部落を率いて拓跋鬱律に帰順した。


7[[]]西{{||label=|zh|}}



退

[[]]退


間もなく劉聡は亡くなった。在位すること9年で昭武皇帝と追諡し、廟号を烈宗とした。

間もなく劉聡は亡くなった。在位すること9年で昭武皇帝と追諡し、廟号を烈宗とした。

272行目: 272行目:

* 劉聡の暴政を暗示するためか、『[[晋書]]』には以下のような怪異な出来事が度々記載されている。

* 劉聡の暴政を暗示するためか、『[[晋書]]』には以下のような怪異な出来事が度々記載されている。

# [[314年]]1月、隕石の破片が平陽に墜落した後、その破片から臭いが発せられ、平陽にまで達した。また、破片の側からは昼夜関係なく哭声が聞こえた。ちょうど同じ時期、劉娥が一匹の蛇と一退匹の猛獣を産み、それらは走り出て人を殺害した。そのまま姿が見えなくなったが、しばらくして先に墜落した破片の傍らで発見された。その時、突然劉娥は亡くなり、破片が消えてなくなり哭声も止んだ。これ以降後宮が乱れたという。

# [[314年]]1月、隕石の破片が平陽に墜落した後、その破片から臭いが発せられ、平陽にまで達した。また、破片の側からは昼夜関係なく哭声が聞こえた。ちょうど同じ時期、劉娥が一匹の蛇と一退匹の猛獣を産み、それらは走り出て人を殺害した。そのまま姿が見えなくなったが、しばらくして先に墜落した破片の傍らで発見された。その時、突然劉娥は亡くなり、破片が消えてなくなり哭声も止んだ。これ以降後宮が乱れたという。

# 314年11月、平陽で地震が発生し、激しい風が起こって木を引き抜き家の屋根を破壊した。光義の人である羊充の妻が双頭の子を産んだ。羊充の兄はその子を食べ、その兄は三日後に亡くなった。

# 314年11月、平陽で地震が発生し、激しい風が起こって木を引き抜き家の屋根を破壊した。光義の人である[[羊充]]の妻が双頭の子を産んだ。羊充の兄はその子を食べ、その兄は三日後に亡くなった。

# 315年初旬、漢の宮中で、鬼が夜哭きした。それは3日間続き、鬼の声は右司隸の屋敷に移った所で聞こえなくなった。

# 315年初旬、漢の宮中で、鬼が夜哭きした。それは3日間続き、鬼の声は右司隸の屋敷に移った所で聞こえなくなった。

# 315年中旬、平陽において地震が発生し、東宮には血雨が降った。血雨は広範囲に広がり、後に止んだ。

# 315年中旬、平陽において地震が発生し、東宮には血雨が降った。血雨は広範囲に広がり、後に止んだ。

278行目: 278行目:

# 316年中旬、犬と豚が相国府の門、宮門、司隷の御史の門で交わった。豚は賢冠をつけて劉聡の朝廷の席に昇った。犬もまた武冠をつけて綬を帯び、豚と共に朝廷に上った。その後、殿上において犬と豚は闘死した。宿衛の者でこの2匹が朝廷内に入るところを見た者はいなかったという。その後、劉聡の暴虐ぶりは甚だ激しくなり、何者も恐れなくなったという。

# 316年中旬、犬と豚が相国府の門、宮門、司隷の御史の門で交わった。豚は賢冠をつけて劉聡の朝廷の席に昇った。犬もまた武冠をつけて綬を帯び、豚と共に朝廷に上った。その後、殿上において犬と豚は闘死した。宿衛の者でこの2匹が朝廷内に入るところを見た者はいなかったという。その後、劉聡の暴虐ぶりは甚だ激しくなり、何者も恐れなくなったという。

# 316年末、漢の東宮の四つの門が理由もなく崩壊し、突然内史の女人が男に変じた。

# 316年末、漢の東宮の四つの門が理由もなく崩壊し、突然内史の女人が男に変じた。

# 317年初旬、東宮において鬼が哭いた。また、南の一端が分岐した赤い虹が天にかかった。その虹は三日に渡って照り続け、各々に5色の光輪があり、甚だ鮮明であった。さらに、[[客星]]が[[紫微垣|紫宮]]を辿って天獄に入ってから消えるという異変が起こった。太史令の康相は劉聡に対して「虹が天に現れて南側分岐しており、三日に渡って照りました。また、客星が紫宮に入りました。これらは皆大きな異変であって遠からずこの示唆するものが起きるでしょう。今、虹が東西にわたっているということは、許洛以南の攻略を企ててはならないということです。南が別れているのは李氏が巴蜀に跨拠し、司馬睿が全呉の地に拠って天下が三分することを示しています。月は胡王を暗示しております。漢は二京を包括し、龍騰(英雄)や九五(天子の位)を得ましたが、次第に燕・代が精強となり、北朔の地に基盤を築き、太陰の変は漢域に至るでしょう。漢はすでに中原の地に拠って暦命に属しておりが、紫宮の異変に関しても他ではありません。石勒は趙魏の地を、曹嶷は東斉の地をそれぞれ狙っており、鮮卑の衆は燕代に分布しており、斉・代・燕・趙の地には皆強大となる気があります。どうか陛下には東夏の地、西南の地をお考えになりませんように。呉蜀は北侵することはできませんが、これはちょうど大漢が南へ向かえないのと同様です。今、都の守りは弱く、石勒の兵は精強であります。もし趙魏の精鋭をあげ燕の突騎をもって上党から来攻し、曹嶷が三斉の衆をもってこれに続いたら陛下はどうやってこれに対抗しようというのでしょうか。紫宮の変はここにあるのです。陛下にあっては、早くこれに対処されて、人に反逆の心が起きないようにする事を願います。陛下は詔を発し、外にあっては秦皇、漢武のように遠方を従え、内にあっては高帝が楚を図るが如く計を為していただきますよう。そうすれば、失敗することなどありましょうか」と進言した。劉聡はこれを聞くと大いに不快がったという。


# 3175[[]][[|]]辿西[[ ()|]]西[[|]][[ ()|]][[|]]

# 317年4月、劉乂の死後、汾河は大いに溢れ、千家余りが流された。また、東宮に災異が発生し、門閤宮殿が崩壊し跡形もなくなったという。

# 317年4月、劉乂の死後、汾河は大いに溢れ、千家余りが流された。また、東宮に災異が発生し、門閤宮殿が崩壊し跡形もなくなったという。

# 318年中旬、螽斯則百堂で火災が起きた後の事、突然平陽の西明門が崩壊し、霍山が崩壊したという。

# 318年中旬、螽斯則百堂で火災が起きた後の事、突然平陽の西明門が崩壊し、霍山が崩壊したという。

293行目: 293行目:

*河内王[[劉粲]](隠帝)

*河内王[[劉粲]](隠帝)

*彭城王[[劉翼]]

*彭城王[[劉翼]]

*高平王[[劉悝]]

*高平王[[劉カイ (前趙)|劉悝]]

*渤海王[[劉敷]]

*渤海王[[劉敷]]

*河南王[[劉 (前趙)|劉驥]]

*河南王[[劉 (前趙)|劉驥]]

*燕王[[劉鸞]]

*燕王[[劉鸞]]

*楚王[[劉鴻]]

*楚王[[劉鴻]]


2017年9月17日 (日) 16:19時点における版

昭武帝 劉聡
第3代皇帝
王朝
在位期間 310年 - 318年
姓・諱 劉聡
劉戴[1]
玄明
諡号 昭武皇帝
廟号 烈宗
生年 不詳
没年 麟嘉3年7月19日
318年8月31日
光文帝
光献皇后
后妃 #后妃参照
陵墓 宣光陵
年号 光興 : 310年 - 311年
嘉平 : 311年 - 315年
建元 : 315年 - 316年
麟嘉 : 316年 - 318年

  3[1]西西


14100()5015300

20簿



304鹿


10

308

10

309退19000

8退

105l西1000退 

退退10003000 殿殿

3107


8西



西西


使

9



姿

 


104退



311410

5使270003

6殿





8西西29

10使

510退禿1

12


3121624姿6

使殿殿



3退[2]

100





退

48退





6

西西西

1西

8退



9

10

20退11

12

退

3131殿10



3殿

 殿殿西殿

殿殿

殿殿  



4

67西西 西退

9105000100011 



3141


200020110116 

56100

退500使

11



315

3

10

8使

9

10

姿

30 

31613



315   

2






西


73退

1056220

471000



84退

9殿

11西



3171

2使10001000

3殿使10

4

 2

1500010



7


81000

10

12殿姿

31

10退


3183退500035001000

21



14

姿

7西

退

9

1


15





(一)3141退姿

(二)31411

(三)3153

(四)315

(五)316

(六)316殿宿2

(七)316

(八)3175辿西西

(九)3174殿

(十)318西

(11)3187殿殿















































  1. ^ a b 晋書載記第2 劉聡載記
  2. ^ 『晋書』卜珝伝では「卜珝の兵が先に撤退したために、靳沖は卜珝を捕らえて処刑した。劉聡は激怒して、使者を送って靳沖を処刑した」と記載されている。しかし、劉聡載記ではこれより後の、太原攻撃中に靳沖は卜珝を斬り、劉聡が靳沖を処刑することになっている。

参考文献