「劉聡」の版間の差分
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10月、劉淵は[[皇帝]]の座につくと、劉聡は[[車騎将軍]]に任じられた。その後、楚王に封じられた。
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10月、劉淵は[[皇帝]]の座につくと、劉聡は[[車騎将軍]]に任じられた。その後、楚王に封じられた。
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[[309年]]、[[征夷大将軍]]の[[王弥]]、前鋒都督の[[石勒]]と[[壺関]]を攻めた。[[并州]][[刺史]]の[[劉琨]]は[[黄粛]]と[[韓述]]を派遣したが、劉聡は石勒と共にこれを撃破し、皆殺しにした。東海王[[司馬越]]は、[[淮南]][[内史]]の[[王曠]]と将軍の[[施融]]、[[曹超]]を派遣して劉聡軍を防がせた。劉聡は長平で敵軍と戦い、王曠を撃退し、施融、曹超を戦死させた。劉聡は[[屯留]]、[[長子県|長子]]を占領し、晋軍1万9000人余りを斬首又は捕縛した。[[上党郡|上党]][[太守]][[龐淳]]は壺関ごと漢に降伏した。 |
[[309年]]、[[征夷大将軍]]の[[王弥]]、前鋒都督の[[石勒]]と[[壺関]]を攻めた。[[并州]][[刺史]]の[[劉コン|劉琨]]は[[黄粛]]と[[韓述]]を派遣したが、劉聡は石勒と共にこれを撃破し、皆殺しにした。東海王[[司馬越]]は、[[淮南]][[内史]]の[[王曠]]と将軍の[[施融]]、[[曹超]]を派遣して劉聡軍を防がせた。劉聡は長平で敵軍と戦い、王曠を撃退し、施融、曹超を戦死させた。劉聡は[[屯留]]、[[長子県|長子]]を占領し、晋軍1万9000人余りを斬首又は捕縛した。[[上党郡|上党]][[太守]][[龐淳]]は壺関ごと漢に降伏した。
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[[8月]]、王弥と共に晋都である洛陽の攻略に向かった。司馬越は、平北将軍[[曹武]]・[[宋抽]]・[[彭黙]]らに迎撃させたが、劉聡らは大いに打ち破った。軍を進めて[[宜陽]]に到ると、平昌公[[司馬模]]は、[[淳于定]]・[[呂毅]]らを、[[長安]]から劉聡討伐に向かわせた。宜陽で両軍は激突し、劉聡は淳于定らを撃退した。だが、劉聡は連勝に驕り、防備を怠るようになった。[[弘農]]太守[[垣延]]が投降すると偽って劉聡の陣を夜襲すると、劉聡は大敗して帰還した。劉淵は、白服︵喪服︶を着て劉聡を迎えた。
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[[8月]]、王弥と共に晋都である洛陽の攻略に向かった。司馬越は、平北将軍[[曹武]]・[[宋抽]]・[[彭黙]]らに迎撃させたが、劉聡らは大いに打ち破った。軍を進めて[[宜陽]]に到ると、平昌公[[司馬模]]は、[[淳于定]]・[[呂毅]]らを、[[長安]]から劉聡討伐に向かわせた。宜陽で両軍は激突し、劉聡は淳于定らを撃退した。だが、劉聡は連勝に驕り、防備を怠るようになった。[[弘農]]太守[[垣延]]が投降すると偽って劉聡の陣を夜襲すると、劉聡は大敗して帰還した。劉淵は、白服︵喪服︶を着て劉聡を迎えた。
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=== 皇帝即位 === |
=== 皇帝即位 === |
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劉和の死後、群臣は劉聡に帝位につくよう勧めたが、末弟の劉乂は[[単皇后]]の子だったので、劉聡は彼に位を譲ろうと考えた。劉乂と[[公卿]]らは涙を流し、劉聡に即位を懇願した。長らく熟考した末、劉聡は即位を受け入れ﹁乂と群公は、天下が未だ平定されておらず災いが多いことから、年長である私を推戴した。これは国家の大事であるから、私も従わざるを得ない。だから、[[魯]]の[[隠公 (魯)|隠公]]のように乂が成人するのを待ち、彼に皇帝位を譲ろうと思う﹂と宣言した。そして、皇帝の座につくと、領内に大赦を下して[[光興 (前趙)|光興]]と改元した。単皇后を貴んで[[皇太后]]に立て、劉聡の実母である張氏を帝太后に立てた。さらに、劉乂を[[皇太弟]]に立てて大単于・[[大司徒]]に任じた。妻の[[武元皇后 (前趙)|呼延氏]]を皇后に立て、その子の[[劉粲]]を河内王に封じて使持節・撫軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、庶長子の[[劉易]]を河間王に、[[劉翼]]を彭城王に、[[劉悝]]を高平王にそれぞれ封じた。
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劉和の死後、群臣は劉聡に帝位につくよう勧めたが、末弟の劉乂は[[単皇后]]の子だったので、劉聡は彼に位を譲ろうと考えた。劉乂と[[公卿]]らは涙を流し、劉聡に即位を懇願した。長らく熟考した末、劉聡は即位を受け入れ﹁乂と群公は、天下が未だ平定されておらず災いが多いことから、年長である私を推戴した。これは国家の大事であるから、私も従わざるを得ない。だから、[[魯]]の[[隠公 (魯)|隠公]]のように乂が成人するのを待ち、彼に皇帝位を譲ろうと思う﹂と宣言した。そして、皇帝の座につくと、領内に大赦を下して[[光興 (前趙)|光興]]と改元した。単皇后を貴んで[[皇太后]]に立て、劉聡の実母である張氏を帝太后に立てた。さらに、劉乂を[[皇太弟]]に立てて大単于・[[大司徒]]に任じた。妻の[[武元皇后 (前趙)|呼延氏]]を皇后に立て、その子の[[劉粲]]を河内王に封じて使持節・撫軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、庶長子の[[劉易]]を河間王に、[[劉翼]]を彭城王に、[[劉カイ (前趙)|劉悝]]を高平王にそれぞれ封じた。
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[[9月]]、劉淵を永光陵へ葬り、諡号を光文皇帝、廟号を高祖とした。 |
[[9月]]、劉淵を永光陵へ葬り、諡号を光文皇帝、廟号を高祖とした。 |
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=== 洛陽攻略 === |
=== 洛陽攻略 === |
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10月、劉粲と征東将軍王弥・龍驤将軍劉曜らに4万の兵を与え、洛陽攻略に向かわせた。鎮軍将軍石勒が騎兵二万を率いて大陽で合流した。劉粲らは晋の監軍・裴邈を澠池で破り、洛川に入った。劉粲は轘轅を出て梁国、[[陳留郡|陳留]]、[[汝南郡|汝南]]、[[潁川郡|潁川]]一帯を攻め、砦百余りを陥落させた。石勒は成皋関を越えると、[[倉垣]]に進んで陳留太守の[[王讚]]を包囲したが、敗れて文石津まで撤退した。
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10月、劉粲と征東将軍王弥・龍驤将軍劉曜らに4万の兵を与え、洛陽攻略に向かわせた。鎮軍将軍石勒が騎兵二万を率いて大陽で合流した。劉粲らは晋の監軍・[[裴邈]]を澠池で破り、洛川に入った。劉粲は轘轅を出て梁国、[[陳留郡|陳留]]、[[汝南郡|汝南]]、[[潁川郡|潁川]]一帯を攻め、砦百余りを陥落させた。石勒は成皋関を越えると、[[倉垣]]に進んで陳留太守の[[王讚]]を包囲したが、敗れて文石津まで撤退した。
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同月、[[宗族]]である匈奴[[鉄弗部]]の[[劉虎 (鉄弗部)|劉虎]]を楼煩公に封じた。また、司空劉景を大司馬に、左光禄[[劉殷]]を大司徒に、右光禄[[王育]]を大司空に任じた。
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同月、[[宗族]]である匈奴[[鉄弗部]]の[[劉虎 (鉄弗部)|劉虎]]を楼煩公に封じた。また、司空劉景を大司馬に、左光禄[[劉殷]]を大司徒に、右光禄[[王育]]を大司空に任じた。
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[[311年]][[4月]]、病死した東海王司馬越の棺を守り、[[山東]]に向かっていた[[王衍]]率いる晋軍10万余りを、石勒が壊滅させた。趙固と[[王桑]]は[[彭城]]を攻めて[[徐州]]刺史の[[裴盾]]を殺した。 |
[[311年]][[4月]]、病死した東海王司馬越の棺を守り、[[山東]]に向かっていた[[王衍]]率いる晋軍10万余りを、石勒が壊滅させた。[[趙固]]と[[王桑]]は[[彭城]]を攻めて[[徐州]]刺史の[[裴盾]]を殺した。 |
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[[5月]]、石勒の勝利を好機と見た劉聡は、[[衛尉]]の[[呼延晏]]を使持節・前鋒大都督・前軍大将軍に任じ、禁兵2万7000を授けて宜陽から洛川に入らせた。さらに、王弥・劉曜・石勒に軍を進めて呼延晏と合流するよう命じた。呼延晏が河南へ侵攻すると、晋軍に連勝して3万人を斬った。洛陽攻撃に入ると、平昌門を陥落させ、東陽門・宜陽門と諸々の役所に火を放った。さらに河南尹の[[劉黙]]を杜門において撃ち破った。[[懐帝]]は河を渡って東へ逃れようとしたが、呼延晏が阻んだ。
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[[5月]]、石勒の勝利を好機と見た劉聡は、[[衛尉]]の[[呼延晏]]を使持節・前鋒大都督・前軍大将軍に任じ、禁兵2万7000を授けて宜陽から洛川に入らせた。さらに、王弥・劉曜・石勒に軍を進めて呼延晏と合流するよう命じた。呼延晏が河南へ侵攻すると、晋軍に連勝して3万人を斬った。洛陽攻撃に入ると、平昌門を陥落させ、東陽門・宜陽門と諸々の役所に火を放った。さらに河南尹の[[劉黙]]を杜門において撃ち破った。[[懐帝 (西晋)|懐帝]]は河を渡って東へ逃れようとしたが、呼延晏が阻んだ。
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6月、王弥・劉曜が到着すると、再び呼延晏ともに洛陽を包囲した。この時、洛陽城下では酷い食料不足となっており、人が互いに食い合う程であった。百官は離散して、誰も守り抜こうという意志がなかった。王弥・呼延晏は宜陽門を落とすと、南宮に入って太極前殿に上った。兵を放って大掠奪を行い、宮人及び珍宝をことごとく収めた。劉曜は諸王公及び百官以下三万人余りを虐殺し、洛水の北に死体を積み上げて京観を築いた。また、懐帝と[[恵帝 (西晋)|恵帝]]の皇后[[羊献容|羊氏]]を捕らえ、平陽へ送還した。また、[[伝国璽|伝国の六璽]]も平陽へ送った。この事件を史書は[[永嘉の乱]]と呼ぶ。
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6月、王弥・劉曜が到着すると、再び呼延晏ともに洛陽を包囲した。この時、洛陽城下では酷い食料不足となっており、人が互いに食い合う程であった。百官は離散して、誰も守り抜こうという意志がなかった。王弥・呼延晏は宜陽門を落とすと、南宮に入って太極前殿に上った。兵を放って大掠奪を行い、宮人及び珍宝をことごとく収めた。劉曜は諸王公及び百官以下三万人余りを虐殺し、洛水の北に死体を積み上げて京観を築いた。また、懐帝と[[恵帝 (西晋)|恵帝]]の皇后[[羊献容|羊氏]]を捕らえ、平陽へ送還した。また、[[伝国璽|伝国の六璽]]も平陽へ送った。この事件を史書は[[永嘉の乱]]と呼ぶ。
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10月、石勒が王弥を殺害してその軍を吸収し、劉聡へは王弥が反逆したため討伐したと上表した。劉聡は激怒し使者を派遣すると、石勒が勝手に漢の重臣を殺害したことで上意を無視していると責めた。だが、石勒は既に[[河北]]において一大勢力を築き上げており、劉聡は彼が離反することを大いに恐れた。そのため、結局は石勒を許し王弥の軍を統合することも認め、鎮東大将軍、監并・幽二州諸軍事、領并州刺史に任じた。
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10月、石勒が王弥を殺害してその軍を吸収し、劉聡へは王弥が反逆したため討伐したと上表した。劉聡は激怒し使者を派遣すると、石勒が勝手に漢の重臣を殺害したことで上意を無視していると責めた。だが、石勒は既に[[河北]]において一大勢力を築き上げており、劉聡は彼が離反することを大いに恐れた。そのため、結局は石勒を許し王弥の軍を統合することも認め、鎮東大将軍、監并・幽二州諸軍事、領并州刺史に任じた。
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同月、劉曜が長安に入ると、晋の[[安定]]太守[[賈疋]]を始め、諸々の[[テイ (民族)|氐族]]・[[羌族]]は皆人質を送ったが、[[雍州]]刺史[[麹特]]と[[新平郡|新平]]太守[[竺恢]]だけは降伏しなかった。また、晋の従事中郎[[索綝]]・[[護軍]][[麹允]]・頻陽県令[[梁粛]]も劉曜に与するのを善しとせず、[[京兆郡|京兆]]の南山から安定郡へ逃走を図った。途中、[[陰密]]で賈疋の差し出した人質と出会うと、彼らを連れて[[臨涇|臨涇郡]]に引き返した。彼らは賈疋に晋室復興に協力するよう要請し平南将軍に推挙すると、5万を率いて長安を攻撃した。扶風太守[[梁綜]]および麹特・竺恢らもこれに呼応して10万を率いて合流した。劉曜は劉雅・趙染を派遣して防がせたが、敗れて帰還した。劉曜は長安の精鋭を率いて諸将と共に[[黄丘]]で戦ったが大敗を喫した。自らも流れ矢にあたり、[[甘渠]]まで退いた。賈疋はさらに漢の涼州刺史・彭蕩仲を攻撃して殺した。麹特は[[王禿]]・[[紀特]]らを新豊に派遣して劉粲を攻撃すると、劉粲は平陽に帰還した。劉曜は[[池陽]]を陥れ、1万人余りを攫うと、長安に籠った。
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同月、劉曜が長安に入ると、晋の[[安定]]太守[[賈疋]]を始め、諸々の[[テイ (民族)|氐族]]・[[羌族]]は皆人質を送ったが、[[雍州]]刺史[[麹特]]と[[新平郡|新平]]太守[[竺恢]]だけは降伏しなかった。また、晋の従事中郎[[索綝]]・[[護軍]][[麹允]]・頻陽県令[[梁粛]]も劉曜に与するのを善しとせず、[[京兆郡|京兆]]の南山から安定郡へ逃走を図った。途中、[[陰密]]で賈疋の差し出した人質と出会うと、彼らを連れて[[臨涇|臨涇郡]]に引き返した。彼らは賈疋に晋室復興に協力するよう要請し平南将軍に推挙すると、5万を率いて長安を攻撃した。扶風太守[[梁綜]]および麹特・竺恢らもこれに呼応して10万を率いて合流した。劉曜は劉雅・趙染を派遣して防がせたが、敗れて帰還した。劉曜は長安の精鋭を率いて諸将と共に[[黄丘]]で戦ったが大敗を喫した。自らも流れ矢にあたり、[[甘渠]]まで退いた。賈疋はさらに漢の涼州刺史・[[彭蕩仲]]を攻撃して殺した。麹特は[[王禿]]・[[紀特]]らを新豊に派遣して劉粲を攻撃すると、劉粲は平陽に帰還した。劉曜は[[池陽]]を陥れ、1万人余りを攫うと、長安に籠った。
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[[12月]]、豫州刺史の[[閻鼎]]らは晋の秦王[[愍帝 (西晋)|司馬鄴]]を皇太子に奉り、雍城に入ると[[関中]]の民は晋・[[胡|胡族]]関係なく皆これに応じた。 |
[[12月]]、豫州刺史の[[閻鼎]]らは晋の秦王[[愍帝 (西晋)|司馬鄴]]を皇太子に奉り、雍城に入ると[[関中]]の民は晋・[[胡|胡族]]関係なく皆これに応じた。 |
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=== 暴政の兆し === |
=== 暴政の兆し === |
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[[312年]][[1月]]、呼延皇后が亡くなると、劉聡は王育・[[任凱]]・[[朱紀]]・馬景ら国家の重鎮の娘6人を[[後宮]]に入れた。太保[[劉殷]]の娘まで後宮に入れようとしたが、同じ劉姓であったことから劉乂が固く諫めた。劉聡は年老いた伯父の太宰[[劉延年]]・太傅劉景にこのことを問うと、劉景らは「臣は太保の劉殷が[[周]]王室系の劉の康公(姫季子)の子孫であると聞いております。陛下の家系とは違っておりますので、何の問題もないでしょう」と答えた。劉聡は大いに喜び、[[大鴻臚]]の[[李弘 (前趙)|李弘]]を遣わして劉殷の娘2人([[劉英 (前趙)|劉英]]と[[劉娥 (前趙)|劉娥]])を左右の貴嬪とし、[[昭儀]]より上位に置いた。また、劉殷の孫娘4人を貴人とし、貴嬪に次ぐ位とした。劉聡が劉弘へ「この女たちは皆、容姿が絶世のものである上に徳も世に冠たるものである。朕と太保劉殷とは別の家系であるから彼女らを娶ったのだが、卿はどう思う」と問うと、劉弘は「陛下とは姓が同じであるだけですので何も問題ないでしょう。魏の司空であった[[王基]]は当時における大儒で礼にも通じていましたが、同姓ながら家系の異なる太原の[[王沈]]の娘を子のために妻に迎えました」と言った。劉聡は大いに喜び、李弘に黄金六十斤を下賜して「卿はこの事を朕の子弟に伝えるように」と言った。6人の劉氏への寵愛は後宮を傾ける程であり、劉聡はめったに外へ出なくなり、政務を顧みなくなった。国事は全て中黄門が上奏して、左貴嬪の劉英がこれを認可した。 |
[[312年]][[1月]]、呼延皇后が亡くなると、劉聡は王育・[[任凱]]・[[朱紀]]・馬景ら国家の重鎮の娘6人を[[後宮]]に入れた。太保[[劉殷]]の娘まで後宮に入れようとしたが、同じ劉姓であったことから劉乂が固く諫めた。劉聡は年老いた伯父の太宰[[劉延年]]・太傅劉景にこのことを問うと、劉景らは﹁臣は太保の劉殷が[[周]]王室系の劉の{{仮リンク|康公 (劉)|label=康公|zh|刘康公}}︵姫季子︶の子孫であると聞いております。陛下の家系とは違っておりますので、何の問題もないでしょう﹂と答えた。劉聡は大いに喜び、[[大鴻臚]]の[[李弘 (前趙)|李弘]]を遣わして劉殷の娘2人︵[[劉英 (前趙)|劉英]]と[[劉娥 (前趙)|劉娥]]︶を左右の貴嬪とし、[[昭儀]]より上位に置いた。また、劉殷の孫娘4人を貴人とし、貴嬪に次ぐ位とした。劉聡が劉弘へ﹁この女たちは皆、容姿が絶世のものである上に徳も世に冠たるものである。朕と太保劉殷とは別の家系であるから彼女らを娶ったのだが、卿はどう思う﹂と問うと、劉弘は﹁陛下とは姓が同じであるだけですので何も問題ないでしょう。魏の司空であった[[王基]]は当時における大儒で礼にも通じていましたが、同姓ながら家系の異なる太原の[[王沈]]の娘を子のために妻に迎えました﹂と言った。劉聡は大いに喜び、李弘に黄金六十斤を下賜して﹁卿はこの事を朕の子弟に伝えるように﹂と言った。6人の劉氏への寵愛は後宮を傾ける程であり、劉聡はめったに外へ出なくなり、政務を顧みなくなった。国事は全て中黄門が上奏して、左貴嬪の劉英がこれを認可した。
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この頃から劉聡に暴虐な振る舞いが増えた。左都水使者である襄陵王の[[劉攄]]は食膳に魚蟹を供出しなかったという理由で死罪となった。将作大匠である望都公の[[靳陵]]は温明殿と徽光殿を完成が遅かったという理由で斬られた。 |
この頃から劉聡に暴虐な振る舞いが増えた。左都水使者である襄陵王の[[劉攄]]は食膳に魚蟹を供出しなかったという理由で死罪となった。将作大匠である望都公の[[靳陵]]は温明殿と徽光殿を完成が遅かったという理由で斬られた。 |
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劉琨の牙門将[[邢延]]が[[新興郡]]ごと漢に降伏し、劉聡に并州攻撃を求めた。劉聡は鎮北将軍[[靳沖]]、平忠将軍[[卜珝]]を派遣して[[晋陽]]を攻め、包囲した。
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劉琨の牙門将[[邢延]]が[[新興郡]]ごと漢に降伏し、劉聡に并州攻撃を求めた。劉聡は鎮北将軍[[靳沖]]、平忠将軍[[卜珝]]を派遣して[[晋陽]]を攻め、包囲した。
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3月、代公拓跋猗盧が兵を率いて晋陽救援に向かった。漢軍は敗れて晋陽から撤退した<ref>『晋書』卜珝伝では「卜珝の兵が先に撤退したために、靳沖は卜珝を捕らえて処刑した。劉聡は激怒して、使者を送って靳沖を処刑した」と記載されている。しかし、劉聡載記ではこれより後の、太原攻撃中に靳沖は卜珝を斬り、劉聡が靳沖を処刑することになっている。</ref>。 |
3月、代公[[拓跋猗盧]]が兵を率いて晋陽救援に向かった。漢軍は敗れて晋陽から撤退した<ref>『晋書』卜珝伝では「卜珝の兵が先に撤退したために、靳沖は卜珝を捕らえて処刑した。劉聡は激怒して、使者を送って靳沖を処刑した」と記載されている。しかし、劉聡載記ではこれより後の、太原攻撃中に靳沖は卜珝を斬り、劉聡が靳沖を処刑することになっている。</ref>。 |
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劉聡の遊猟には節度がなく、朝早くに出かけて夜に帰った。汾水で漁の見物を行い、夜になっても灯りをともし続けた。中軍の[[王彰]]は「大難は未だ鎮まっておらず、晋の残党が長安におります。しかしながら、陛下は白竜魚服の災いを忘れ、いつも夜遅くまで帰られません。陛下は先帝の苦労をよく考え、これを受け継ぐべきです。そうすれば、自然と天下の民は情を寄せてきます。にもかかわらず、なぜ自ら成功の道を閉ざすのでしょうか。なぜ堕落の道を選ぶのでしょうか。最近の陛下の振る舞いを観ますに、臣はひどく心を痛めております。人々の心はまだ漢だけに傾いておらず、晋を懐かしむ者もおります。そのうえ、劉琨は遠からぬ地にあり、すぐにでも刺客を送り込むことができます。帝王であろうともひとたび身辺を手薄にして外出すれば、一夫の者でも敵となり得ます。どうか陛下には今までの行いを改め、善行を積んで民の幸いに助力されますように」と諫めた。これを聞いた劉聡は激怒して彼を処刑するよう命じた。だが、上夫人の王氏が叩頭して助命を嘆願したため、命だけは助け、獄に繋ぐよう命じた。母の張氏は劉聡が怒りに任せて刑を乱発するので、大いに心を痛めて三日に渡って食事を取らなかった。また、弟の劉乂や子の劉粲も、劉聡を厳しく諫めた。劉聡はまた怒り「朕が[[夏 (三代)|夏]]の[[桀|桀王]]、[[殷]]の[[紂王]]、[[周]]の[[幽王 (周)|幽王]]や[[レイ王 (周)|厲王]]のような暴君だというのか。汝らはなぜこのようなやつのために涙を流すのだ」と言った。太宰の劉延年を始め諸公卿列侯100人余りが劉聡の前に赴き、みな冠を外して涙を流しながら「光文帝(劉淵)は、聖なる武をもってよって期を見定めて大業を興しました。だが、天下はいまだ定まらず、陛下はその徳によって事業を受け継ぎ、東に洛陽を、南に長安を平定しました。その功績は周の成王に匹敵し、徳は夏の啓王を超越しております。さながら唐・虞([[堯]]と[[舜]])を見ているようです。しかし近年は、僅かな誤りで王公を処刑し、直言をしたことで大将を獄に繋ぎました。また、遊猟にも節度がなく、朝政を顧みようとなさりません。臣らにはその意味を理解することができず、心を痛めて寝食を忘れるほどであります」と固く諫めて言った。ここに至って、ようやく劉聡は怒りを収めて王彰を許した。 |
劉聡の遊猟には節度がなく、朝早くに出かけて夜に帰った。汾水で漁の見物を行い、夜になっても灯りをともし続けた。中軍の[[王彰]]は﹁大難は未だ鎮まっておらず、晋の残党が長安におります。しかしながら、陛下は白竜魚服の災いを忘れ、いつも夜遅くまで帰られません。陛下は先帝の苦労をよく考え、これを受け継ぐべきです。そうすれば、自然と天下の民は情を寄せてきます。にもかかわらず、なぜ自ら成功の道を閉ざすのでしょうか。なぜ堕落の道を選ぶのでしょうか。最近の陛下の振る舞いを観ますに、臣はひどく心を痛めております。人々の心はまだ漢だけに傾いておらず、晋を懐かしむ者もおります。そのうえ、劉琨は遠からぬ地にあり、すぐにでも刺客を送り込むことができます。帝王であろうともひとたび身辺を手薄にして外出すれば、一夫の者でも敵となり得ます。どうか陛下には今までの行いを改め、善行を積んで民の幸いに助力されますように﹂と諫めた。これを聞いた劉聡は激怒して彼を処刑するよう命じた。だが、上夫人の王氏が叩頭して助命を嘆願したため、命だけは助け、獄に繋ぐよう命じた。母の張氏は劉聡が怒りに任せて刑を乱発するので、大いに心を痛めて三日に渡って食事を取らなかった。また、弟の劉乂や子の劉粲も、劉聡を厳しく諫めた。劉聡はまた怒り﹁朕が[[夏 (三代)|夏]]の[[桀|桀王]]、[[殷]]の[[紂王]]、[[周]]の[[幽王 (周)|幽王]]や[[レイ王 (周)|厲王]]のような暴君だというのか。汝らはなぜこのようなやつのために涙を流すのだ﹂と言った。太宰の劉延年を始め諸公卿列侯100人余りが劉聡の前に赴き、みな冠を外して涙を流しながら﹁光文帝︵劉淵︶は、聖なる武をもってよって期を見定めて大業を興しました。だが、天下はいまだ定まらず、陛下はその徳によって事業を受け継ぎ、東に洛陽を、南に長安を平定しました。その功績は周の[[成王 (周)|成王]]に匹敵し、徳は夏の[[啓|啓王]]を超越しております。さながら唐・虞︵[[堯]]と[[舜]]︶を見ているようです。しかし近年は、僅かな誤りで王公を処刑し、直言をしたことで大将を獄に繋ぎました。また、遊猟にも節度がなく、朝政を顧みようとなさりません。臣らにはその意味を理解することができず、心を痛めて寝食を忘れるほどであります﹂と固く諫めて言った。ここに至って、ようやく劉聡は怒りを収めて王彰を許した。
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劉聡は「あの発言は酔っての事であり、本心ではない。卿らの諫言がなければ、朕は過失に気がつかなかっただろうな」と言い、それぞれに帛百匹を下賜し、王彰は釈放された。侍中が劉聡の言葉を王彰に伝え「先帝は君を左右の手の如く頼ってきた。朕は君の功績を忘れたことがない。今回の事は気にせず、今後も国のために直言してほしい。君を[[驃騎将軍]]に任じ、定襄郡公に封じることにする」と述べた。 |
劉聡は「あの発言は酔っての事であり、本心ではない。卿らの諫言がなければ、朕は過失に気がつかなかっただろうな」と言い、それぞれに帛百匹を下賜し、王彰は釈放された。侍中が劉聡の言葉を王彰に伝え「先帝は君を左右の手の如く頼ってきた。朕は君の功績を忘れたことがない。今回の事は気にせず、今後も国のために直言してほしい。君を[[驃騎将軍]]に任じ、定襄郡公に封じることにする」と述べた。 |
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安北将軍の趙固と平北将軍の王桑は、長史の臨深を人質として劉琨に送り、帰順を願い出た。劉琨は趙固を雍州刺史に、王桑を豫州刺史に任じた。
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安北将軍の趙固と平北将軍の王桑は、長史の[[臨深]]を人質として劉琨に送り、帰順を願い出た。劉琨は趙固を雍州刺史に、王桑を豫州刺史に任じた。
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=== 懐帝殺害 === |
=== 懐帝殺害 === |
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劉聡は懐帝を儀同三司・会稽郡公に封じ、懐帝の側近である[[ユビン|庾珉]]らにも官職を与えた。また、懐帝を招き﹁卿が予章王であったとき、朕は卿に接見した。王武子︵王済︶が朕を紹介すると、卿は以前からその名を聞いていたと言ったな。卿は[[楽府|楽府の歌]]を朕に示し、﹃君は辞賦が得意と聞く。試しにこの作品を見てみるように﹄と言い、朕は王武子とともに﹃盛徳頌﹄という詩を作り、卿はこれを称賛した。また、皇堂での射術に誘われたこともあったな。朕が十二本、卿と王武子は九本を命中させた。卿は朕に弓を贈ったが卿は覚えておるかね﹂と話した。懐帝は﹁臣が忘れるはずなどありません。ただ一つ残念なのは、もっと早くその龍顔︵皇帝の顔︶を知ることができなかったということです﹂と答えた。劉聡は﹁卿の一族は骨肉の争いを繰り返したが、どうしてこうなったと思う﹂と問うた。懐帝は﹁これは人事によらず天意によるものです。大漢は天意に応じたのであり、そのために臣の一族は互いを駆除したのです。もし臣の一族が武帝の大業を継いで九族が協力し合ったならば、陛下の今日はなかったでしょう﹂と返した。夕方になると懐帝は退出した。劉聡は、年小の劉貴人を懐帝へ下賜して﹁彼女は名公の孫であり、特別に卿の妻とするので大切にするように﹂と述べ、劉氏を会稽国夫人とした。
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劉聡は懐帝を儀同三司・会稽郡公に封じ、懐帝の側近である[[ユビン|庾珉]]らにも官職を与えた。また、懐帝を招き﹁卿が予章王であったとき、朕は卿に接見した。王武子︵{{仮リンク|王済 (西晋)|label=王済|zh|王濟 (晉朝)}}︶が朕を紹介すると、卿は以前からその名を聞いていたと言ったな。卿は[[楽府|楽府の歌]]を朕に示し、﹃君は辞賦が得意と聞く。試しにこの作品を見てみるように﹄と言い、朕は王武子とともに﹃盛徳頌﹄という詩を作り、卿はこれを称賛した。また、皇堂での射術に誘われたこともあったな。朕が十二本、卿と王武子は九本を命中させた。卿は朕に弓を贈ったが卿は覚えておるかね﹂と話した。懐帝は﹁臣が忘れるはずなどありません。ただ一つ残念なのは、もっと早くその龍顔︵皇帝の顔︶を知ることができなかったということです﹂と答えた。劉聡は﹁卿の一族は骨肉の争いを繰り返したが、どうしてこうなったと思う﹂と問うた。懐帝は﹁これは人事によらず天意によるものです。大漢は天意に応じたのであり、そのために臣の一族は互いを駆除したのです。もし臣の一族が武帝の大業を継いで九族が協力し合ったならば、陛下の今日はなかったでしょう﹂と返した。夕方になると懐帝は退出した。劉聡は、年小の劉貴人を懐帝へ下賜して﹁彼女は名公の孫であり、特別に卿の妻とするので大切にするように﹂と述べ、劉氏を会稽国夫人とした。
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4月、賈疋・麹特らが長安を数か月に渡って包囲すると、劉曜は幾度も破れ、士女8万家余りを引き連れて平陽に戻った。漢軍が撤退すると、司馬鄴は長安に入った。 |
4月、賈疋・麹特らが長安を数か月に渡って包囲すると、劉曜は幾度も破れ、士女8万家余りを引き連れて平陽に戻った。漢軍が撤退すると、司馬鄴は長安に入った。 |
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6月、劉聡は貴嬪の劉英を皇后に立てようとした。だが、張皇太后が貴人の張徽光を皇后に立てるよう望んだため、やむなく従った。
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6月、劉聡は貴嬪の劉英を皇后に立てようとした。だが、張皇太后が貴人の張徽光を皇后に立てるよう望んだため、やむなく従った。
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子の河間王劉易を車騎将軍に、彭城王劉翼を衛将軍に任じ、近衛兵を統率させた。また、高平王 |
子の河間王劉易を車騎将軍に、彭城王劉翼を衛将軍に任じ、近衛兵を統率させた。また、高平王劉悝を征南将軍に任じて離石を守らせ、済南王[[劉キ (前趙)|劉驥]]を征西将軍に任じて平陽西に西平城を築いて守らせ、魏王[[劉操]]を征東将軍に任じて[[蒲子]]を鎮守させた。
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劉琨に降った趙固と王桑は再び漢に帰順しようと思い、劉聡に救援を依頼しました。劉聡は鎮遠将軍[[梁伏疵]]を派遣したが、漢軍が到着する前に王桑の長史 |
劉琨に降った趙固と王桑は再び漢に帰順しようと思い、劉聡に救援を依頼しました。劉聡は鎮遠将軍[[梁伏疵]]を派遣したが、漢軍が到着する前に王桑の長史臨深と将軍[[牟穆]]が兵1万を率いて晋の鄴太守劉演に投降した。趙固は梁伏疵と合流して西に向かったが、王桑は漢に帰るのを止め、兵を率いて東の青州に逃走した。趙固は兵を派遣して王桑を追撃し、[[曲梁]]で殺した。王桑の残兵は[[張鳳]]に率いられて劉演に投降した。劉聡は趙固を荊州刺史・領河南太守に任じ、洛陽を守らせた。
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8月、劉易・劉粲・劉曜らを派遣し、[[晋陽]]の |
8月、劉易・劉粲・劉曜らを派遣し、[[晋陽]]の劉琨を攻撃させた。劉琨は[[張喬]]に防戦させたが返り討ちに遭い、[[太原]]太守[[高喬]]らは晋陽ごと劉粲に降伏した。劉琨は[[常山]]へ撤退し、義兄弟の代王拓跋猗盧へ救援を要請した。
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劉粲と劉曜は晋の尚書盧志、侍中許遐、太子右衛率崔瑋を捕えて平陽に送った。劉聡は劉曜を車騎大将軍に戻し、[[前将軍]]劉豊を并州刺史に任じて晋陽の守備を命じた。
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劉粲と劉曜は晋の尚書[[盧志]]、侍中[[許遐]]、太子右衛率[[崔瑋]]を捕えて平陽に送った。劉聡は劉曜を車騎大将軍に戻し、[[前将軍]][[劉豊 (前趙)|劉豊]]を并州刺史に任じて晋陽の守備を命じた。
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9月、盧志を太弟太師に、崔瑋を太傅に、許遐を太保に、高喬と令狐泥を武衛将軍に任じた。衛尉の梁芬が長安に投降した。
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9月、盧志を太弟太師に、崔瑋を太傅に、許遐を太保に、高喬と[[令狐泥]]を武衛将軍に任じた。衛尉の梁芬が長安に投降した。
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10月、劉烜を代王に、劉逞を呉王に、劉朗を潁川王に、劉皐を零陵王に、劉旭を丹陽王に、劉京を蜀王に、劉坦を九江王に、劉晃を臨川王に封じた。また、王育を太保に、王彰を太尉に、任顗を司徒に、馬景を司空に、朱紀を尚書令に、范隆を左僕射に、呼延晏を右僕射に任じた。
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10月、[[劉烜]]を代王に、[[劉逞]]を呉王に、[[劉朗]]を潁川王に、[[劉皐]]を零陵王に、[[劉旭]]を丹陽王に、[[劉京]]を蜀王に、[[劉坦 (前趙)|劉坦]]を九江王に、[[劉晃 (前趙)|劉晃]]を臨川王に封じた。また、王育を太保に、王彰を太尉に、{{仮リンク|任顗|label=任顗|zh|任顗}}を司徒に、馬景を司空に、朱紀を尚書令に、范隆を左僕射に、呼延晏を右僕射に任じた。
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同月、拓跋猗盧は[[拓跋六脩]]・[[拓跋普根]]らを前鋒として派遣し、拓跋猗盧は20万を統べ後継となり、狼猛に至った。劉粲は恐れて逃走し、劉曜は[[汾東県|汾東]]で大敗を喫した。討虜将軍[[傅虎]]は劉曜の身代わりとなり、劉曜はかろうじて撤退できた。11月、拓跋猗盧は追撃し、藍谷で劉粲を破った。征虜将軍の[[邢延]]を始め、[[劉儒]]・ |
同月、拓跋猗盧は[[拓跋六脩]]・[[拓跋普根]]らを前鋒として派遣し、拓跋猗盧は20万を統べ後継となり、狼猛に至った。劉粲は恐れて逃走し、劉曜は[[汾東県|汾東]]で大敗を喫した。討虜将軍[[傅虎]]は劉曜の身代わりとなり、劉曜はかろうじて撤退できた。11月、拓跋猗盧は追撃し、藍谷で劉粲を破った。征虜将軍の[[邢延]]を始め、[[劉儒]]・劉豊・[[簡令]]・[[張平 (前趙)|張平]]が討死し、鎮北将軍の劉豊が捕縛された。劉粲の参軍[[盧諶]]が劉琨に投降すると、劉聡は盧諶の父である盧志と弟の[[盧謐]]・[[盧詵]]を処刑し、戦死した傅虎に幽州刺史の官位を追贈した。
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12月、張氏を皇后に立て、父の張寔を左光禄大夫に任じた。 |
12月、張氏を皇后に立て、父の[[張寔 (前趙)|張寔]]を左光禄大夫に任じた。 |
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彭天護が少数民族を率いて賈疋を攻撃した。彭天護はわざと途中で撤退し、賈疋は追撃するも夜の山路で谷に落ちた。彭天護は賈疋を捕えて殺害し、功績により劉聡は涼州刺史に任じた。 |
[[彭天護]]が少数民族を率いて賈疋を攻撃した。彭天護はわざと途中で撤退し、賈疋は追撃するも夜の山路で谷に落ちた。彭天護は賈疋を捕えて殺害し、功績により劉聡は涼州刺史に任じた。 |
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[[313年]]1月、関中の司馬鄴政権が活発となると、劉聡は次第に懐帝を疎ましく思うようになった。劉聡は光極前殿において懐帝に命じ、人々に酒を注がせた。光禄大夫の庾珉・[[王儁]]らは立ち上がって慟哭したために、劉聡はこれを不快に思った。この時期、王儁らが平陽で劉琨に呼応しようと謀っていると密告する者がおり、劉聡は懐帝を毒殺し、王儁を始め晋の旧臣10人余りを誅殺した。また懐帝に賜った劉夫人を自らの貴人に戻し、境内の死罪以下に大赦を施行した。 |
[[313年]]1月、関中の司馬鄴政権が活発となると、劉聡は次第に懐帝を疎ましく思うようになった。劉聡は光極前殿において懐帝に命じ、人々に酒を注がせた。光禄大夫の庾珉・[[王儁]]らは立ち上がって慟哭したために、劉聡はこれを不快に思った。この時期、王儁らが平陽で劉琨に呼応しようと謀っていると密告する者がおり、劉聡は懐帝を毒殺し、王儁を始め晋の旧臣10人余りを誅殺した。また懐帝に賜った劉夫人を自らの貴人に戻し、境内の死罪以下に大赦を施行した。 |
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[[3月]]、[[劉娥 (前趙)|劉娥]]を皇后に立てると、彼女のために皇儀殿を建造すると宣言した。 |
[[3月]]、[[劉娥 (前趙)|劉娥]]を皇后に立てると、彼女のために皇儀殿を建造すると宣言した。 |
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[[陳元達]]は難く諫めて﹁臣は、古代の聖王というものは国を家の如く愛し、そのために天がこれを子のように助けるのだと聞きおよんでおります。天が民に君主を立てるのは、父母となりてこれに刑賞するためであって、億兆の民を一人に奉仕させるためでは決してございません。 晋は非道をなして人民を草芥のように見ていたために、天によって命脈を断たれたのです。そのため、漢によって人々は休息を得て希望を持つことができたのです。わが高祖光文皇帝は民のために心を痛め、それが故に自らも、先皇后も質素に振る舞われ、南北宮を建てた時も、群臣の請願があってはじめて行ったのです。今や光極殿で充分であるのに、昭徳・温明以後六宮まで至りました。陛下が即位されて以来、外は二京︵洛陽・長安︶を攻撃しながらも内にあっては宮殿四十ヶ所余りを建立されております。飢饉疾疫が重なって死者が続出し、外において兵は疲労し内においては人が怨みを抱いているのに、どうしてこれが父母の振舞いと言えるでしょうか。晋は滅んだとは言え、残党は西は漢中・南は江南により、李雄は巴蜀を占有し、王浚・劉琨は隙を窺い、[[石勒]]・[[曹嶷]]からの朝貢も次第に疎遠となってきております。伏して詔を聞きますに、新たに中宮を立てられるとのことですが、臣らにとって誠に楽しみとするところです。ですが、いまだに大難がまだ平定されておらず、今は宮殿を造営すべきではありません。臣が聞くところによれば[[前漢]]の太宗︵[[文帝 (漢)|文帝]]︶が高祖︵[[劉邦]]︶の事業を継いだ後、恵呂の役の後で四海の富、天下の繁栄をもってしてもなお百金の費えを惜しんで不朽の業をなしたのです。陛下の有する地は太宗に遠く及びません。戦守の備えも、太宗の時のように匈奴と南越だけではないのです。それなのに、宮室の奢侈がここまでに至りました。臣が敢えて死を恐れずに申し上げるのは不測の禍をおそれるからです﹂と述べた。
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[[陳元達]]は難く諫めて﹁臣は、古代の聖王というものは国を家の如く愛し、そのために天がこれを子のように助けるのだと聞きおよんでおります。天が民に君主を立てるのは、父母となりてこれに刑賞するためであって、億兆の民を一人に奉仕させるためでは決してございません。 晋は非道をなして人民を草芥のように見ていたために、天によって命脈を断たれたのです。そのため、漢によって人々は休息を得て希望を持つことができたのです。わが高祖光文皇帝は民のために心を痛め、それが故に自らも、先皇后も質素に振る舞われ、南北宮を建てた時も、群臣の請願があってはじめて行ったのです。今や光極殿で充分であるのに、昭徳・温明以後六宮まで至りました。陛下が即位されて以来、外は二京︵洛陽・長安︶を攻撃しながらも内にあっては宮殿四十ヶ所余りを建立されております。飢饉疾疫が重なって死者が続出し、外において兵は疲労し内においては人が怨みを抱いているのに、どうしてこれが父母の振舞いと言えるでしょうか。晋は滅んだとは言え、残党は西は漢中・南は江南により、[[李雄 (成漢)|李雄]]は巴蜀を占有し、[[王浚]]・劉琨は隙を窺い、[[石勒]]・[[曹嶷]]からの朝貢も次第に疎遠となってきております。伏して詔を聞きますに、新たに中宮を立てられるとのことですが、臣らにとって誠に楽しみとするところです。ですが、いまだに大難がまだ平定されておらず、今は宮殿を造営すべきではありません。臣が聞くところによれば[[前漢]]の太宗︵[[文帝 (漢)|文帝]]︶が高祖︵[[劉邦]]︶の事業を継いだ後、恵呂の役の後で四海の富、天下の繁栄をもってしてもなお百金の費えを惜しんで不朽の業をなしたのです。陛下の有する地は太宗に遠く及びません。戦守の備えも、太宗の時のように匈奴と南越だけではないのです。それなのに、宮室の奢侈がここまでに至りました。臣が敢えて死を恐れずに申し上げるのは不測の禍をおそれるからです﹂と述べた。
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これを聞いた劉聡は激怒して「朕は万事の主となって一宮殿の造営をするのに、どうして汝のような鼠子に問うことがあろうか。この男を殺さねば朕の心は乱れたままで、朕の宮殿も完成などするまい。その妻子とともに引き出して斬り、東市にさらしてから鼠と一緒に穴に埋めてしまえ」と汚く罵り、陳元達の妻子とともにこれを処刑しようとした。この時、逍遙園に李中堂があったが、陳元達は李中堂下の樹にしがみつくと「臣の申し上げるところは社稷の計であるのにも関わらず、陛下が臣を殺されるならば、上は天に訴え、下は先帝に訴えます。朱雲はかつて『臣は地下において龍逢や比干と知り合うことができれば満足です』と言いましたが、陛下は誰と知り合うことになるのでしょうか」と叫んだ。 |
これを聞いた劉聡は激怒して﹁朕は万事の主となって一宮殿の造営をするのに、どうして汝のような鼠子に問うことがあろうか。この男を殺さねば朕の心は乱れたままで、朕の宮殿も完成などするまい。その妻子とともに引き出して斬り、東市にさらしてから鼠と一緒に穴に埋めてしまえ﹂と汚く罵り、陳元達の妻子とともにこれを処刑しようとした。この時、逍遙園に李中堂があったが、陳元達は李中堂下の樹にしがみつくと﹁臣の申し上げるところは社稷の計であるのにも関わらず、陛下が臣を殺されるならば、上は天に訴え、下は先帝に訴えます。[[朱雲]]はかつて﹃臣は地下において{{仮リンク|関龍逢|label=龍逢|zh|关龙逢}}や[[比干]]と知り合うことができれば満足です﹄と言いましたが、陛下は誰と知り合うことになるのでしょうか﹂と叫んだ。
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陳元達は鎖を腰に下げており、鎖を樹に巻きつけていたために、劉聡の左右の者が連れ出そうとしても動かなかった。[[太宰]]の劉易、[[大司徒]]の任凱、[[光禄大夫]]の朱紀と范隆は出血するまで叩頭してこれを諫めた。また、[[劉娥 (前趙)|劉娥]]も後堂でこれを聞くと、密かに中常侍を遣わして刑の執行を中止させ、劉聡へ手書して﹁後宮の宮殿は整っており、既に十分すぎるほどです。四海が未だ平定されておらぬ今、陛下には何とぞ民を慈しまれますよう。廷尉の言葉は真に社稷の臣であり、称賛されるべきものです。にもかかわらず、これを誅殺してしまえば、四海の民は陛下を何と罵るでしょうか。忠臣が諫言を進める時は、わが身を顧みないもの。そして、これを拒む人君も、わが身を顧みないのです。陛下は妾の為に宮殿を築き、そのために忠臣まで誅殺されます。今後、忠臣が口を閉ざしてしまうとしたら、それは妾のせいに他なりません。遠近の人々の怨念も公私の困弊も妾に集まるでしょう。そして、社稷を滅亡の危機へ追いやるのも妾になります。天下の罪が全て妾に由来しますのに、妾はどこに立つ瀬がありましょうか。古の国が滅んだ原因を見ますに、その殆どが婦人に由来します。妾はいつもこれを心に疾んでおりました。それが今、自らが同じ事をしようとしております。 妾はいつも古の婦人を蔑んでみておりましたが、これからは妾自身が後世の人々から見られます。 妾は何の面目あってあの世に行けましょうか。願わくは陛下、どうか妾に死を賜ってくださいませ。そしてそれを以て陛下の行き過ぎを塞がれますよう﹂と諫めると、劉聡はようやく過ちに気づき、愕然とした。
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陳元達は鎖を腰に下げており、鎖を樹に巻きつけていたために、劉聡の左右の者が連れ出そうとしても動かなかった。[[太宰]]の劉易、[[大司徒]]の任凱、[[光禄大夫]]の朱紀と范隆は出血するまで叩頭してこれを諫めた。また、[[劉娥 (前趙)|劉娥]]も後堂でこれを聞くと、密かに中常侍を遣わして刑の執行を中止させ、劉聡へ手書して﹁後宮の宮殿は整っており、既に十分すぎるほどです。四海が未だ平定されておらぬ今、陛下には何とぞ民を慈しまれますよう。廷尉の言葉は真に社稷の臣であり、称賛されるべきものです。にもかかわらず、これを誅殺してしまえば、四海の民は陛下を何と罵るでしょうか。忠臣が諫言を進める時は、わが身を顧みないもの。そして、これを拒む人君も、わが身を顧みないのです。陛下は妾の為に宮殿を築き、そのために忠臣まで誅殺されます。今後、忠臣が口を閉ざしてしまうとしたら、それは妾のせいに他なりません。遠近の人々の怨念も公私の困弊も妾に集まるでしょう。そして、社稷を滅亡の危機へ追いやるのも妾になります。天下の罪が全て妾に由来しますのに、妾はどこに立つ瀬がありましょうか。古の国が滅んだ原因を見ますに、その殆どが婦人に由来します。妾はいつもこれを心に疾んでおりました。それが今、自らが同じ事をしようとしております。 妾はいつも古の婦人を蔑んでみておりましたが、これからは妾自身が後世の人々から見られます。 妾は何の面目あってあの世に行けましょうか。願わくは陛下、どうか妾に死を賜ってくださいませ。そしてそれを以て陛下の行き過ぎを塞がれますよう﹂と諫めると、劉聡はようやく過ちに気づき、愕然とした。
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4月、晋の愍帝が長安に即位した。劉聡は劉曜と[[司隷校尉]]の[[喬智明]]・武牙将軍の[[李景年]]らを派遣して長安を攻撃させ、趙染にも軍を率いて続かせた。 |
4月、晋の愍帝が長安に即位した。劉聡は劉曜と[[司隷校尉]]の[[喬智明]]・武牙将軍の[[李景年]]らを派遣して長安を攻撃させ、趙染にも軍を率いて続かせた。 |
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6月、劉琨と拓跋猗盧が陘北で会合し、漢攻略の方策を練った。7月、劉琨は藍谷に進み、拓跋猗盧は拓跋普根を派遣して北屈に駐軍させた。劉琨は監軍韓拠に命じ、西河から南下して西平城に向かわせた。 劉聡は大将軍・劉粲に劉琨を、驃騎将軍劉易に拓跋普根を防がせ、蕩晋将軍蘭陽に西平城を救援させた。劉琨らは漢軍が動いたと知ると退却した。
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6月、劉琨と拓跋猗盧が陘北で会合し、漢攻略の方策を練った。7月、劉琨は藍谷に進み、拓跋猗盧は拓跋普根を派遣して北屈に駐軍させた。劉琨は監軍韓拠に命じ、西河から南下して西平城に向かわせた。 劉聡は大将軍・劉粲に劉琨を、驃騎将軍劉易に拓跋普根を防がせ、蕩晋将軍[[蘭陽]]に西平城を救援させた。劉琨らは漢軍が動いたと知ると退却した。
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9月、晋の大都督麹允は黄白城に拠っており、劉曜・趙染は幾度も破った。晋の征東大将軍索綝は兵を率いて麹允の救援に当たった。10月、趙染は前鋒大都督・安南大将軍となり、精鋭の騎兵5000を率いて長安を奇襲した。その途上、晋軍を渭陽において撃ち破り、将軍[[王広]]を討ち取った。夜に乗じて長安外城に入ると、愍帝は射鴈楼に逃れた。趙染は、龍尾山下の晋軍の諸陣営を焼き払い、1000人余りを殺害して財貨を奪った。明け方、逍遙園に駐屯した後、趙染は軍を返した。麹鑒が追撃を掛けるも、零武で劉曜に遭遇し、麹鑒は大敗した。11月、劉曜はこの勝利に驕って備えを設けておらず、麹允が兵を率いて奇襲すると、 大敗を喫して冠軍将軍の喬智明が殺害された。劉曜は平陽に帰還した。
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9月、晋の大都督麹允は黄白城に拠っており、劉曜・趙染は幾度も破った。晋の征東大将軍索綝は兵を率いて麹允の救援に当たった。10月、趙染は前鋒大都督・安南大将軍となり、精鋭の騎兵5000を率いて長安を奇襲した。その途上、晋軍を渭陽において撃ち破り、将軍[[王広]]を討ち取った。夜に乗じて長安外城に入ると、愍帝は射鴈楼に逃れた。趙染は、龍尾山下の晋軍の諸陣営を焼き払い、1000人余りを殺害して財貨を奪った。明け方、逍遙園に駐屯した後、趙染は軍を返した。[[麹鑒]]が追撃を掛けるも、零武で劉曜に遭遇し、麹鑒は大敗した。11月、劉曜はこの勝利に驕って備えを設けておらず、麹允が兵を率いて奇襲すると、 大敗を喫して冠軍将軍の喬智明が殺害された。劉曜は平陽に帰還した。
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劉曜は河南尹に出兵し、石梁で[[魏浚]]を包囲した。[[劉演]]と河内太守の郭黙が救援したが、劉曜は兵を分けて黄河の北で迎えて撃ち、これを破った。魏浚は逃走したが、捕まって殺害された。
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劉曜は河南尹に出兵し、石梁で[[魏浚]]を包囲した。[[劉演]]と河内太守の郭黙が救援したが、劉曜は兵を分けて黄河の北で迎えて撃ち、これを破った。魏浚は逃走したが、捕まって殺害された。
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同月、丞相始め七公を設置し、嫡男の劉粲を[[丞相]]・領大将軍・録尚書事に任じ、晋王に進封して五郡を食ませた。江都王劉延年を録尚書六條事、汝陰王劉景を太師、王育を太傅、任凱を太保、馬景を大司徒、朱紀を大司空、劉曜を大司馬にそれぞれ任じた。輔漢・都護・中軍・上軍・輔軍・鎮衛・鎮京・前軍・後軍・左軍・右軍・下軍・輔国・冠軍・龍驤・武牙の十六大将軍を設置し、各々2000の兵卒を配備し、全て諸子を任命した。また、左右の[[司隷]]を置き、各々に20万戸の領民を領させ、1万戸毎に内史を一人置いた。単于左右輔を置き、各々に夷狄10万落を領させ、1万落毎に都尉を1人置いた。左右選曹尚書を置き、選挙を掌握させた。以上の司隷以下6官について、その位は[[僕射]]に準じることにした。 また、劉易を太尉に任じ、始めて[[相国]]の位を設置し、七公で勲徳のあった者が亡くなった際に贈ることとした。さらに、[[御史大夫]]及び[[州牧]]を置き、位は公に等しいものとした。 |
同月、丞相始め七公を設置し、嫡男の劉粲を[[丞相]]・領大将軍・録尚書事に任じ、晋王に進封して五郡を食ませた。江都王劉延年を録尚書六條事、汝陰王劉景を太師、王育を太傅、任凱を太保、馬景を大司徒、朱紀を大司空、劉曜を大司馬にそれぞれ任じた。輔漢・都護・中軍・上軍・輔軍・鎮衛・鎮京・前軍・後軍・左軍・右軍・下軍・輔国・冠軍・龍驤・武牙の十六大将軍を設置し、各々2000の兵卒を配備し、全て諸子を任命した。また、左右の[[司隷]]を置き、各々に20万戸の領民を領させ、1万戸毎に内史を一人置いた。単于左右輔を置き、各々に夷狄10万落を領させ、1万落毎に都尉を1人置いた。左右選曹尚書を置き、選挙を掌握させた。以上の司隷以下6官について、その位は[[僕射]]に準じることにした。 また、劉易を太尉に任じ、始めて[[相国]]の位を設置し、七公で勲徳のあった者が亡くなった際に贈ることとした。さらに、[[御史大夫]]及び[[州牧]]を置き、位は公に等しいものとした。 |
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5月、劉曜と趙染が長安攻略に向かった。6月、劉曜が再び渭水に赴き、趙染は新豊に拠った。索綝が兵を率いて迎え撃つと、趙染は敵を軽んじており、長史魯徽は諫めた。趙染は取り合わず、精騎数100を率いて迎撃したが敗れて帰還し、恥と悔しさの余りに、魯徽を処刑した。劉曜はこれを聞いて大いに嘆いた。
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5月、劉曜と趙染が長安攻略に向かった。6月、劉曜が再び渭水に赴き、趙染は新豊に拠った。索綝が兵を率いて迎え撃つと、趙染は敵を軽んじており、長史[[魯徽]]は諫めた。趙染は取り合わず、精騎数100を率いて迎撃したが敗れて帰還し、恥と悔しさの余りに、魯徽を処刑した。劉曜はこれを聞いて大いに嘆いた。
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劉曜と趙染が将軍の殷凱と共に数万の兵を率いて長安に向かうと、雍州刺史の麹允が馮翊で迎撃したが、敗れて撤退した。しかしその夜、麹允が殷凱の陣営に夜襲を掛け、殷凱は敗死した。劉曜は軍を戻して懐城の郭黙を攻め、米粟八十万石を収めてから三屯を連ねて包囲した。郭黙は食糧が尽きると妻子を人質に送って投降する旨を伝え、食糧を求めた。漢軍が郭黙に食糧を提供すると、郭黙は再び城門を閉じて城を守った。激怒した劉曜は郭黙の妻子を黄河に沈めると、攻撃を再開した。だが、劉琨が派遣した参軍張肇が鮮卑500騎余りを率いて到来した。また、劉聡が使者を派遣して劉曜へ「長安はひとまず置いておくのだ。晋陽の劉琨こそ国家にとって先に除くべきものである。郭黙などは小醜に過ぎず公の神略を労する必要はないので、征虜将軍・貝丘王の翼光を留めて包囲させ、公は帰還するように」と伝えたために、劉曜は[[蒲坂]]に兵を戻したが、劉聡はこれを招集して輔政させた。趙染が北地を攻めたが、城を攻める最中、矢に当たって戦死した。 |
劉曜と趙染が将軍の[[殷凱]]と共に数万の兵を率いて長安に向かうと、雍州刺史の麹允が馮翊で迎撃したが、敗れて撤退した。しかしその夜、麹允が殷凱の陣営に夜襲を掛け、殷凱は敗死した。劉曜は軍を戻して懐城の郭黙を攻め、米粟八十万石を収めてから三屯を連ねて包囲した。郭黙は食糧が尽きると妻子を人質に送って投降する旨を伝え、食糧を求めた。漢軍が郭黙に食糧を提供すると、郭黙は再び城門を閉じて城を守った。激怒した劉曜は郭黙の妻子を黄河に沈めると、攻撃を再開した。だが、劉琨が派遣した参軍[[張肇]]が鮮卑500騎余りを率いて到来した。また、劉聡が使者を派遣して劉曜へ﹁長安はひとまず置いておくのだ。晋陽の劉琨こそ国家にとって先に除くべきものである。郭黙などは小醜に過ぎず公の神略を労する必要はないので、征虜将軍・貝丘王の[[劉翼光]]を留めて包囲させ、公は帰還するように﹂と伝えたために、劉曜は[[蒲坂]]に兵を戻したが、劉聡はこれを招集して輔政させた。趙染が北地を攻めたが、城を攻める最中、矢に当たって戦死した。
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[[11月]]、劉粲を相国に任じて百揆を監督させ、丞相の位を撤廃して相国と統合した。 |
[[11月]]、劉粲を相国に任じて百揆を監督させ、丞相の位を撤廃して相国と統合した。 |
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=== 佞臣の暗躍 === |
=== 佞臣の暗躍 === |
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[[315年]]、劉聡は中護軍靳準の娘である[[靳月光]]と靳月華が共に殊色があることから、左右の貴嬪に立てた。数か月、靳月光を皇后に立てた。さらに後、靳月光を[[上皇后]]に立て、貴妃劉氏を左皇后に、右貴妃靳氏を右皇后に立てた。陳元達はこの立后について言葉を尽くして諫めたが、劉聡はこれを不快に思い、陳元達を右光禄大夫に任じ、表向きは賢人を優遇することを示しながら、実際にはその権限を奪った。[[太尉]]の范隆・[[大司馬]]の劉丹・[[大司空]]の[[呼延晏]]・[[尚書令]]の王鑒らが皆上表し、自らの地位を陳元達に譲ってでも、この人事を止めるよう懇願した。これを受けた劉聡は、仕方なく陳元達を[[御史大夫]]、儀同三司に任じた。 |
[[315年]]、劉聡は中護軍[[キン準|靳準]]の娘である[[靳月光]]と靳月華が共に殊色があることから、左右の貴嬪に立てた。数か月、靳月光を皇后に立てた。さらに後、靳月光を[[上皇后]]に立て、貴妃劉氏を左皇后に、右貴妃靳氏を右皇后に立てた。陳元達はこの立后について言葉を尽くして諫めたが、劉聡はこれを不快に思い、陳元達を右光禄大夫に任じ、表向きは賢人を優遇することを示しながら、実際にはその権限を奪った。[[太尉]]の范隆・[[大司馬]]の[[劉丹]]・[[大司空]]の[[呼延晏]]・[[尚書令]]の{{仮リンク|王鑒 (前趙)|label=王鑒|zh|王鉴 (汉赵)}}らが皆上表し、自らの地位を陳元達に譲ってでも、この人事を止めるよう懇願した。これを受けた劉聡は、仕方なく陳元達を[[御史大夫]]、儀同三司に任じた。
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3月、東宮太師の |
3月、東宮太師の盧志・東宮太傅の崔瑋・東宮太保の許遐は、皇太弟の劉乂へ謀反を勧めた。だが、劉乂が従わなかったために、その計を取り止めた。東宮舎人の[[苟裕]]はこの一件を劉聡へ報告した。劉聡は盧志・崔瑋・許遐を獄に収め、他のことを理由として殺害した。また、冠威将軍の[[卜抽]]に東宮を占拠させ、劉乂の朝廷への出入りを禁止した。劉乂は恐れ慄いてなすところを知らず、上表して庶民となることを願い、また晋王劉粲を太子とし、息子たちの領土も全て晋王へ献上すると伝えた。だが、卜抽はその表文を通さなかった。
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青州刺史の曹嶷が斉の地一帯を攻略し、その兵が10万余りを数えるようになると石勒は曹嶷が二心を抱いているとして、これを討つことを請うた。劉聡は石勒が斉の地を併呑することを恐れ、これを許さなかった。 |
青州刺史の曹嶷が斉の地一帯を攻略し、その兵が10万余りを数えるようになると石勒は曹嶷が二心を抱いているとして、これを討つことを請うた。劉聡は石勒が斉の地を併呑することを恐れ、これを許さなかった。 |
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8月、劉曜が盟津を渡って河南を攻撃すると、晋の将軍[[魏該]]は逃亡した。劉曜は進んで滎陽の[[李矩]]を攻め、李矩は将軍李平を成皋に派遣したが劉曜はこれを滅ぼした。李矩は恐れを抱き、人質を送って降伏を請うた。劉曜はその後長安を攻めたが、幾度も晋軍に敗れ、軍を引いて帰還した。劉曜は[[上党]]に軍を進めて陽曲を攻めようとすると、劉聡が使者を遣わして劉曜へ「長安がいまだに余命を保っていることは、国家の深く恥じるところである。公は長安を先にして、陽曲は驃騎将軍に任せるように。」と述べた。劉曜は軍を転進して[[郭邁]]を討つと、劉聡のもとへ帰還した後に[[蒲阪]]へ赴いた。 |
8月、劉曜が盟津を渡って河南を攻撃すると、晋の将軍[[魏該]]は逃亡した。劉曜は進んで滎陽の[[李矩]]を攻め、李矩は将軍[[李平]]を成皋に派遣したが劉曜はこれを滅ぼした。李矩は恐れを抱き、人質を送って降伏を請うた。劉曜はその後長安を攻めたが、幾度も晋軍に敗れ、軍を引いて帰還した。劉曜は[[上党]]に軍を進めて陽曲を攻めようとすると、劉聡が使者を遣わして劉曜へ「長安がいまだに余命を保っていることは、国家の深く恥じるところである。公は長安を先にして、陽曲は驃騎将軍に任せるように。」と述べた。劉曜は軍を転進して[[郭邁]]を討つと、劉聡のもとへ帰還した後に[[蒲阪]]へ赴いた。 |
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9月、劉聡は[[大鴻臚]]を[[襄国]]に派遣し、河北に巨大勢力を構える石勒に弓矢を下賜するとともに、陝東伯に任じ、皇帝の代わって軍事を司り、刺史・将軍・郡県長を任命し、列侯を封じる権利を与えた。また、年に一回、朝廷に報告することを命じた。
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9月、劉聡は[[大鴻臚]]を[[襄国]]に派遣し、河北に巨大勢力を構える石勒に弓矢を下賜するとともに、陝東伯に任じ、皇帝の代わって軍事を司り、刺史・将軍・郡県長を任命し、列侯を封じる権利を与えた。また、年に一回、朝廷に報告することを命じた。
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10月、劉曜は長安攻撃の為に再び軍を進め、粟邑に屯した。晋は麹允を大都督驃騎将軍に任命して劉曜を防がせた。麹允の軍は餓えが酷く、黄白を去って[[霊武]]に軍を置いた。劉曜が上郡を攻めると、太守張禹と馮翊太守梁粛は允吾に逃走した。関右の地はみな劉曜に応じ、劉曜は軍を進めて[[黄阜]]に拠った。
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10月、劉曜は長安攻撃の為に再び軍を進め、粟邑に屯した。晋は麹允を大都督驃騎将軍に任命して劉曜を防がせた。麹允の軍は餓えが酷く、黄白を去って[[霊武]]に軍を置いた。劉曜が上郡を攻めると、太守[[張禹]]と馮翊太守[[梁粛]]は允吾に逃走した。関右の地はみな劉曜に応じ、劉曜は軍を進めて[[黄阜]]に拠った。
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陳元達は上皇后靳月光に淫行の行為があったことを上奏した。劉聡は靳月光を特に寵愛していたが、陳元達の勢を考慮して皇后から廃した。間もなく靳月光は恥じ入って自殺すると、劉聡はその容姿を追思し、陳元達を怨んだ。これ以降、劉聡と靳月光の父である |
陳元達は上皇后靳月光に淫行の行為があったことを上奏した。劉聡は靳月光を特に寵愛していたが、陳元達の勢を考慮して皇后から廃した。間もなく靳月光は恥じ入って自殺すると、劉聡はその容姿を追思し、陳元達を怨んだ。これ以降、劉聡と靳月光の父である靳準は陳元達と不仲になった。
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劉聡の中常侍[[王沈 (前趙)|王沈]]・[[宣懐]]・[[兪容]]および中宮僕射[[郭猗]]・中黄門[[陵修]]らは皆寵遇されていた。劉聡が後宮に籠って宴に明け暮れ、百日に渡って出ない程になると、王沈が朝政を仕切る様になり、群臣はみな王沈の発言をもって劉聡の意とした。このため、功績のある旧臣が賞されず、奸佞の小人が二千石の官に至ることもあった。当時、連年に渡り戦争が続いた上、将士には賞賜がなく、後宮では僮僕にさえ数千万の賞賜が与えられるようになったために、群臣は大いに不満を抱いた。王沈らの車や衣服、また邸宅の豪華さは諸王を超えており、その子弟で庶民から内史や令長となる者が30人余りにおよび、彼らは良民を迫害して財貨を着服した。靳準の一族も彼等に媚びへつらった。
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劉聡の中常侍[[王沈 (前趙)|王沈]]・[[宣懐]]・[[兪容]]および中宮僕射[[郭猗]]・中黄門[[陵修]]らは皆寵遇されていた。劉聡が後宮に籠って宴に明け暮れ、百日に渡って出ない程になると、王沈が朝政を仕切る様になり、群臣はみな王沈の発言をもって劉聡の意とした。このため、功績のある旧臣が賞されず、奸佞の小人が二千石の官に至ることもあった。当時、連年に渡り戦争が続いた上、将士には賞賜がなく、後宮では僮僕にさえ数千万の賞賜が与えられるようになったために、群臣は大いに不満を抱いた。王沈らの車や衣服、また邸宅の豪華さは諸王を超えており、その子弟で庶民から内史や令長となる者が30人余りにおよび、彼らは良民を迫害して財貨を着服した。靳準の一族も彼等に媚びへつらった。
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[[316年]]1月、郭猗は劉乂に対して怨みがあり、劉粲に向かって、劉乂が大将軍らと共に3月に大宴会を開き、それをきっかけに造反するつもりであると、嘘の発言をした。また、大将軍従事中郎の[[王皮]]・衛軍司馬の[[劉惇]]もこれに加担し、劉粲へ偽りの進言をしたので、劉粲はそれを信用した。 |
[[316年]]1月、郭猗は劉乂に対して怨みがあり、劉粲に向かって、劉乂が大将軍らと共に3月に大宴会を開き、それをきっかけに造反するつもりであると、嘘の発言をした。また、大将軍従事中郎の[[王皮]]・衛軍司馬の[[劉惇 (前趙)|劉惇]]もこれに加担し、劉粲へ偽りの進言をしたので、劉粲はそれを信用した。 |
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また、靳準の従妹は劉乂の侍女となったが侍人と密通した為に劉乂は怒ってこれを殺し、このことでしばしば靳準を嘲笑した。靳準は深く慚じ怒った。そして劉粲へ、劉乂を誅殺して劉粲が皇太子になることを勧めた。また、一計を案じて、あえて東宮の禁固を緩めて劉乂が賓客と交流するのを許可し、軽薄な小人が劉乂に近づいて謀反を持ち込むのを待ち、その罪を暴露して劉乂と交流した者を捕えて責め、劉聡にそれを示すべし、と告げた。劉粲はその言葉を信じて |
また、靳準の従妹は劉乂の侍女となったが侍人と密通した為に劉乂は怒ってこれを殺し、このことでしばしば靳準を嘲笑した。靳準は深く慚じ怒った。そして劉粲へ、劉乂を誅殺して劉粲が皇太子になることを勧めた。また、一計を案じて、あえて東宮の禁固を緩めて劉乂が賓客と交流するのを許可し、軽薄な小人が劉乂に近づいて謀反を持ち込むのを待ち、その罪を暴露して劉乂と交流した者を捕えて責め、劉聡にそれを示すべし、と告げた。劉粲はその言葉を信じて卜抽に命じ、兵を率いて東宮を去らせた。
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劉聡は[[315年]]の冬より朝政に出席しなくなり、軍事・政務に関しては全て[[劉粲]]に任せ、刑事の執行と官爵の授与については王沈・郭猗らを通して行わせた。しかし、王沈はほとんど奏上せず、独断で決した。 |
劉聡は[[315年]]の冬より朝政に出席しなくなり、軍事・政務に関しては全て[[劉粲]]に任せ、刑事の執行と官爵の授与については王沈・郭猗らを通して行わせた。しかし、王沈はほとんど奏上せず、独断で決した。 |
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[[2月]]、劉聡は少府の[[陳休]]と左衛将軍の[[ト崇]]を始め、[[特進]]の[[綦毋達]]・太中大夫の[[公師彧]]・[[尚書]]の[[王琰]]・[[田歆]]・[[大司農]]の朱誕らをみな誅殺した。彼らは、王沈を始めとした宦官が忌み嫌っていた者達であった。[[侍中]]の[[卜幹]]は泣いて劉聡を諫め「陛下は今まで賢人を求めて側近に侍らせてきましたが、今、一度に七人もの卿大夫を殺戮なされます。陛下は忠良な者を先に誅して後はどうされるのでしょうか。仮に彼等が有罪だとしても、陛下は裁判という正式な手順を踏まずに処罰なさるのです。天下の人々がどうして靡くでしょうか。それに、詔は臣の職務ですが、今回の件では何の相談にも預かっておりません。昔、秦が三人の臣下を殺したとき、君子は秦の穆公が覇者になれないことを知ったのです。どうか陛下、よくお考え直しくださいませ」と言い、叩頭して流血した。王沈は卜幹を叱責し「卜侍中は詔を拒むというのか」と言った。劉聡はその諫言を聞き入れず、衣を引いて奥へ入ると、卜幹を免官して庶人に落とした。 |
[[2月]]、劉聡は少府の[[陳休]]と左衛将軍の[[ト崇]]を始め、[[特進]]の[[綦毋達]]・太中大夫の[[公師彧]]・[[尚書]]の[[王琰]]・[[田歆]]・[[大司農]]の[[朱誕]]らをみな誅殺した。彼らは、王沈を始めとした宦官が忌み嫌っていた者達であった。[[侍中]]の[[卜幹]]は泣いて劉聡を諫め﹁陛下は今まで賢人を求めて側近に侍らせてきましたが、今、一度に七人もの卿大夫を殺戮なされます。陛下は忠良な者を先に誅して後はどうされるのでしょうか。仮に彼等が有罪だとしても、陛下は裁判という正式な手順を踏まずに処罰なさるのです。天下の人々がどうして靡くでしょうか。それに、詔は臣の職務ですが、今回の件では何の相談にも預かっておりません。昔、秦が三人の臣下を殺したとき、君子は秦の[[穆公 (秦)|穆公]]が覇者になれないことを知ったのです。どうか陛下、よくお考え直しくださいませ﹂と言い、叩頭して流血した。王沈は卜幹を叱責し﹁卜侍中は詔を拒むというのか﹂と言った。劉聡はその諫言を聞き入れず、衣を引いて奥へ入ると、卜幹を免官して庶人に落とした。
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[[太宰]]の劉易・[[大将軍]]の劉敷・[[御史大夫]]の陳元達・金紫[[光禄大夫]]の[[王延]]らが参内し﹁今、王沈らは常伯の位にあって生殺与奪の権を握り、その勢威は海内を傾むかせるほどます。その愛憎によって詔を偽り、内にあっては陛下に諂い。外にあっては相国を佞しております。その威権は人主と変わらず、王公でさえ目を側め、卿宰ですら望塵の拝をとっております。彼らは人の推挙にも影響を及ぼし、実のある選挙が行われることはなくなりました。そのために、士卒は自らを取り上げるために、政治では賄賂が横行するようになり、姦徒が集まり忠善が毒されるようになりました。王琰らは忠臣であり、彼らが忠節を陛下に尽くしていることから、王沈らは自らの姦事が露見することを恐れて極刑に陥れたのです。陛下が賢察を垂れずに誅戮を加えてしまい、怨念は穹蒼に轟き、痛念は九泉に至り、悲嘆は四海に響き、賢愚はともに恐れ慄いております。王沈らはみな刑余の身︵宦官の事︶であり、背恩忘義の類です。どうして士人や君子のように恩に感じることがあるでしょうか。陛下はなぜこれらを親しく近づけ、任用されているのでしょうか。昔、斉の[[桓公 (斉)|桓公]]が[[易牙]]を任用した事により乱を招き、[[蜀漢]]の孝懐帝︵[[劉禅]]︶が[[黄皓]]を任用して滅びを招いたことがありましたが、これらは悪い前例です。ここ数年、地震や日蝕があり、血雨や火災があったのも全て王沈らが原因です。願わくは凶悪の者が刑事に参与する流れを断ち、尚書・御史に朝廷の万事に当たらせ、相国・公卿と五日に一日は政事について議し、大臣にはその言を包み隠さず発言させ、忠臣にはその意を通させますように。今、晋の残党は平定されず、巴蜀の地は従わず、石勒は趙魏の地に割拠する意思をひそかに持ち、曹嶷は全斉の地に王たらんという心を抱いている上に王沈らが大政を乱しております。陛下の心腹四肢で患いがない箇所は有りません。王沈らの官を免じ、有司に付して罪を裁かれますように﹂と、固く諫めた。
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[[太宰]]の劉易・[[大将軍]]の[[劉敷]]・[[御史大夫]]の陳元達・金紫[[光禄大夫]]の[[王延]]らが参内し﹁今、王沈らは常伯の位にあって生殺与奪の権を握り、その勢威は海内を傾むかせるほどます。その愛憎によって詔を偽り、内にあっては陛下に諂い。外にあっては相国を佞しております。その威権は人主と変わらず、王公でさえ目を側め、卿宰ですら望塵の拝をとっております。彼らは人の推挙にも影響を及ぼし、実のある選挙が行われることはなくなりました。そのために、士卒は自らを取り上げるために、政治では賄賂が横行するようになり、姦徒が集まり忠善が毒されるようになりました。王琰らは忠臣であり、彼らが忠節を陛下に尽くしていることから、王沈らは自らの姦事が露見することを恐れて極刑に陥れたのです。陛下が賢察を垂れずに誅戮を加えてしまい、怨念は穹蒼に轟き、痛念は九泉に至り、悲嘆は四海に響き、賢愚はともに恐れ慄いております。王沈らはみな刑余の身︵宦官の事︶であり、背恩忘義の類です。どうして士人や君子のように恩に感じることがあるでしょうか。陛下はなぜこれらを親しく近づけ、任用されているのでしょうか。昔、斉の[[桓公 (斉)|桓公]]が[[易牙]]を任用した事により乱を招き、[[蜀漢]]の孝懐帝︵[[劉禅]]︶が[[黄皓]]を任用して滅びを招いたことがありましたが、これらは悪い前例です。ここ数年、地震や日蝕があり、血雨や火災があったのも全て王沈らが原因です。願わくは凶悪の者が刑事に参与する流れを断ち、尚書・御史に朝廷の万事に当たらせ、相国・公卿と五日に一日は政事について議し、大臣にはその言を包み隠さず発言させ、忠臣にはその意を通させますように。今、晋の残党は平定されず、巴蜀の地は従わず、石勒は趙魏の地に割拠する意思をひそかに持ち、曹嶷は全斉の地に王たらんという心を抱いている上に王沈らが大政を乱しております。陛下の心腹四肢で患いがない箇所は有りません。王沈らの官を免じ、有司に付して罪を裁かれますように﹂と、固く諫めた。
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劉聡はこの上表文を王沈らに見せると、笑って「陳元達が言うには、汝(王沈)らは痴れ者だそうだ」と言い、そのまま対応することなく横になった。王沈は頓首して涙を流し「臣らは小人であって陛下の抜擢を受けましたが、王公朝士は臣らを仇のように憎んでおり、また深く陛下を恨んでおります。どうか臣らを廃して廷内の上下の和を結ばれますように」と言った。劉聡は「この文は偽りであり、卿はどうして恨まれることがあるというのか」と答えた。さらに嫡子の劉粲に問うと、劉粲は王沈らが王室に忠誠を尽くしていると盛んに称賛した。劉聡は大いによろこび、王沈らを封じて列侯とした。 |
劉聡はこの上表文を王沈らに見せると、笑って「陳元達が言うには、汝(王沈)らは痴れ者だそうだ」と言い、そのまま対応することなく横になった。王沈は頓首して涙を流し「臣らは小人であって陛下の抜擢を受けましたが、王公朝士は臣らを仇のように憎んでおり、また深く陛下を恨んでおります。どうか臣らを廃して廷内の上下の和を結ばれますように」と言った。劉聡は「この文は偽りであり、卿はどうして恨まれることがあるというのか」と答えた。さらに嫡子の劉粲に問うと、劉粲は王沈らが王室に忠誠を尽くしていると盛んに称賛した。劉聡は大いによろこび、王沈らを封じて列侯とした。 |
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=== 西晋の滅亡 === |
=== 西晋の滅亡 === |
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7月、[[北地郡|北地]]での飢饉が悪化して人々は互いに食い合うまでとなった。劉曜が北地太守の麹昌を包囲すると、羌酋軍須は軍糧を麹昌に供給したが、劉雅がこれを破った。麹允は歩騎3万を率いて北地に向かうも。劉曜が破った。劉曜が追撃を掛けると、磻石谷で再び破り、麹允は霊武に撤退し、劉曜は北地を占領した。北地を占領した劉曜は[[涇陽]]に進み、渭北の諸城が壊滅した。劉曜は建威将軍[[魯充]]、散騎常侍[[梁緯]]、少府[[皇甫陽]]を捕虜にした。 |
7月、[[北地郡|北地]]での飢饉が悪化して人々は互いに食い合うまでとなった。劉曜が北地太守の[[麹昌]]を包囲すると、羌酋軍須は軍糧を麹昌に供給したが、劉雅がこれを破った。麹允は歩騎3万を率いて北地に向かうも。劉曜が破った。劉曜が追撃を掛けると、磻石谷で再び破り、麹允は霊武に撤退し、劉曜は北地を占領した。北地を占領した劉曜は[[涇陽]]に進み、渭北の諸城が壊滅した。劉曜は建威将軍[[魯充]]、散騎常侍[[梁緯]]、少府[[皇甫陽]]を捕虜にした。 |
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平陽でも飢饉が悪化し、10人のうち5〜6人が流亡するか餓死した。石勒は[[石越]]に騎兵2万を与えて并州に駐屯させ、流民を按撫させた。これにより20万戸の民が石勒に帰順した。劉聡は黄門侍郎喬詩を派遣して石勒を責めたが、石勒はこれを無視して密かに曹嶷と結んだ。
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平陽でも飢饉が悪化し、10人のうち5〜6人が流亡するか餓死した。石勒は[[石越]]に騎兵2万を与えて并州に駐屯させ、流民を按撫させた。これにより20万戸の民が石勒に帰順した。劉聡は黄門侍郎[[喬詩]]を派遣して石勒を責めたが、石勒はこれを無視して密かに曹嶷と結んだ。
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劉聡が張氏の侍女である樊氏を上皇に立てた。この時、皇后は既に4人おり、皇后の璽綬が与えられた者も7人いた。朝廷の内外の綱紀が緩み、みな他人の顔色を窺い、各所で賄賂が横行し、軍隊が外に活動して国内は飢饉や疫病に悩まされているにも関わらず、後宮への賞賜は1000万に及んだ。劉敷は何度も泣いて諫言したが、劉聡はこれを容れずにかえって怒り﹁汝は朝夕やって来て人の前で涙を流すが、人を死人のように扱うのか﹂と言った。劉敷は憂いと憤りのあまり病を発して亡くなった。
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劉聡が張氏の侍女である樊氏を上皇に立てた。この時、皇后は既に4人おり、皇后の璽綬が与えられた者も7人いた。朝廷の内外の綱紀が緩み、みな他人の顔色を窺い、各所で賄賂が横行し、軍隊が外に活動して国内は飢饉や疫病に悩まされているにも関わらず、後宮への賞賜は1000万に及んだ。劉敷は何度も泣いて諫言したが、劉聡はこれを容れずにかえって怒り﹁汝は朝夕やって来て人の前で涙を流すが、人を死人のように扱うのか﹂と言った。劉敷は憂いと憤りのあまり病を発して亡くなった。
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=== 最期 === |
=== 最期 === |
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318年3月、李矩が郭黙・郭誦に命じて趙固を救援させ、耿稚・張皮を密かに渡河させて劉粲を襲った。貝丘王の劉翼光がこれを察知して劉粲に告げたが、劉粲は備えなかった。この夜、耿稚らが劉粲の軍を襲って破り、劉粲は陽郷に撤退し、耿稚は劉粲の砦に軍糧を集めて拠った。劉雅生はこれを聞いて駆けつけ、砦外に陣営を設けて耿稚と対峙した。劉聡が劉粲の敗北を聞いて太尉范隆に騎兵を率いて赴かせると、耿稚らは恐れて5000の兵を率いて包囲を突破し、北山に逃走して南へ向かった。劉勲がこれを追撃し、河陽で戦って耿稚を大破して3500人を殺害し、また河に投じて死亡した晋兵も1000人余りに及んだ。 |
318年3月、李矩が郭黙・郭誦に命じて趙固を救援させ、[[耿稚]]・[[張皮]]を密かに渡河させて劉粲を襲った。貝丘王の劉翼光がこれを察知して劉粲に告げたが、劉粲は備えなかった。この夜、耿稚らが劉粲の軍を襲って破り、劉粲は陽郷に撤退し、耿稚は劉粲の砦に軍糧を集めて拠った。劉雅生はこれを聞いて駆けつけ、砦外に陣営を設けて耿稚と対峙した。劉聡が劉粲の敗北を聞いて太尉范隆に騎兵を率いて赴かせると、耿稚らは恐れて5000の兵を率いて包囲を突破し、北山に逃走して南へ向かった。劉勲がこれを追撃し、河陽で戦って耿稚を大破して3500人を殺害し、また河に投じて死亡した晋兵も1000人余りに及んだ。
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平陽の螽斯則百堂で火災が発生し、劉聡の子である会稽王劉衷以下21人が焼死した。劉聡はこれを聞いて悲しみのあまり気絶し、しばらくしてようやく意識を回復した。 |
平陽の螽斯則百堂で火災が発生し、劉聡の子である会稽王[[劉衷]]以下21人が焼死した。劉聡はこれを聞いて悲しみのあまり気絶し、しばらくしてようやく意識を回復した。 |
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驃騎大将軍・済南王の劉驥を大将軍・都督中外諸軍事・録尚書に任じ、衛大将軍・斉王の劉勱を大司徒に任じた。 |
驃騎大将軍・済南王の劉驥を大将軍・都督中外諸軍事・録尚書に任じ、衛大将軍・斉王の[[劉勱]]を大司徒に任じた。 |
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中常侍王沈の養女が14歳で非常に美しく劉聡は彼女を左皇后に立てた。[[尚書令]]の王鑒・中書監の崔懿之・[[中書令]]の曹恂らが諫めて﹁王たるもの天の徳を持ち、后たるもの地の徳を持つと言います。命ある時は宗廟を守護し、死した後は陵墓により守られます。世に優れた徳を持つ人間を選び、衆の望に叶ってこそ、神祇の心は賞賛を受けるのです。[[趙 (戦国)|戦国趙]]の[[孝成王 (趙)|孝成]]は心の望むままに身分の低い女子を后としたために王統の断絶し、社稷の傾きを招いたのです。大漢の禍もこれに他なりません。[[麟嘉 (前趙)|麟嘉]]以来、中宮の位は徳を持って選んでおりません。特に今回は、刑余りの小醜である王沈やその弟女が朝廷を汚しているというのに、その下女などを入れるべきではありません。六宮の妃嬪は皆公子公孫であるのに、どうして下女を入れようというのでしょうか。臣は国家に禍が訪れることを恐れます﹂と言った。
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中常侍王沈の養女が14歳で非常に美しく劉聡は彼女を左皇后に立てた。[[尚書令]]の王鑒・中書監の[[崔懿之]]・[[中書令]]の[[曹恂]]らが諫めて﹁王たるもの天の徳を持ち、后たるもの地の徳を持つと言います。命ある時は宗廟を守護し、死した後は陵墓により守られます。世に優れた徳を持つ人間を選び、衆の望に叶ってこそ、神祇の心は賞賛を受けるのです。[[趙 (戦国)|戦国趙]]の[[孝成王 (趙)|孝成]]は心の望むままに身分の低い女子を后としたために王統の断絶し、社稷の傾きを招いたのです。大漢の禍もこれに他なりません。[[麟嘉 (前趙)|麟嘉]]以来、中宮の位は徳を持って選んでおりません。特に今回は、刑余りの小醜である王沈やその弟女が朝廷を汚しているというのに、その下女などを入れるべきではありません。六宮の妃嬪は皆公子公孫であるのに、どうして下女を入れようというのでしょうか。臣は国家に禍が訪れることを恐れます﹂と言った。
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劉聡はこれを聞いて激怒し、宣懐を劉粲の下へ派遣し﹁王鑒らは国家を侮って狂言を口にしております。君臣上下の礼も失しており、速やかに対処しますように﹂と言い、劉粲は王鑒らを捕らえてて東市に送った。金紫光禄大夫の王延が急行して劉聡を諫めようとしたが、門衛が通さなかった。王鑒らの刑の執行に際して王沈が杖をもって王鑒を叩き﹁庸奴め。もう悪事は起こせまい。貴様のような者と長年共にしてたとはな﹂と詰った。王鑒が目を瞋らせてこれを叱咤して﹁豎子め。漢を滅ぼす者は汝ら鼠輩と靳準である。先帝に訴えて汝らを地下において捕えるだろう﹂と言った。また、崔懿之は﹁靳準の容姿を見るに必ずや国の患いとなるだろう。汝も人を食らったからには、必ずや人が汝を喰らうだろう﹂と言い放った。王沈は彼らを処刑した。劉聡はさらに中常侍宣懐の養女を中皇后に立てた。
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劉聡はこれを聞いて激怒し、宣懐を劉粲の下へ派遣し﹁王鑒らは国家を侮って狂言を口にしております。君臣上下の礼も失しており、速やかに対処しますように﹂と言い、劉粲は王鑒らを捕らえてて東市に送った。金紫光禄大夫の王延が急行して劉聡を諫めようとしたが、門衛が通さなかった。王鑒らの刑の執行に際して王沈が杖をもって王鑒を叩き﹁庸奴め。もう悪事は起こせまい。貴様のような者と長年共にしてたとはな﹂と詰った。王鑒が目を瞋らせてこれを叱咤して﹁豎子め。漢を滅ぼす者は汝ら鼠輩と靳準である。先帝に訴えて汝らを地下において捕えるだろう﹂と言った。また、崔懿之は﹁靳準の容姿を見るに必ずや国の患いとなるだろう。汝も人を食らったからには、必ずや人が汝を喰らうだろう﹂と言い放った。王沈は彼らを処刑した。劉聡はさらに中常侍宣懐の養女を中皇后に立てた。
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7月、劉虎が朔方から代王拓跋鬱律の西部を攻撃するも、返り討ちに遭った。劉虎は逃走し、従弟の劉路孤は部落を率いて拓跋鬱律に帰順した。 |
7月、劉虎が朔方から代王[[拓跋鬱律]]の西部を攻撃するも、返り討ちに遭った。劉虎は逃走し、従弟の{{仮リンク|劉路孤|label=劉路孤|zh|路孤}}は部落を率いて拓跋鬱律に帰順した。
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同月、劉聡は病に倒れた。劉聡の少子で既に亡くなっている劉約の幻覚がしばしば見られるようになったという。劉曜を丞相に、石勒を大将軍に任じて、二人を録尚書事に任じ、遺詔を与えて政治を輔けるよう命じたが、二人とも固辞した。その為、劉曜を丞相・領雍州牧に、石勒を大将軍・領幽冀二州牧に任じたが、石勒は今度も辞退した。劉景を太宰に、劉驥を大司馬に、朱紀を太傅に、呼延晏を太保に任じて、皆録尚書事に任じた。また、范隆を尚書令・儀同三司に任じ、靳準を大司空・領司隷校尉に任じて尚書の奏事を裁決させた。
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同月、劉聡は病に倒れた。劉聡の少子で既に亡くなっている[[劉約]]の幻覚がしばしば見られるようになったという。劉曜を丞相に、石勒を大将軍に任じて、二人を録尚書事に任じ、遺詔を与えて政治を輔けるよう命じたが、二人とも固辞した。その為、劉曜を丞相・領雍州牧に、石勒を大将軍・領幽冀二州牧に任じたが、石勒は今度も辞退した。劉景を太宰に、劉驥を大司馬に、朱紀を太傅に、呼延晏を太保に任じて、皆録尚書事に任じた。また、范隆を尚書令・儀同三司に任じ、靳準を大司空・領司隷校尉に任じて尚書の奏事を裁決させた。
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間もなく劉聡は亡くなった。在位すること9年で昭武皇帝と追諡し、廟号を烈宗とした。 |
間もなく劉聡は亡くなった。在位すること9年で昭武皇帝と追諡し、廟号を烈宗とした。 |
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* 劉聡の暴政を暗示するためか、『[[晋書]]』には以下のような怪異な出来事が度々記載されている。 |
* 劉聡の暴政を暗示するためか、『[[晋書]]』には以下のような怪異な出来事が度々記載されている。 |
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# [[314年]]1月、隕石の破片が平陽に墜落した後、その破片から臭いが発せられ、平陽にまで達した。また、破片の側からは昼夜関係なく哭声が聞こえた。ちょうど同じ時期、劉娥が一匹の蛇と一退匹の猛獣を産み、それらは走り出て人を殺害した。そのまま姿が見えなくなったが、しばらくして先に墜落した破片の傍らで発見された。その時、突然劉娥は亡くなり、破片が消えてなくなり哭声も止んだ。これ以降後宮が乱れたという。 |
# [[314年]]1月、隕石の破片が平陽に墜落した後、その破片から臭いが発せられ、平陽にまで達した。また、破片の側からは昼夜関係なく哭声が聞こえた。ちょうど同じ時期、劉娥が一匹の蛇と一退匹の猛獣を産み、それらは走り出て人を殺害した。そのまま姿が見えなくなったが、しばらくして先に墜落した破片の傍らで発見された。その時、突然劉娥は亡くなり、破片が消えてなくなり哭声も止んだ。これ以降後宮が乱れたという。 |
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# 314年11月、平陽で地震が発生し、激しい風が起こって木を引き抜き家の屋根を破壊した。光義の人である羊充の妻が双頭の子を産んだ。羊充の兄はその子を食べ、その兄は三日後に亡くなった。 |
# 314年11月、平陽で地震が発生し、激しい風が起こって木を引き抜き家の屋根を破壊した。光義の人である[[羊充]]の妻が双頭の子を産んだ。羊充の兄はその子を食べ、その兄は三日後に亡くなった。 |
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# 315年初旬、漢の宮中で、鬼が夜哭きした。それは3日間続き、鬼の声は右司隸の屋敷に移った所で聞こえなくなった。 |
# 315年初旬、漢の宮中で、鬼が夜哭きした。それは3日間続き、鬼の声は右司隸の屋敷に移った所で聞こえなくなった。 |
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# 315年中旬、平陽において地震が発生し、東宮には血雨が降った。血雨は広範囲に広がり、後に止んだ。 |
# 315年中旬、平陽において地震が発生し、東宮には血雨が降った。血雨は広範囲に広がり、後に止んだ。 |
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# 316年中旬、犬と豚が相国府の門、宮門、司隷の御史の門で交わった。豚は賢冠をつけて劉聡の朝廷の席に昇った。犬もまた武冠をつけて綬を帯び、豚と共に朝廷に上った。その後、殿上において犬と豚は闘死した。宿衛の者でこの2匹が朝廷内に入るところを見た者はいなかったという。その後、劉聡の暴虐ぶりは甚だ激しくなり、何者も恐れなくなったという。 |
# 316年中旬、犬と豚が相国府の門、宮門、司隷の御史の門で交わった。豚は賢冠をつけて劉聡の朝廷の席に昇った。犬もまた武冠をつけて綬を帯び、豚と共に朝廷に上った。その後、殿上において犬と豚は闘死した。宿衛の者でこの2匹が朝廷内に入るところを見た者はいなかったという。その後、劉聡の暴虐ぶりは甚だ激しくなり、何者も恐れなくなったという。 |
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# 316年末、漢の東宮の四つの門が理由もなく崩壊し、突然内史の女人が男に変じた。 |
# 316年末、漢の東宮の四つの門が理由もなく崩壊し、突然内史の女人が男に変じた。 |
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# 317年初旬、東宮において鬼が哭いた。また、南の一端が分岐した赤い虹が天にかかった。その虹は三日に渡って照り続け、各々に5色の光輪があり、甚だ鮮明であった。さらに、[[客星]]が[[紫微垣|紫宮]]を辿って天獄に入ってから消えるという異変が起こった。太史令の康相は劉聡に対して「虹が天に現れて南側分岐しており、三日に渡って照りました。また、客星が紫宮に入りました。これらは皆大きな異変であって遠からずこの示唆するものが起きるでしょう。今、虹が東西にわたっているということは、許洛以南の攻略を企ててはならないということです。南が別れているのは李氏が巴蜀に跨拠し、司馬睿が全呉の地に拠って天下が三分することを示しています。月は胡王を暗示しております。漢は二京を包括し、龍騰(英雄)や九五(天子の位)を得ましたが、次第に燕・代が精強となり、北朔の地に基盤を築き、太陰の変は漢域に至るでしょう。漢はすでに中原の地に拠って暦命に属しておりが、紫宮の異変に関しても他ではありません。石勒は趙魏の地を、曹嶷は東斉の地をそれぞれ狙っており、鮮卑の衆は燕代に分布しており、斉・代・燕・趙の地には皆強大となる気があります。どうか陛下には東夏の地、西南の地をお考えになりませんように。呉蜀は北侵することはできませんが、これはちょうど大漢が南へ向かえないのと同様です。今、都の守りは弱く、石勒の兵は精強であります。もし趙魏の精鋭をあげ燕の突騎をもって上党から来攻し、曹嶷が三斉の衆をもってこれに続いたら陛下はどうやってこれに対抗しようというのでしょうか。紫宮の変はここにあるのです。陛下にあっては、早くこれに対処されて、人に反逆の心が起きないようにする事を願います。陛下は詔を発し、外にあっては秦皇、漢武のように遠方を従え、内にあっては高帝が楚を図るが如く計を為していただきますよう。そうすれば、失敗することなどありましょうか」と進言した。劉聡はこれを聞くと大いに不快がったという。 |
# 317年初旬、東宮において鬼が哭いた。また、南の一端が分岐した赤い虹が天にかかった。その虹は三日に渡って照り続け、各々に5色の光輪があり、甚だ鮮明であった。さらに、[[客星]]が[[紫微垣|紫宮]]を辿って天獄に入ってから消えるという異変が起こった。太史令の康相は劉聡に対して﹁虹が天に現れて南側分岐しており、三日に渡って照りました。また、客星が紫宮に入りました。これらは皆大きな異変であって遠からずこの示唆するものが起きるでしょう。今、虹が東西にわたっているということは、許洛以南の攻略を企ててはならないということです。南が別れているのは李氏が巴蜀に跨拠し、[[元帝 (東晋)|司馬睿]]が全呉の地に拠って天下が三分することを示しています。月は胡王を暗示しております。漢は二京を包括し、龍騰︵英雄︶や九五︵天子の位︶を得ましたが、次第に燕・代が精強となり、北朔の地に基盤を築き、太陰の変は漢域に至るでしょう。漢はすでに中原の地に拠って暦命に属しておりが、紫宮の異変に関しても他ではありません。石勒は趙魏の地を、曹嶷は東斉の地をそれぞれ狙っており、鮮卑の衆は燕代に分布しており、斉・代・燕・趙の地には皆強大となる気があります。どうか陛下には東夏の地、西南の地をお考えになりませんように。呉蜀は北侵することはできませんが、これはちょうど大漢が南へ向かえないのと同様です。今、都の守りは弱く、石勒の兵は精強であります。もし趙魏の精鋭をあげ燕の突騎をもって上党から来攻し、曹嶷が三斉の衆をもってこれに続いたら陛下はどうやってこれに対抗しようというのでしょうか。紫宮の変はここにあるのです。陛下にあっては、早くこれに対処されて、人に反逆の心が起きないようにする事を願います。陛下は詔を発し、外にあっては[[始皇帝|秦皇]]、[[武帝 (漢)|漢武]]のように遠方を従え、内にあっては[[劉邦|高帝]]が楚を図るが如く計を為していただきますよう。そうすれば、失敗することなどありましょうか﹂と進言した。劉聡はこれを聞くと大いに不快がったという。
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# 317年4月、劉乂の死後、汾河は大いに溢れ、千家余りが流された。また、東宮に災異が発生し、門閤宮殿が崩壊し跡形もなくなったという。 |
# 317年4月、劉乂の死後、汾河は大いに溢れ、千家余りが流された。また、東宮に災異が発生し、門閤宮殿が崩壊し跡形もなくなったという。 |
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# 318年中旬、螽斯則百堂で火災が起きた後の事、突然平陽の西明門が崩壊し、霍山が崩壊したという。 |
# 318年中旬、螽斯則百堂で火災が起きた後の事、突然平陽の西明門が崩壊し、霍山が崩壊したという。 |
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*河内王[[劉粲]](隠帝) |
*河内王[[劉粲]](隠帝) |
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*彭城王[[劉翼]] |
*彭城王[[劉翼]] |
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*高平王[[劉悝]] |
*高平王[[劉カイ (前趙)|劉悝]] |
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*渤海王[[劉敷]] |
*渤海王[[劉敷]] |
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*河南王[[劉 |
*河南王[[劉キ (前趙)|劉驥]] |
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*燕王[[劉鸞]] |
*燕王[[劉鸞]] |
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*楚王[[劉鴻]] |
*楚王[[劉鴻]] |
2017年9月17日 (日) 16:19時点における版
昭武帝 劉聡 | |
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漢 | |
第3代皇帝 | |
王朝 | 漢 |
在位期間 | 310年 - 318年 |
姓・諱 |
劉聡 劉戴[1] |
字 | 玄明 |
諡号 | 昭武皇帝 |
廟号 | 烈宗 |
生年 | 不詳 |
没年 |
麟嘉3年7月19日 (318年8月31日) |
父 | 光文帝 |
母 | 光献皇后 |
后妃 | #后妃参照 |
陵墓 | 宣光陵 |
年号 |
光興 : 310年 - 311年 嘉平 : 311年 - 315年 建元 : 315年 - 316年 麟嘉 : 316年 - 318年 |