「坊門清忠」の版間の差分
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[[延元]]3年/[[暦応]]元年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]︵[[1338年]][[4月11日]]︶[[薨去]]︵﹃公卿補任﹄<ref name="dainihonshiryo-6-4-769">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0604/0769 ﹃大日本史料﹄6編4冊769頁].</ref>︶。[[榊原忠次]]﹃新葉集作者部類﹄によれば、享年56とされるが、定かではない{{efn|name="died-at"}}。
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[[延元]]3年/[[暦応]]元年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]︵[[1338年]][[4月11日]]︶[[薨去]]︵﹃公卿補任﹄<ref name="dainihonshiryo-6-4-769">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0604/0769 ﹃大日本史料﹄6編4冊769頁].</ref>︶。[[榊原忠次]]﹃新葉集作者部類﹄によれば、享年56とされるが、定かではない{{efn|name="died-at"}}。
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これを遡ること2ヶ月前の同年1月23日には、﹁[[後の三房]]﹂の一人である前内大臣吉田定房も薨去しており、相次ぐ古参の腹心の死に、豪快さで知られる帝でさえ打ちひしがれ、清忠と定房の死を悼んだ次の[[御製]]を詠んだ。﹁ことゝはむ 人さへまれに 成にけり 我世のすゑの 程ぞしらるゝ﹂︵﹃[[新葉和歌集]]﹄哀傷・1370︶{{sfn|正宗|1937|p=[ |
これを遡ること2ヶ月前の同年1月23日には、﹁[[後の三房]]﹂の一人である前内大臣吉田定房も薨去しており、相次ぐ古参の腹心の死に、豪快さで知られる帝でさえ打ちひしがれ、清忠と定房の死を悼んだ次の[[御製]]を詠んだ。﹁ことゝはむ 人さへまれに 成にけり 我世のすゑの 程ぞしらるゝ﹂︵﹃[[新葉和歌集]]﹄哀傷・1370︶{{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/246 209]}}︵大意‥親しく言葉を交わせる人も少なくなってしまった。我が人生も終わりに近づいてきたことが知れるものだ︶。翌年、自身の予見通り後醍醐天皇もまた崩御した。
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==人物== |
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歌人でもあり、[[和歌]]は[[勅撰集]]『[[続千載和歌集]]』に1首、準勅撰集『[[新葉和歌集]]』に2首が入集した他、『[[拾遺現藻和歌集]]』・『[[臨永和歌集]]』・『[[松花和歌集]]』などの[[私撰集]]にも入集がある。 |
歌人でもあり、[[和歌]]は[[勅撰集]]『[[続千載和歌集]]』に1首、準勅撰集『[[新葉和歌集]]』に2首が入集した他、『[[拾遺現藻和歌集]]』・『[[臨永和歌集]]』・『[[松花和歌集]]』などの[[私撰集]]にも入集がある。 |
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前中納言定房家にて、行路秋望といへる心をよみ侍ける「ぬれつつも 猶そ分行 旅ころも 朝たつ山の まきの下露」藤原清忠朝臣(『続千載和歌集』羇旅歌・832)<ref name="shoku-senzai">[ |
前中納言定房家にて、行路秋望といへる心をよみ侍ける「ぬれつつも 猶そ分行 旅ころも 朝たつ山の まきの下露」藤原清忠朝臣(『続千載和歌集』羇旅歌・832)<ref name="shoku-senzai">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017215/242 『続千載和歌集』羇旅歌]</ref>。 |
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延元三年九月十三夜内裡三十首歌中に月前紅葉﹁照まさる 月のかつらに ならふらし しぐれぬさきの 秋の紅葉葉﹂︵﹃新葉和歌集﹄秋下・391︶{{sfn|正宗|1937|p=[ |
延元三年九月十三夜内裡三十首歌中に月前紅葉﹁照まさる 月のかつらに ならふらし しぐれぬさきの 秋の紅葉葉﹂︵﹃新葉和歌集﹄秋下・391︶{{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/173 62]}}︵大意‥美しく輝く月の中にあるという伝説の[[カツラ (植物)|桂の木]]に応じたのでしょうか、[[時雨]]の時期もまだ来ていないというのに、秋の紅葉の葉が美しく色づいています︶ 参考‥[[壬生忠岑]]﹁ひさかたの 月の桂も 秋はなほ 紅葉すればや 照りまさるらむ﹂︵﹃[[古今和歌集]]﹄秋上・194︶ なお、原文の﹁延元三年﹂は二年の誤り<ref name="dainihonshiryo-6-4-390" />。
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延元三年九月十三夜内裏三十首歌中に月前逢恋「まれにあふ 夜半の月影 心せよ かたぶけばこそ 鳥も鳴なれ」(『新葉和歌集』恋3・851){{sfn|正宗|1937|p=[ |
延元三年九月十三夜内裏三十首歌中に月前逢恋「まれにあふ 夜半の月影 心せよ かたぶけばこそ 鳥も鳴なれ」(『新葉和歌集』恋3・851){{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/208 132]}} |
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(大意:久しぶりの夜の逢引ですが、月の光に注意してください。月が傾いて明け方になったら、鶏が鳴いて情事がばれてしまうでしょうから) |
(大意:久しぶりの夜の逢引ですが、月の光に注意してください。月が傾いて明け方になったら、鶏が鳴いて情事がばれてしまうでしょうから) |
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=== 湊川の戦い === |
=== 湊川の戦い === |
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『太平記』流布本巻16「正成兵庫に下向の事」{{sfn|博文館編輯局|1913|pp=[ |
『太平記』流布本巻16「正成兵庫に下向の事」{{sfn|博文館編輯局|1913|pp=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/239 459–462]}}では、[[建武の乱]]中、[[延元]]元年/建武3年([[1336年]])5月、[[九州]]より東上した尊氏を迎え討つ際に、天皇の[[比叡山]]臨幸を献策した[[楠木正成]]に対し、清忠は「義貞が一戦も交えぬまま、帝が年に二度まで京を捨てるとは、帝位を軽んじ官軍の面目を失わせるもの」との[[大義名分]]論を振りかざして反対し、義貞とともに迎え撃つべきだと主張した。その結果、正成は[[湊川の戦い]]で戦死し、後醍醐は比叡山遷幸を余儀なくされた。 |
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上記は有名な逸話ではあるが、﹃太平記﹄は軍記物であって、他の史料による裏付けがない場合には、史料的価値はきわめて低い点に注意する必要がある。しかも、﹃太平記﹄古態本︵より原本に近いとされる写本︶の一つである西源院本では、この逸話に坊門清忠の名は一切登場しない{{sfn|今井|内藤|1914|p=[ |
上記は有名な逸話ではあるが、﹃太平記﹄は軍記物であって、他の史料による裏付けがない場合には、史料的価値はきわめて低い点に注意する必要がある。しかも、﹃太平記﹄古態本︵より原本に近いとされる写本︶の一つである西源院本では、この逸話に坊門清忠の名は一切登場しない{{sfn|今井|内藤|1914|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945788/279 532]}}。そのため、原本にはないはずの正成と清忠の確執を、誰かが後で勝手に清忠の名前を付け加えた可能性もある。
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==評価== |
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小説家の[[司馬遼太郎]]は、この逸話は[[昭和]]前期の[[統帥権干犯問題]]︵[[統帥権]]も参照︶において、軍部が独立すべき理由の先例として用いられたのではないだろうか、と、史料による検証がない推測をした<ref>{{Cite book|和書|author=宇内日呂志|title=司馬遼太郎の﹁日本人論﹂と現代の日本 <small>二十一世紀の日本人にその声は届いているか</small>|publisher=[[ブイツーソリューション]] |isbn=|date=2017年|url=https://books.google.co.jp/books?id=KwOuDgAAQBAJ&pg=PT74&dq=%E5%9D%8A%E9%96%80%E6%B8%85%E5%BF%A0%E3%80%80%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjEyrCpl_nUAhULzLwKHfPEBjcQ6AEIIjAA#v=onepage&q=%E5%9D%8A%E9%96%80%E6%B8%85%E5%BF%A0%E3%80%80%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9&f=false}}</ref>。
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小説家の[[司馬遼太郎]]は、この逸話は[[昭和]]前期の[[統帥権干犯問題]]︵[[統帥権]]も参照︶において、軍部が独立すべき理由の先例として用いられたのではないだろうか、と、史料による検証がない推測をした<ref>{{Cite book|和書|author=宇内日呂志|title=司馬遼太郎の﹁日本人論﹂と現代の日本 <small>二十一世紀の日本人にその声は届いているか</small>|publisher=[[ブイツーソリューション]] |isbn=|date=2017年|url=https://books.google.co.jp/books?id=KwOuDgAAQBAJ&pg=PT74&dq=%E5%9D%8A%E9%96%80%E6%B8%85%E5%BF%A0%E3%80%80%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjEyrCpl_nUAhULzLwKHfPEBjcQ6AEIIjAA#v=onepage&q=%E5%9D%8A%E9%96%80%E6%B8%85%E5%BF%A0%E3%80%80%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9&f=false}}</ref>。
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しかし、﹃太平記﹄のより原本に近いとされる西源院本には、正成の献策に反対した者の名に清忠の名は見当たらない{{sfn|今井|内藤|1914|p=[ |
しかし、﹃太平記﹄のより原本に近いとされる西源院本には、正成の献策に反対した者の名に清忠の名は見当たらない{{sfn|今井|内藤|1914|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945788/279 532]}}。
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=== 史料による再評価 === |
=== 史料による再評価 === |
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|[[吉野行宮]]で[[薨去]]︵﹃公卿補任﹄<ref name="dainihonshiryo-6-4-769" />︶ 享年56?{{efn|name="died-at"|﹃新葉集作者部類﹄に﹁補任云暦応元年<small>南朝用延元三</small>三月廿一日於吉野離宮卒五十六歳云々﹂{{sfn|正宗|1937|p=[ |
|[[吉野行宮]]で[[薨去]]︵﹃公卿補任﹄<ref name="dainihonshiryo-6-4-769" />︶ 享年56?{{efn|name="died-at"|﹃新葉集作者部類﹄に﹁補任云暦応元年<small>南朝用延元三</small>三月廿一日於吉野離宮卒五十六歳云々﹂{{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/261 239]}}とあるが、現行の﹃[[公卿補任]]﹄には年齢の記載はない。}}
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2020年7月22日 (水) 23:16時点における版
坊門清忠 | |
---|---|
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代初期 |
生誕 | 弘安6年(1283年)? |
死没 | 延元3年/暦応元年3月21日(1338年4月11日) |
別名 | 通称:坊門宰相 |
官位 | 従二位参議 |
主君 | 後醍醐天皇 |
氏族 | 坊門家(藤原北家道隆流) |
父母 | 父:坊門俊輔 |
兄弟 | 輔能、俊親、清忠 |
子 | 重隆、親忠、女子? |
生涯
人物
伝説・創作
新田義貞に助け舟
湊川の戦い
評価
文学作品による誤解
史料による再評価
略譜
※ 日付=旧暦
和暦 | 西暦 | 月日 | 事柄 |
---|---|---|---|
弘安6年? | 1283年? | 生誕。 | |
正中元年 | 1324年 | 10月29日 | 右中弁に任官。時に正四位下(『弁官補任』)。 |
正中2年 | 1325年 | 12月18日 | 左中弁に転任(『弁官補任』)。 |
正中3年 | 1326年 | 2月19日 | 右大弁に転任(『公卿補任』[3])。 |
嘉暦2年 | 1327年 | 1月5日 | 正四位上に昇叙(『公卿補任』[3])。 |
7月16日 | 従三位に昇叙(『公卿補任』[3])。 | ||
閏9月20日 | 造興福寺長官に補任(『公卿補任』[3])。 | ||
嘉暦3年 | 1328年 | 3月16日 | 参議に補任(『公卿補任』[3])。 |
9月23日 | 左京大夫を兼任(『公卿補任』[3])。 | ||
元徳元年 | 1329年 | 1月13日 | 周防権守を兼任(『公卿補任』[3])。 |
2月12日 | 周防権守・右大弁を辞職、正三位に昇叙(『公卿補任』[3])。 | ||
元徳2年 | 1330年 | 11月7日 | 還任(『公卿補任』[3])。 |
元弘元年/元徳3年 | 1331年 | 1月13日 | 再び辞職(『公卿補任』[3])。 |
元弘3年/正慶2年 | 1333年 | 6月12日 | 再び還任し、右大弁を兼任(『公卿補任』[3])。 |
9月23日 | 造興福寺長官に補任(『公卿補任』[3])。 | ||
建武元年 | 1334年 | 1月13日 | 信濃権守を兼任(『公卿補任』[3])。 |
9月4日 | 大蔵卿を兼任(『公卿補任』[3])。 | ||
9月28日 | 従二位に昇叙(『公卿補任』[3])。 | ||
12月17日 | 大蔵卿を停任(『公卿補任』[3])。 | ||
延元2年/建武4年 | 1337年 | 1月7日 | 左大弁に転ず(北朝)(『公卿補任』[3])。 |
3月29日 | 辞職(『公卿補任』[3])。南朝(吉野朝廷)へ参候したか。 | ||
延元3年/暦応元年 | 1338年 | 3月21日 | 吉野行宮で薨去(『公卿補任』[3]) 享年56?[注釈 1] |
脚注
注釈
出典
- ^ 『増鏡』巻11「さしぐし」
- ^ a b 『続千載和歌集』羇旅歌
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 『大日本史料』6編4冊769頁.
- ^ 『大日本史料』6編1冊138頁.
- ^ 建武年間記 1932, p. 751.
- ^ a b c 『大日本史料』6編4冊390–393頁.
- ^ 正宗 1937, p. 209.
- ^ 正宗 1937, p. 62.
- ^ 正宗 1937, p. 132.
- ^ 博文館編輯局 1913, pp. 459–462.
- ^ a b 今井 & 内藤 1914, p. 532.
- ^ 宇内日呂志『司馬遼太郎の「日本人論」と現代の日本 二十一世紀の日本人にその声は届いているか』ブイツーソリューション、2017年 。
- ^ a b 杉山 2016, pp. 222–223.
- ^ a b 杉山 2016, pp. 209–215.
- ^ 正宗 1937, p. 239.