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'''大宛'''︵[[呉音]]‥だいおん、[[漢音]]‥たいえん、{{ピン音|Dàyuān}}︶は、[[紀元前2世紀]]頃より[[中央アジア]]の[[フェルガナ]]地方に存在した[[アーリア]]系民族の国家。大宛︵だいえん︶とは固有名詞を漢字に転写したものではなく、広大な[[オアシス]]という意味らしい |
'''大宛'''︵[[呉音]]‥だいおん、[[漢音]]‥たいえん、{{ピン音|Dàyuān}}︶は、[[紀元前2世紀]]頃より[[中央アジア]]の[[フェルガナ]]地方に存在した[[アーリア人|アーリア]]系民族の国家。大宛︵だいえん︶とは固有名詞を漢字に転写したものではなく、広大な[[オアシス]]という意味らしい{{Sfn|岩村|2007|p=81}}。しばらく中国史書では大宛という名を使用したが、﹃[[魏書]]﹄以降はフェルガナの転写と思われる'''洛那国'''<ref name="#1">﹃魏書﹄西域伝</ref>・'''破洛那国'''<ref name="#2">﹃北史﹄西域伝</ref>・'''鏺汗国'''<ref>﹃隋書﹄、﹃新唐書﹄</ref>・'''抜汗那国'''<ref>﹃新唐書﹄</ref>・'''㤄捍国'''<ref>﹃[[大唐西域記]]﹄。</ref>{{Efn|name="futsu"|﹁㤄﹂の字は﹁忄+巿︵ふつ︶﹂。}}などが使用された。
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[[ファイル:Western Regions in The 1st century BC (ja).png|thumb|400px|[[紀元前1世紀]]の西域諸国。]] |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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===張騫以前=== |
=== 張騫以前 === |
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[[紀元前129年]]頃に[[前漢]]の[[張騫]]が訪れるまで、この地︵[[フェルガナ]]︶は史上に知られていなかった。それは、[[紀元前6世紀]]以降の[[アケメネス朝]]にしても[[アレクサンドロス3世]]︵大王︶にしても、ヤクサルテス川︵[[シルダリア川|シル・ダリア]]︶を越えてこの地にまで踏み込むことがなかったためであり、ましてや中華王朝がこの地に進出することがなかったためである。しかしながら[[考古学]]上、紀元前2千年代からこの地には[[青銅器時代]]を迎えた定住民が暮らしており、文化的には[[生命の木 |
[[紀元前129年]]頃に[[前漢]]の[[張騫]]が訪れるまで、この地︵[[フェルガナ]]︶は史上に知られていなかった。それは、[[紀元前6世紀]]以降の[[アケメネス朝]]にしても[[アレクサンドロス3世]]︵大王︶にしても、ヤクサルテス川︵[[シルダリア川|シル・ダリア]]︶を越えてこの地にまで踏み込むことがなかったためであり、ましてや中華王朝がこの地に進出することがなかったためである。しかしながら[[考古学]]上、紀元前2千年代からこの地には[[青銅器時代]]を迎えた定住民が暮らしており、文化的には[[生命の木|生命樹]]や[[ジッグラト]]といった[[メソポタミア文明]]の影響を受けていたことがわかっている{{Sfn|小松|2005|p=92}}。やがて、この地に[[イラン系]]の人々︵いわゆる[[アーリア人]]や[[サカ人]]︶が南下して移住することとなり、大宛建国に至る。
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=== 張騫の西域訪問 === |
=== 張騫の西域訪問 === |
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[[File:紀元前2世紀西域地図.png|400px|thumb|紀元前2世紀頃の中央アジアの地図]] |
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大宛は以前から漢と通商したいと望んでいたので、王は事情を聞き、とりあえず張騫たちを隣国の[[康居]]まで道案内をつけて送ってやった。そしてその康居も、張騫たちを目的地である[[大月氏]]まで送ってやった。
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大宛は以前から漢と通商したいと望んでいたので、王は事情を聞き、とりあえず張騫たちを隣国の[[康居]]まで道案内をつけて送ってやった。そしてその康居も、張騫たちを目的地である[[大月氏]]まで送ってやった。
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ようやく大月氏に着いた張騫たちは、漢とともに匈奴を挟撃してもらう旨を伝えたが、すでに大月氏には匈奴を討つ必要性がなくなっていたので、はっきりした返答がもらえなかった。1年後、張騫たちは[[シルクロード#シ |
ようやく大月氏に着いた張騫たちは、漢とともに匈奴を挟撃してもらう旨を伝えたが、すでに大月氏には匈奴を討つ必要性がなくなっていたので、はっきりした返答がもらえなかった。1年後、張騫たちは[[シルクロード#オアシスの道|西域南道]]を通って帰ったが、またも匈奴に捕まってしまい、1年あまり抑留された。張騫たちは匈奴の混乱に乗じて再び脱出し、13年ぶりに漢に帰国した。出発時にいた100人余りの使者は、張騫と堂邑の甘父の二人だけとなった。2人はそれぞれ太中大夫・奉使君にとりたてられた<ref name="#3">﹃史記﹄大宛列伝</ref>。
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{{main|{{ill2|漢宛戦争|en|War of the Heavenly Horses}}}} |
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やがて漢と大宛が国交を結び、武帝は大宛の[[汗血馬]]を愛好するようになった。武帝はある時、汗血馬が大宛の弐師城におかれていることを知ると、ほしくなったので、千金と金製の馬を持たせた使者を大宛に送り、千金と金製の馬で汗血馬を買おうとした。しかし、大宛は漢の足元を見て断ったため、武帝は怒り、[[李広利]]を弐師将軍に任命し、[[太初 (漢)|太初]]元年([[紀元前104年|前104年]])、大宛討伐を行った。しかし、[[蝗害]]と[[飢餓]]で一つの城も落とすことができず、[[敦煌]]まで撤退した。これについて李広利は兵力が不十分だったので、もう一度遠征軍を出すことを請うたが、武帝は激怒し、李広利らを入国させなかった。 |
やがて漢と大宛が国交を結び、武帝は大宛の[[汗血馬]]を愛好するようになった。武帝はある時、汗血馬が大宛の弐師城におかれていることを知ると、ほしくなったので、千金と金製の馬を持たせた使者を大宛に送り、千金と金製の馬で汗血馬を買おうとした。しかし、大宛は漢の足元を見て断ったため、武帝は怒り、[[李広利]]を弐師将軍に任命し、[[太初 (漢)|太初]]元年([[紀元前104年|前104年]])、大宛討伐を行った。しかし、[[蝗害]]と[[飢餓]]で一つの城も落とすことができず、[[敦煌郡|敦煌]]まで撤退した。これについて李広利は兵力が不十分だったので、もう一度遠征軍を出すことを請うたが、武帝は激怒し、李広利らを入国させなかった。 |
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しかし、武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、太初3年([[紀元前102年|前102年]])、一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍で、再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。 |
しかし、武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、太初3年([[紀元前102年|前102年]])、一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍で、再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。 |
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大宛の軍は漢軍を迎え撃ったが、漢軍の方が優勢だったので、[[籠城]]することにした。李広利は城の水源を絶ち、40日余りも包囲した末、外城を破壊し、大宛勇将の[[煎靡]]を捕虜とした。
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大宛の軍は漢軍を迎え撃ったが、漢軍の方が優勢だったので、[[籠城]]することにした。李広利は城の水源を絶ち、40日余りも包囲した末、外城を破壊し、大宛勇将の[[煎靡]]を捕虜とした。
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汗血馬を差し出すのを拒んだために、このような事態になったので、大宛貴族たちは相談して大宛王の[[毋寡]]を殺し、漢軍にその首と汗血馬を差し出し、停戦を申し込むことにした。李広利らはこれを承諾し、軍を引いた。大宛王が殺されたので、漢は大宛貴族であった[[昧蔡]]という者を新たな王とした。しかしその後、大宛貴族たちは昧蔡を売国奴として殺害し、毋寡の弟の[[蝉封]]を大宛王に即位させ、その子を人質として漢に送った。
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汗血馬を差し出すのを拒んだために、このような事態になったので、大宛貴族たちは相談して大宛王の[[毋寡]]を殺し、漢軍にその首と汗血馬を差し出し、停戦を申し込むことにした。李広利らはこれを承諾し、軍を引いた。大宛王が殺されたので、漢は大宛貴族であった[[昧蔡]]という者を新たな大宛王とした。しかしその後、大宛貴族たちは昧蔡を売国奴として殺害し、毋寡の弟の[[蝉封]]を大宛王に即位させ、その子を人質として漢に送った{{Sfn|岩村|2007|pp=85-86}}<ref>﹃漢書﹄西域伝上</ref>。
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<ref>岩村 2007,p85-86</ref><ref>『漢書』西域伝上</ref> |
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=== 後漢の時代 === |
=== 後漢の時代 === |
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[[File:1世紀のタリム盆地.png|400px|thumb|1世紀のタリム盆地]] |
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⚫ | [[後漢]]の[[光武帝]]の時代、[[西域]]諸国の中で最も強勢を誇った[[莎車]]国王の[[賢 (莎車王)|賢]]は、大宛からの税が少ないとし、自ら諸国の兵数万人を率いて大宛を攻め、大宛王の[[延留]]を降伏させ、新たに[[拘弥]]王の[[橋塞提]]を大宛王とした。しかし、康居がこれを攻撃し、橋塞提が逃亡したので、賢はふたたび延留を大宛王に戻した。 |
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=== 西晋の時代 === |
=== 西晋の時代 === |
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[[西晋]]の[[太康 (晋)|太康]]6年︵[[285年]]︶、武帝 |
[[西晋]]の[[太康 (晋)|太康]]6年([[285年]])、武帝[[司馬炎]]は遣使の[[楊顥]]を送り、[[藍庾]]を大宛王に封じた。藍庾が死に、その子の[[摩之]]が立ち、朝貢して汗血馬を献じた。 |
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「大宛」の名は[[西晋]]まで見られるが、以後はフェルガナの音訳である「破洛那」などが用いられるようになった<ref>『晋書』四夷伝</ref>。 |
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[[File:5世紀のタリム盆地.png|400px|thumb|5世紀のタリム盆地の勢力図]] |
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[[南北朝時代 (中国)|北朝の時代]]は'''破洛那国'''と呼ばれ、[[北魏]]の[[太和 (北魏)|太和]]3年([[479年]])、北魏に遣使を送って[[汗血馬]]を献じた。この頃は遊牧国家[[エフタル]]の支配下にあった。 |
[[南北朝時代 (中国)|北朝の時代]]は'''破洛那国'''と呼ばれ、[[北魏]]の[[太和 (北魏)|太和]]3年([[479年]])、北魏に遣使を送って[[汗血馬]]を献じた。この頃は遊牧国家[[エフタル]]の支配下にあった。 |
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[[567年]]頃、エフタルは[[突厥]]の[[室点蜜]](イステミ)と[[サーサーン朝]]の挟撃にあって崩壊し、フェルガナは突厥の支配下に入る。 |
[[567年]]頃、エフタルは[[突厥]]の[[室点蜜]](イステミ)と[[サーサーン朝]]の挟撃にあって崩壊し、フェルガナは突厥の支配下に入る。 |
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﹃[[北史]]﹄や﹃[[隋書]]﹄に﹁'''鏺汗国'''、古の渠搜国なり、王姓は昭武、字は阿利柒﹂とあるが、﹃[[新唐書]]﹄に﹁寧遠国とは、もとの |
﹃[[北史]]﹄や﹃[[隋書]]﹄に﹁'''鏺汗国'''、古の渠搜国なり、王姓は昭武、字は阿利柒﹂とあるが、﹃[[新唐書]]﹄に﹁寧遠国とは、もとの抜汗那で、あるいは鏺汗と言い、北魏時は破洛那と言った﹂とあるので、これもフェルガナの転写だと思われる。鏺汗国は[[大業]]年間︵[[605年]] - [[618年]]︶、[[隋]]に遣使を送って朝貢した<ref name="#1"/><ref name="#2"/>。
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<ref>『魏書』西域伝</ref><ref>『北史』西域伝</ref> |
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[[File:7世紀のタリム盆地(大唐西域記).png|400px|thumb|7世紀のタリム盆地(大唐西域記)]] |
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[[唐]]代は''' |
[[唐]]代は'''抜汗那国'''と呼ばれ、[[西突厥]]の支配下にあった。 |
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[[貞観 (唐)|貞観]] |
[[貞観 (唐)|貞観]]年間︵[[627年]] - [[649年]]︶、抜汗那王の契苾が西突厥の統莫賀咄に殺されたので、阿瑟那鼠匿はその城を奪って抜汗那王位に就いた。鼠匿が死ぬと、子の遏波之は契苾の兄の子である阿了参を立てて抜汗那王とし、呼閟城に住まわせ、自分は渇塞城に住んだ。
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[[顕慶]]([[656年]] - [[661年]])の初め、遏波之が遣使を送って唐に朝貢したので、[[高宗 (唐)|高宗]]は厚く慰諭してやった。 |
[[顕慶]]([[656年]] - [[661年]])の初め、遏波之が遣使を送って唐に朝貢したので、[[高宗 (唐)|高宗]]は厚く慰諭してやった。 |
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顕慶3年([[658年]])、唐は渇塞城を[[休循州 |
顕慶3年([[658年]])、唐は渇塞城を[[休循州]]都督とし、阿了参にその[[刺史]]を任せた。 |
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[[開元]]27年︵[[739年]]︶、 |
[[開元]]27年︵[[739年]]︶、[[突騎施]]︵テュルギシュ︶の都摩支が[[吐火仙]]可汗を奉じて謀反を起こしたので、[[北庭都護]]の[[蓋嘉運]]と突騎施酋長の[[莫賀達干 (突騎施)|莫賀達干]]︵バガ・タルカン︶は石︵[[タシュケント|チャーチュ]]︶王の莫賀咄吐屯︵バガテュル・トゥドゥン︶・史︵[[シャフリサブス|ケシュ]]︶王の斯謹提を率いて吐火仙可汗を討伐し、碎葉︵[[スイアブ]]︶城を陥落させて彼を捕えた。一方、抜汗那王の阿悉爛達干︵アスラン・タルカン︶{{Efn|アスラン︵aslan︶もしくは[[アルスラン]]︵arslan︶は[[テュルク系]]の言葉で﹁[[ライオン|獅子]]﹂を意味する。}}は[[疏勒]]鎮守使の[[夫蒙霊詧]]と共に怛邏斯︵[[タラス]]︶城を攻撃して黒姓可汗︵カラ・カガン︶の[[爾微特勤]]を斬った。阿悉爛達干はこの功により奉化王に冊立された。
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[[天宝 (唐)|天宝]]3載︵[[744年]]︶、唐は |
[[天宝 (唐)|天宝]]3載︵[[744年]]︶、唐は抜汗那国を'''寧遠国'''と改名し、[[玄宗 (唐)|玄宗]]は唐の外家姓である竇氏を賜い、宗室の娘を和義公主に封じて寧遠王に降嫁した。
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天宝13載([[754年]])、寧遠王の竇忠節は子の竇薛裕を遣わして唐に入朝し、宿衛に駐留することを請願したので、左武衛将軍を授けられた。 |
天宝13載([[754年]])、寧遠王の竇忠節は子の竇薛裕を遣わして唐に入朝し、宿衛に駐留することを請願したので、左武衛将軍を授けられた。 |
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また、『[[大唐西域記]]』や『新唐書』には'''㤄捍国''' |
また、﹃[[大唐西域記]]﹄や﹃新唐書﹄には'''㤄捍国'''{{Efn|name="futsu"}}という国名が記載されており、これもフェルガナの転写だと思われるが、﹃新唐書﹄で寧遠国と併記されているので寧遠国とは違うようである<ref>﹃旧唐書﹄西戎伝</ref><ref>﹃新唐書﹄突厥下、西域伝下</ref>。
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== 習俗 == |
== 習俗 == |
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大宛は貴山城を治とする王によって統治され、人々は城郭に住み、支配下の[[オアシス]]は70余、戸数6万、人口30万を擁した。土着の農耕民族で、[[ウマ|馬]]や[[ワイン]]を特産としていた。従って、武帝が大宛の名馬[[汗血馬]]を入手するため[[李広利]]の遠征軍を派遣し、大宛はこれに敗れたため、一旦、漢の影響下に入った。 |
大宛は貴山城を治とする王によって統治され、人々は城郭に住み、支配下の[[オアシス]]は70余、戸数6万、人口30万を擁した。土着の農耕民族で、[[ウマ|馬]]や[[ワイン]]を特産としていた。従って、武帝が大宛の名馬[[汗血馬]]を入手するため[[李広利]]の遠征軍を派遣し、大宛はこれに敗れたため、一旦、漢の影響下に入った<ref name="#3"/>。 |
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<ref>『史記』大宛列伝</ref> |
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== 地理 == |
== 地理 == |
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大宛国があった場所は、現在の[[ウズベキスタン共和国]]の[[フェルガナ盆地]]︵[[フェルガナ州]] |
大宛国があった場所は、現在の[[ウズベキスタン共和国]]の[[フェルガナ盆地]]︵[[フェルガナ州]]・[[ナマンガン州]]・[[アンディジャン州]]︶にあたるとされている。当時は北西に[[康居]]、西に[[大月氏]]、西南に[[大夏]]、東に[[拘弥]]・于窴︵[[于闐]]︶・[[疏勒]]などの[[西域]]36国︵[[タリム盆地]]︶、東北に[[烏孫]]があった。また、漢の武帝が大宛遠征をした弐師城は、現在の[[キルギス共和国]][[オシ]]︵フェルガナ盆地の東南︶に比定されている{{Efn|19世紀の終わりごろからヨーロッパの東洋学者たちを中心に、﹁弐師﹂をギリシア史料のいう﹁ニサ﹂に比定する説が広まったが、現在では反対説が存在する{{Sfn|岩村|2007|p=87}}。}}。
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==㤄捍国== |
== 㤄捍国 == |
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[[玄奘三蔵]]は『[[大唐西域記]]』で次のように伝える。 |
[[玄奘三蔵]]は『[[大唐西域記]]』で次のように伝える。 |
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{{Quotation|㤄捍国 |
{{Quotation|㤄捍国{{Efn|name="futsu"}}は周囲4千里あり、山が四方をめぐっている。土地は肥沃に、農業は盛んである。花や果物が多く、羊や馬に適している。気候は風寒く、人の性質は剛勇である。言語は諸国と異なり、顔かたちは醜く劣っている{{Efn|玄奘の伝聞にすぎない言葉であろうから、深く詮議するに当たらないが、フェルガナは元来[[イラン系]]民族が住んでいたらしい。[[アレクサンドロス3世]]︵大王︶も当地には侵入していない。ただ[[クシャーナ朝|クシャン王朝]]は当地を併合したが、人種的にはほぼ同系とみられるから大きな変化を見せたとは思えない。漢代の記事ではあるが、﹁大宛より以西、[[安息]]に至るまでは、国ごとに頗る言語を異にするといえども、大いに習俗を同じくし、互いの言葉を知っている。その人みな深眼にして鬚が多く、市賈を善くして分銖を争う。俗として女子を貴び、女子の言うことで男子は正を決す。﹂とある。}}。ここ数十年来、大君主はなく、力のある豪族が競い合っていて、互いに服従しようとしない{{Efn|﹃新唐書﹄西域伝下によれば、﹁[[魏 (三国)|魏]]・[[西晋|晋]]より王統の絶えることなく﹂統一されていたが、唐の[[貞観 (唐)|貞観]]年間に遏波之と阿了参が呼悶城と渇塞城に分かれて統治して以降、[[シルダリヤ川|シル川]]の北に﹁大城6・小城100﹂という状態になった。}}。川に依り険に拠り、土地を画して首都を別にしている。これより西へ行くこと千余里で窣堵利瑟那︵ストリシナ︶国に至る。|玄奘三蔵|大唐西域記}}
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『[[新唐書]]』西域伝下の記述もほぼ同様であるが、 |
『[[新唐書]]』西域伝下の記述もほぼ同様であるが、㤄捍国と寧遠国の条を併記しているということは、上記のようにフェルガナが分裂状態にあっていくつかの政権が存在していたためだと思われる。 |
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== おもな大宛王 == |
== おもな大宛王 == |
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;竇氏 |
;竇氏 |
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*竇忠節 |
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*竇薛裕…忠節の子 |
*竇薛裕…竇忠節の子 |
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* {{Cite book|和書|author=玄奘|authorlink=玄奘|title=[[大唐西域記]]|translator=[[水谷真成]]|publisher=[[平凡社]]|year=1999|isbn=4582806538}} |
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⚫ | * {{Citation|和書|last=岩村|first=忍|authorlink=岩村忍|title=文明の十字路=中央アジアの歴史|year=2007|publisher=[[講談社]]|isbn=9784061598034}} |
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⚫ | * {{Citation|和書|last=小松|first=久男|authorlink=小松久男|series=世界各国史4|title=中央ユーラシア史|publisher=[[山川出版社]]|year=2005|isbn=463441340X}} |
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== 関連項目 == |
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*[[楼蘭]] |
*[[楼蘭]] |
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*『[[史記]]』(大宛列伝) |
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*『[[後漢書]]』(西域伝) |
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*『[[晋書]]』(四夷伝) |
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*『[[新唐書]]』(突厥下、西域伝下) |
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*[[玄奘]]『[[大唐西域記]]』([[水谷真成]]訳、[[平凡社]]、[[1999年]]、ISBN 4582806538) |
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[[Category:中国史の民族]] |
[[Category:中国史の民族]] |
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[[Category:中央ユーラシア史]] |
[[Category:中央ユーラシア史]] |
2023年9月7日 (木) 15:55時点における最新版
歴史[編集]
張騫以前[編集]
紀元前129年頃に前漢の張騫が訪れるまで、この地︵フェルガナ︶は史上に知られていなかった。それは、紀元前6世紀以降のアケメネス朝にしてもアレクサンドロス3世︵大王︶にしても、ヤクサルテス川︵シル・ダリア︶を越えてこの地にまで踏み込むことがなかったためであり、ましてや中華王朝がこの地に進出することがなかったためである。しかしながら考古学上、紀元前2千年代からこの地には青銅器時代を迎えた定住民が暮らしており、文化的には生命樹やジッグラトといったメソポタミア文明の影響を受けていたことがわかっている[7]。やがて、この地にイラン系の人々︵いわゆるアーリア人やサカ人︶が南下して移住することとなり、大宛建国に至る。張騫の西域訪問[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f6/%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D2%E4%B8%96%E7%B4%80%E8%A5%BF%E5%9F%9F%E5%9C%B0%E5%9B%B3.png/400px-%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D2%E4%B8%96%E7%B4%80%E8%A5%BF%E5%9F%9F%E5%9C%B0%E5%9B%B3.png)
二度の大宛討伐[編集]
後漢の時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/db/1%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%A0%E7%9B%86%E5%9C%B0.png/400px-1%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%A0%E7%9B%86%E5%9C%B0.png)
西晋の時代[編集]
西晋の太康6年︵285年︶、武帝司馬炎は遣使の楊顥を送り、藍庾を大宛王に封じた。藍庾が死に、その子の摩之が立ち、朝貢して汗血馬を献じた。 ﹁大宛﹂の名は西晋まで見られるが、以後はフェルガナの音訳である﹁破洛那﹂などが用いられるようになった[12]。南北朝時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/db/5%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%A0%E7%9B%86%E5%9C%B0.png/400px-5%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%A0%E7%9B%86%E5%9C%B0.png)
唐代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6a/7%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%A0%E7%9B%86%E5%9C%B0%EF%BC%88%E5%A4%A7%E5%94%90%E8%A5%BF%E5%9F%9F%E8%A8%98%EF%BC%89.png/400px-7%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%A0%E7%9B%86%E5%9C%B0%EF%BC%88%E5%A4%A7%E5%94%90%E8%A5%BF%E5%9F%9F%E8%A8%98%EF%BC%89.png)
習俗[編集]
大宛は貴山城を治とする王によって統治され、人々は城郭に住み、支配下のオアシスは70余、戸数6万、人口30万を擁した。土着の農耕民族で、馬やワインを特産としていた。従って、武帝が大宛の名馬汗血馬を入手するため李広利の遠征軍を派遣し、大宛はこれに敗れたため、一旦、漢の影響下に入った[8]。地理[編集]
大宛国があった場所は、現在のウズベキスタン共和国のフェルガナ盆地︵フェルガナ州・ナマンガン州・アンディジャン州︶にあたるとされている。当時は北西に康居、西に大月氏、西南に大夏、東に拘弥・于窴︵于闐︶・疏勒などの西域36国︵タリム盆地︶、東北に烏孫があった。また、漢の武帝が大宛遠征をした弐師城は、現在のキルギス共和国オシ︵フェルガナ盆地の東南︶に比定されている[注釈 3]。㤄捍国[編集]
玄奘三蔵は﹃大唐西域記﹄で次のように伝える。 㤄捍国[注釈 1]は周囲4千里あり、山が四方をめぐっている。土地は肥沃に、農業は盛んである。花や果物が多く、羊や馬に適している。気候は風寒く、人の性質は剛勇である。言語は諸国と異なり、顔かたちは醜く劣っている[注釈 4]。ここ数十年来、大君主はなく、力のある豪族が競い合っていて、互いに服従しようとしない[注釈 5]。川に依り険に拠り、土地を画して首都を別にしている。これより西へ行くこと千余里で窣堵利瑟那︵ストリシナ︶国に至る。 — 玄奘三蔵、大唐西域記 ﹃新唐書﹄西域伝下の記述もほぼ同様であるが、㤄捍国と寧遠国の条を併記しているということは、上記のようにフェルガナが分裂状態にあっていくつかの政権が存在していたためだと思われる。おもな大宛王[編集]
前漢の時代[編集]
- 毋寡
- 昧蔡
- 蝉封…毋寡の弟
後漢の時代[編集]
- 延留
- 橋塞提
- 延留…復位
西晋の時代[編集]
- 藍庾
- 摩之…藍庾の子
隋代[編集]
- 昭武氏
- 昭武阿利柒
唐代[編集]
- 契苾
- 阿瑟那鼠匿
- 阿了参…契苾の兄の子
- 遏波之…鼠匿の子
- 阿悉爛達干(奉化王)
- 竇氏
- 竇忠節
- 竇薛裕…竇忠節の子